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2 進撃

 石造りの広大な闘技場。

 中天にのぼった太陽が、ギラギラと熱を放っている。

 一見して野外に思えるここは、月光殿の地下60階層、『武闘の間』である。

 そのアリーナの中心に、一組の男女が向かい合って立っていた。


「はあッ!!」


 みずみずしい青い肌の可愛らしい少女が、その見た目からは想像もつかない覇気のこもった声を上げる。

 少女の手には先が三叉に分かれた長槍が握られており、彼女はそれを信じられない速度で縦横無尽に振るっている。

 その槍さばきは音速をゆうに超え、攻撃を繰り出すたびに衝撃波が生じ、アリーナに爆音が響き渡る。

 しかし、これは全力ではない。

 少女が本気を出せば、その速度はさらに上がり、やがては物理法則を超越して時間や空間すら破壊できるに至る。

 これが、ギルド最強の大幹部が一人にして、ゲーム中でも指折りの近接戦闘力を誇る種族『シヴァ』たるマルギット・シュメルツァーの力だ。


「ふッ……!」


 しかし、そんな彼女の槍に剣を打ち合わせ、そのすべての攻撃を完璧に防ぐ者が居た。

 全身を黒く輝くフルプレートの鎧で包み、その手にはきらびやかな装飾の施された長剣がある。

 その剣をふるう速度は、マルギットの超高速の槍に見事に追いついている。

 とても重圧な鎧を着ているとは思えない。


 ガキンッ、と、ひときわ大きな音を立てて、槍と剣がぶつかった。

 両者は、互いの武器を交差させた姿勢で、しばし動きを止める。

 その静寂を破ったのは、少女、マルギットの方であった。


「……お見事です! 主様」


 彼女はそう言って、突き出していた槍を引きもどし、深々と頭を下げた。


「いや、大したものではない。

 武器を振るのは久々だし、むしろ俺が胸を借りさせてもらったようなものだ。

 ……感謝する。いい運動になった」


 黒いフルプレートの男が、剣を腰の鞘に収め、ヘルムを持ち上げてその頭部を晒した。

 そこには、汗ひとつかいていないネグロの顔があった。


「いえ! 感謝なんてそんな!

 主様と武器を交えさせていただく光栄を賜っただけで、このマルギット、恐悦の至り!

 またご用命があれば、ぜひ、私をお呼びつけくださいっ!!」


 幼く快活な声で、マルギットが告げる。

 その声には喜色が溢れ、表情は恐縮していながらも、抑えきれない喜びが見て取れた。


「ああ。またそのうち、模擬戦などを頼むかもしれない。

 今度はもっと本気を出して、な」


 そう言ってネグロは、右手を軽く横に振った。

 すると彼がまとっていた鎧は、まるで溶けるように空中へと消え去っていった。

 鎧を脱ぎ去ったネグロは、いつもの黒いシャツ姿に戻っていた。


 ネグロはここ数日、自身やNPCたちの身体能力やスキルが、ゲームと同じように発揮できるかどうかを調べていた。

 その結果。


「問題なく、ゲームとほぼ同じように動けるみたいだな」


 どころか、下手をするとゲームの時以上によく動けた。


「スキルの使用も問題なし……。

 これなら、最悪月光殿に引きこもり続けても大丈夫か」


 レウコン・イーリスは、そのギルドを構成するNPCたちのスキルによって、完全な自給自足システムを構築している。

 元となる素材を一切用いずに、時間さえかければ、食べ物や道具を無限に創造できるのだ。

 ベルタからの報告によって、それら生産系スキルは、ゲーム時代と全く変わりなく使用できることが確認済みだ。

 それにネグロやその側近のエヴァが持つ特殊な生産系スキルを加えれば、大概のものは創りだすことが出来る。

 もし月光殿の外界がネグロたちよりもはるかに強い存在であふれていた場合、ネグロは月光殿の出入口を封鎖して身を守る算段であった。

 その際、彼の生産系スキルがあれば、非常に便利であるため、こういったスキルが使用できることを確認するのは、ネグロにとって急務であった。


「今まで集めてきたアイテムもちゃんとあるしな」


 ネグロは、腰に下げている剣を見やる。

 先ほどマルギットとの模擬戦に使用したものだ。

 『トゥルー・エクスカリバー』。

 ゲーム中でも随一の強力な剣「エクスカリバー」を最終段階まで強化したものだ。

 彼はプレイヤーとしてこのゲームを遊んでいた頃、凝り性を発揮してありとあらゆるアイテムを収集していた。

 集めるだけ集めて使うつもりはなかったのだが、こういった状況では使えるアイテムが多いというのは非常に心強い。

 トゥルー・エクスカリバーをはじめとする強力な武具や、死者すら復活させる回復の霊薬など、これらがあれば万が一の時も生存率を上げることが出来るだろう。


「そのうち、もっと強力なスキルも試したいものだ」


 スキルや身体能力の確認ができたとはいえ、ネグロは未だに全力を出してはいない。

 先ほどの模擬戦も、ネグロ、マルギット双方にとっては、戦いにすら満たないお遊びのようなものだ。

 ネグロや大幹部などの高位ギルド員が修得するスキルの中には、「大陸すら一撃で滅ぼす」などの設定を持つ強力な攻撃スキルなどもあるのだ。

 彼としては、そういったスキルが本当に設定どおり大陸すら滅ぼせるのかを確かめたいところであった。

 なにせ、ゲーム中で実際に大陸が滅ぼせてしまったら、さすがに困る。

 そのため、こういった大仰な説明文を持つスキルは、巨大な攻撃範囲と馬鹿げた攻撃力、やたらと派手なエフェクトを持つただの攻撃にすぎなかった。

 しかし、ゲームが現実化したことによって、こういったテキストとしてのみ存在していた設定も、現実になっているらしいことが分かっている。

 こういった説明がどこまで忠実に現実に反映されているかを、ネグロは確かめたいと考えていた。


「……とはいえ、月光殿の中でスキルを使って確かめるわけにはいかないよな」


 ともすれば技の威力が恐ろしく向上している可能性もある。

 月光殿は生半可な攻撃では崩壊しないほどの頑強なダンジョンだし、設定上ではそういった世界を滅ぼすレベルの攻撃をも無効化できる手段を持つギルド員はそこそこ存在する。

 しかし、最悪の場合を考えて、ネグロはそういったスキルの使用を控えていた。

 まだ未知の多い月光殿の外にノコノコ出て行って実験するわけにもいかないため、こういった一部スキルの検証は、いまのところ見送られている。


「はあ……。外に出たい」

「ネグロ様」

「ん?」


 自身を呼ぶ声に、ネグロは振り向いた。

 そこには、眼を閉じて凛然と佇む美女、ネグロの側近であるエヴァがいた。


「どうした」

「はい。月光殿周辺20キロメートルの調査が完了したことをご報告に上がりました」

「ほう。早いな」


 ネグロが命令を出してからまだ2日と経っていない。

 準備時間も含めれば、ほぼ1日で仕事を終えたことになる。


「それで……面白い発見はあったか?」

「はい。いくつかお耳に入れたい情報があります。

 ここでご確認されますか?」

「……いや。参謀隊を交えて、調査団本人から詳しく聞こう。

 調査の責任者は?」

「ビーチェ・ブラッキアリです」

「ほう、ビーチェか。

 そういえば、世界が"こうなって"からは会ってないな。

 ……よし、では俺はビーチェのもとへ行く。

 エヴァ、お前はマルギットと一緒にここを片付けてから、参謀隊の者を連れて俺のもとへ来い」

「かしこまりました」


 エヴァに指示を与えたネグロは、スキル『ゲート』を発動し、空中に現れた扉をくぐって姿を消した。

 主人が去ったことで、エヴァはようやく、先程からそばに立っていたマルギットへと視線を向けた。


「ネグロ様と何をしていたの?

 ずいぶんと闘技場が荒れているけど」


 エヴァはそう問いかけながら、周囲を見回すように首を動かした。

 所々、強い衝撃を受けたように石畳が割れたり剥げたり、あるいは何らかの魔法を受けたか、焦げたり歪んだりといったのが目につく。

 眼を閉じていながらも、エヴァはその様相を事細かに把握していた。

 ネグロが言っていた「片付ける」というのは、この荒れた闘技場を修繕しろという意味であろう。


「うむ! ちょっとな。

 主様が、ステータスの確認だとかで、スキルの練習や身体能力の確認のため、ここを使用なされたのだ。

 そのついでにと、我と主様とで模擬戦もさせていただいた!」

「……なんですって」


 穏やかだったエヴァの雰囲気が一変して熱を帯び始めた。


「我は武器としてこの『トリシューラ』を、主様はトゥルー・エクスカリバーをお使いになられてな!

 短い間だったが、主様と武器を交えさせていただいたのだ!

 それに、模擬戦が終わった後は、主様から直々に感謝のお言葉も……! にししっ!」


 喋っているうちにネグロから受けた言葉を思い出したようで、マルギットは頬に手を当て、幸せそうに身をよじった。

 喜びで顔は紅潮し、彼女の青い肌がほんのりと朱の色を含む。


「……」


 エヴァは静かにマルギットの話に耳を傾けていた。

 その表情は相変わらず、目を伏せて聖女のように穏やかな様子だったが、それに反して彼女の手は強く拳を握り、震えていた。

 エヴァの持つあまりに高いステータスといくつかのパッシブスキルによって、彼女が握りしめた拳には得体のしれないエネルギーが収束し、バチバチとスパークのような音を立てはじめる。

 彼女は怒りを抱いているのではない。

 彼女は――


「ネグロ様と二人っきりで模擬戦……。

 ……羨ましい……っ!」


 嫉妬していた。


「実力的には私のほうがネグロ様といい勝負ができるのにっ!」

「ふはははっ! 実力は関係なかろうっ!

 主様の望まれた模擬戦は、ほんの軽い運動程度であったからなあ!

 重要なのは主様からの信頼といったところかなっ!」

「ぐぬぬっ……!」


 エヴァは悔しそうに歯を食いしばって眉をひそめる。

 一方のマルギットはいかにも有頂天な様子で、エヴァの嫉妬を涼しい顔で受け流している。


「ベルタもなんだかここ数日浮かれてるし、あの子がああなるのは絶対にネグロ様がらみだわ。

 マルギットといい、ベルタといい……。

 私もネグロ様からお褒めの言葉が欲しいッ……!」

「お褒めの言葉を頂けるかどうかは、主様次第であるなあ! ふはははっ!!」

「そもそも私は色んな部署を飛び回って細かい雑務を担当してるから、ネグロ様から評価をいただきづらいのよっ!

 不公平だわっ!」

「おやー? お主は主様から賜った任務にケチをつけるのかなあー?」

「そ、そういう訳じゃないけど……! くぅぅ……!!」


 二人の言い争いは、それから数分間続いた。







 防衛隊、戦闘局。

 レウコン・イーリスの構成員のうち、およそ半分はこの戦闘局員が占めている。

 その役目は、武力による月光殿の守護。

 そして必要とあらば外界に進軍、全てを蹂躙し、ギルドの支配下に置くことである。

 その在りようは、ネグロの作り上げたギルドの圧倒的な力、そして絶対的な威光の権化ともいえた。

 戦闘局の内部はさらに細かく細分化されており、月光殿の各階層を守護する100の軍団からなる階層守護軍や、月光殿への闖入者や外界の様子を偵察、報告する偵察軍など多くの部隊を擁する。

 それら全ての軍をまとめあげ、ギルドにおける戦闘行為のほぼ全てを指揮するのが、戦闘局長たるビーチェ・ブラッキアリの使命である。


「報告いたしますっ! 外界から連れ帰ってきた"サンプル"らに対するスキル『コントラクト』の使用、全て成功いたしました!」

「抵抗はされたか?」

「はっ! 最低位の支配魔法をレジストする種がいくつか見られたものの、スキルのランクを一段階上げることで問題なく抵抗を打ち破ることができました!」

「クククッ。そうか。やはり、ザコばかりだな。重畳、重畳」


 直立し二足歩行するトカゲのようなモンスターが、背筋を伸ばして足を揃えるというトカゲらしからぬ姿勢をとり、報告を並べてゆく。

 見た目に反し、その報告する声は、耳に心地よい低音の男声だ。

 それに答えるのは、少女の声であった。

 そのややハスキーな声色は可愛らしくもあるが、同時に地獄の底から響くような威圧も含んでいた。


「き、局長!!」


 そこへ、先のトカゲのものとも、少女のものとも異なる大声が響いた。

 局長。

 その呼び名を受けて反応したのは、少女の方であった。


「ああ……? なんだ。さわがしい」


 少女の声に不機嫌さがにじむ。

 事務机を挟んでトカゲと向かい合っていた彼女は、眉間にしわを寄せ、ゆっくりと視線を動かした。

 少女の纏っていた威圧感はさらに強大になり、吐き気すら催すような殺気が瞬く間に場を満たす。

 先ほどまで背筋に棒を通したかのような見事な気をつけの姿勢だったトカゲの男は、今やその面影もなく、背筋を丸めてブルブルと震えている。

 同様に、殺気に当てられた先ほどの大声を上げたもの――四本の腕を持った鎧姿のモンスターも、そのあまりの威圧感に立ち尽くし、恐怖で言葉を失っている。


「……ったくよお、人がいい気分で報告聞いてるっつうのに……」


 少女が静かに立ち上がる。

 ガシャン、ガシャンと、重い金属同士が擦れ、ぶつかり合うような音が、静まり返った部屋にやけに大きく鳴り渡った。

 彼女こそが、戦闘局の長、ビーチェ・ブラッキアリ。

 幼さと色気の入り混じった美しい躰に、土色をしたボロボロの布で作ったビキニのような衣服をまとい、申し訳程度に各部を隠している。

 頭髪は青みがかった白色で、浮浪者のようなボサボサのミディアムヘア。

 その頭頂には犬のような獣の耳が、そして腰には髪と同じ毛質の尻尾があった。

 しかし何より目を引くのは、彼女の全身に巻き付いた巨大な鎖だ。

 両手足と首に鈍い輝きを放つ重厚な金属の枷をはめ、そこから太く長い鎖がのびているのだ。

 それらは乱雑に彼女の四肢に巻きつけられたり、ネックレスのように首から垂れ下がっていたりしていた。


「……で? 何だ?」


 ビーチェは鎖の音を立てながら四ツ腕の鎧に歩み寄り、そのヘルムの中を覗き込むように顔を近づけた。

 彼女が首にかけた鎖が揺れて、ひときわ大きく金属音が鳴った。

 しばし恐怖のあまり呆然としていた四ツ腕は、ややあって正気に戻ると、早口でまくし立てるように言った。


「だ、だ、大総統閣下がお見えですっ!! まもなくこちらにご到着なされますっ!!」

「……へっ?」


 ビーチェが、少女らしい外見相当の声を上げた。

 獲物を食い殺す猛獣のようだった彼女の表情は、今や唖然としたあどけない少女そのもの。

 部屋を包んでいた禍々しい威圧も、糸が切れたように失われた。

 時間が止まったかのような静寂が訪れる。

 先ほどと変わって、今度はビーチェが呆然としていた。


「……ばっ、ばかやろうっ!! 早く言いやがれっ!!」


 全てを屈服させうるかのごとき先ほどの威厳のある姿はもはや見る陰もなく、ビーチェは慌てた様子でワタワタと部屋の中を動きまわり始めた。


「ああっ!! ネグロ様が来るだってっ!?

 やべえっ! やべえやべえやべえっ!! なんの準備もしてねえよっ!!

 へ、部屋を片付けたほうがいいかっ!?

 飲み物とか、食べ物とかも用意しといたほうがいいかなっ!?

 ああクソッ!! 時間がねえっ!!

 おいてめえらっ、ネグロ様にお出しするものを持ってこいっ!! 大至急だ!!」


 威厳は失われたが、ある意味では先程の何倍もの剣幕で命令されたトカゲの男と四ツ腕の鎧は、返事もろくにせず大慌てで部屋を後にして走り去ってゆく。


「い、い、椅子……! ネグロ様が座る椅子を用意しねえとっ……!!

 こんな貧相な事務椅子じゃあ、ネグロ様に座って頂くわけにはっ……!

 え、えーと……確か、上座とか下座とかあるんだ……よな?

 ぬあああああっ、分かんねえっ!! てか机、邪魔だこれっ!!」


 ビーチェは、部屋の中央にでかでかと置かれた事務机を持ち上げ、置き場を探して部屋のあちこちを見やる。

 彼女が持ち上げている机は決して小さいものではなく、また引き出しの中に書類や事務用具を満載している。

 それをさながら紙の空き箱のように扱っているのが、彼女が見た目とまるで異なる恐ろしい膂力を有しているという事実を表していた。


「くそおおっ……!

 なんで普段から部屋をちゃんとしてなかったんだ、オレはぁっ!!」

「やあビーチェ……ん? 何故机を持ってるんだ?」

「ふあああっ!?」


 ビーチェの耳が最も敬愛する創造主の声をとらえた。

 声を上げてビクッ、と硬直した彼女は、錆びついた機械のようにぎこちない動作で、その音の方へと顔を向ける。

 部屋の入口に、黒いシャツの男――大総統ネグロが立っていた。


「あ、ね、ね、ネグロ様……!!」


 ビーチェの顔色から血の気が失われ、彼女の髪に似た青白い色に染まった。







「いや、すまんな。

 突然訪ねて驚かせてしまったようだ」

「い、いえっ!!

 あのっ、そのっ……滅相もない、です」


 気楽なネグロとは裏腹に、ビーチェの心境は恐縮の極みにあった。

 彼女にしてみれば、まともにネグロを迎える準備も整えられず、あまつさえ机を持ちあげて部屋をウロウロしている無様な姿を見られたのだ。

 結局、机の位置はそのまま。

 椅子も飲み物も用意できず、両者はその場に立ってやりとりをしていた。

 ネグロはまるで気にしていなかったが、一方のビーチェはとてもではないが穏やかな心境では居られない。

 今の彼女は恥辱と罪責感のあまり、自殺したいほどの自己嫌悪に苛まれており、耳はぺたん、と倒れ、尻尾は丸まって彼女の股の間に収まり、ぷるぷると震えていた。


「お待たせいたしました」


 そこへ、新たな女性の声がかかる。


「エヴァと……ニコラか」


 静々と頭を下げる絶世の美女、エヴァ。

 その後ろにもう一人、ネグロに頭を下げる人物が立っていた。

 空色のつややかな長髪を持ち、よれた白衣を着込んでいる。

 その人物がゆっくりと頭を上げると、そこには儚げな美貌を持つ女性の顔があった。

 ニコラ・ジェラルディ。

 参謀隊、情報統制局の局長。

 すなわち、地位としては大幹部ベルタ・ファクラーの直下に位置する人物である。

 その役目は、ギルド内で行われる全ての情報交換の監視と統制であり、各部署からネグロに上がってくる報告も、全てこの情報統制局によって有用な情報が抽出され、まとめられた状態に整形されていた。


「お久しぶりです、大総統閣下。

 そのご尊顔を拝謁賜り、恐悦の至り」


 ニコラが薄く笑みを浮かべながら告げた。

 顔の印象に違わず、こちらも鈴の音のように儚げで澄んだ声色である。

 しかし、ネグロがニコラというNPCを作る際、設定した性別は女性ではなく、男性。

 いわゆる、男の娘であった。


「さて、これで全員揃ったようだな。

 知っての通り、月光殿周辺の調査は、戦闘局の尽力によって極めて迅速に遂行された。

 ご苦労だったな、ビーチェ。見事な働きだ」

「ふぇっ!? あ、ありがとうございますっ!!」


 突如としてネグロからの褒め言葉を受けたビーチェは、慌てた様子で反射的に一礼した。

 それから数瞬遅れて、大総統からお褒めの言葉を賜ったという事実を理解し、ビーチェは徐々に喜色満面の表情へと変わっていった。

 もはや先ほどの陰鬱な雰囲気はかけらも残っていない。

 ネグロから直に褒められたという光栄が、彼女の中の負の感情を全て吹き飛ばしてしまっていた。

 先ほどまで萎縮しきっていた彼女の耳は今やピン、と誇らしげに上を向き、尻尾ははち切れんばかりに左右に振られている。


「……」


 エヴァとニコラは、そんなビーチェを物羨ましげに見る。

 ことにエヴァは、羨望のあまりによく見るとブルブルと身体を震わせてすらいた。


「それで、ビーチェ……それとニコラ。

 いくつか興味深い結果が得られたようだな?

 詳しく報告してくれ」

「はっ!」


 ネグロの言葉を受けて、ビーチェとニコラの両者は表情を引き締め、かかとを揃えて敬礼する。

 もっとも、ビーチェの方は先のネグロから褒められた喜びの余韻を引きずっており、どこか浮かれたような空気をまとっていたが。

 若干浮ついた声で、しかしきれの良い声で、ビーチェはネグロに報告を述べ始める。


「まず、付近一帯に生息する生物を全て魔法で支配し、くまなく調べましたが、レウコン・イーリスの脅威になるようなものは存在しませんでした!」

「ふむ。俺も軽く資料を見たが、ほとんどがレッサー・スライム並みの弱さだったな」

「はいっ。弱いものだとレッサー・スライム並、強いものでもホーンラビット程度でした」

「それは……防衛隊どころか、生産隊や参謀隊の隊員ですらほとんど苦戦せずに勝てるな」


 ギルドが有する武力のほぼ全ては、戦闘を職務とする防衛隊が担っている。

 言い換えれば、防衛隊を除いた生産隊や参謀隊は、戦闘行為を度外視したキャラメイクとなっており、戦いに適した能力をほとんど持っていないのだ。

 月光殿の外にはびこるあのいかにも強そうな生物群は、そんな者達ですら勝てるという。

 例えば、先にネグロが例に挙げたレッサー・スライムは、冒険の最序盤で登場するザコ敵の一体である。

 小さいグミのような体を持つレッサー・スライムは、ステータスが極めて低い、幼い子供のNPCでも素手で容易に倒すことができる。

 そのため、野に出て自分に向かって襲い掛かってくるレッサー・スライムを返り討ちにして捕まえ、それをボールのように投げて遊ぶという行為が子どもたちの間で行われる、という設定すらある。

 いわば、野生の小鳥やネズミと変わりない。

 もはや脅威度を考える必要すらなかった。


「月光殿周辺の生物が弱いことは分かった。他には?」

「はい。月光殿の周辺を調査しているときに、遠くに集落のようなものを発見したんです」

「集落……か」


 ネグロの目に、鋭い光が宿る。

 ついに、来た。

 彼が漠然と感じていた、確信に近い予感は、やはり的中した。

 この世界には、文明が存在している。


「調査隊は送ったのか?」

「はい、既に」

「調査結果については私がお話しいたします」


 そう言って、ニコニコと優しげな笑みを浮かべたニコラが、右手の指をパチン、と鳴らした。

 すると、ネグロの眼前に、立体映像のように薄く光る絵や文字が浮かび上がる。

 ニコラが有する無数の魔法のうちの一つ、『ビジョン』だ。


「む、これは……『クー・シー』か? あるいは『コボルト』……?」


 ネグロがつぶやく。

 ニコラの魔法によって現れたのは、直立する全身毛むくじゃらの生物であった。

 顔は長く、裂けたように大きな口の奥には鋭い牙が覗く。

 その頭部はまさに犬そのものであるが、首から下は人間に似た骨格が見て取れる。

 腕や足は犬のそれよりも太く長く発達しており、手に至っては人間のような形の五指を備えている。


「偵察軍からのデータによると、集落を形成しているのは、この犬型の種族のようです」

「ほう。興味深いな……」


 ネグロは魔法によって映しだされた犬人間を眺める。

 ゲーム中にも、このような直立する犬型のモンスターはいくつか登場する。

 先ほどネグロが口にしたクー・シーやコボルトなどである。

 しかし、ネグロの記憶にあるそれとは、いささか造形が異なっている。

 これも月光殿周辺に生息していた生物と同じく、ゲーム中に存在していない未知の種族である可能性が大きかった。


「知能や身体能力、集落の規模は調べたか?」

「はい、ある程度は。

 観察したところ、会話のような行動をとり、また刃物や袋などの道具を持つものも居り、住居も、簡易的ながら木材や革で作られた、屋根と壁を持つ家が十数棟確認されています。

 そのため、少なくとも我々の知るコボルト程度の知能はあるでしょう。

 また、ステータスを解析したところ、その身体能力はワイルドボア相当と思われます。

 その他、詳しい情報は後ほど資料にしてお送りします」

「ふむ」


 ワイルドボア。

 初心者用のフィールドを出てすぐのあたりに出現する、イノシシ型のモンスターだ。

 レッサー・スライム程度の強さしか持たない月光殿周辺の生物と比べれば、格段に強い。

 とはいえ、ゲームを基準とすれば最弱クラスのステータスであることに変わりはなく、やはりレウコン・イーリスからすれば取るに足らない存在と言えた。


「ところで、会話をしていたと言ったな。どんな言語を使っていた?」

「記録に存在する言語の中に、該当するものはありませんでした。

 彼らが用いているのは、未知の言語です」

「……やはり……」


 未知の生物。

 未知の言語。

 ここは、ネグロが知るゲームの世界とはまるで異なる世界であることが、より確定的となった。


「いいだろう。よく分かった。

 ニコラ。このコボルトもどきが使用している言語の解析は行ったか?」

「いえ……それはまだ行っておりません。

 申し訳ございません、ネグロ様……」

「いや、良い。むしろ、この短時間でよくここまで調べてくれた。

 であれば……そうだな。……ビーチェ。

 偵察軍の中でも隠密行動に優れたものを選抜し、ニコラを連れて、このコボルトもどきの会話が聞き取れるところまで接近せよ。

 ニコラの能力――直接観察するだけで全てのスキルをラーニングできる力は、言語スキルにも適用されるからな。

 上手く行けば、こいつらが使用している未知の言語もスキルとして習得できるはずだ。

 それに成功したら、ニコラは習得した言語理解スキルをスクロールに転写し、生産隊を動員して大量に複製せよ。

 レウコン・イーリス全員にスクロールを配布し、言語を覚えさせるんだ」

「はっ!」

「了解しました!」


 命令を受けたビーチェとニコラは、きれのある声でそれに答えた。

 二人の顔には、隠し切れない歓喜と高揚が見える。

 大総統たるネグロの命令は、普段であれば大幹部などを通した後、間接的に各部にその命令が通達される。

 しかし、今回はネグロが彼自身の声をもって命令を与えたのだ。

 その事実は、大総統から直々に命令を受けたという実感を強く二人に与え、ニコラとビーチェはこの上ない興奮をおぼえていた。


「さて……この世界への、最初の進撃だ。

 果たして、上手くいくかな……?」


 弱気な発言とは裏腹に、ネグロの顔には、戦いへの渇望と勝利への確信が入り混じった、獰猛な獣のような笑みが浮かんでいた。







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