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15 英雄

「この依頼を、請けたいんだが」


 イルニア王国、王都カルティエの冒険者ギルド。

 その受付ロビーにて、いつかの焼きまわしのような光景があった。


 Aランクの依頼書を手にした、黒髪黒瞳の青年、ネグロ。

 そして、カウンターを隔て、彼の対面に座る、ギルドの受付嬢。

 かつての光景と異なる点は、かつて安物の剣と鎧を纏っていたのが、今は何も身につけず、黒いシャツとスラックスのみであること。

 そして。


「あ、は、は、はいっ……!

 か、かし、かしこまり、ました……」


 受付嬢、そして周囲の冒険者たちから、一切の非難が上がらないことである。


「……ふん。随分と従順になったわね。

 あんた、数日前には『ひ弱な奴』とか『貧乏人』とか、散々なこと言ってたくせに。

 どういう心境の変化があったのかしら?」


 ネグロの背後からヒョコッと顔を出した茶髪の少女、ジルが、あからさまに"気に入らない"という表情を浮かべ、受付嬢をなじった。

 カウンターに座り、どもりどもりに言葉を紡ぐ彼女は、ネグロが初めて依頼を請けようとした時、そんな彼を大声で罵った、あの受付嬢であった。


「あ、あぁ、あのっ……そ、それは……。

 ま、まことにっ……申し訳、なく……」


 その言葉を受けた受付嬢は、瞬く間に顔から血の気を引かせた。

 額には冷や汗が流れ、遠目に見ても分かるほどに身体がガタガタと震えている。

 かつての毅然とした、どこか刺のある強気な姿とは似ても似つかない。

 今にも死んでしまいかねないとすら思えるほどに弱々しい姿は、見るものに憐れみすら感じさせた。


「ジル。あんまり虐めるな。手続きが進まない」

「……分かった」


 ネグロがたしなめるように言うと、ジルはどこか不満気ながらも、おとなしく彼の言葉に従い、黙って引き下がった。

 しかし受付嬢の顔は依然として晴れない。

 むしろ、先程にまして怯えの色が強く現れ、呼吸も荒くなっている。


「し、知らなかったんですっ……!

 ネグロ……様が、そんなに強い方だとはっ……!

 だっ、だって、普通はそんなのっ、分からないじゃないですかぁっ……!!」


 受付嬢はひどく狼狽しながら、息を荒らげて言った。

 その声色はもはや泣き叫んでいるに等しく、現に彼女の目尻にはうっすらと涙が浮かんでいる。

 そんな悲痛な姿を見て、ネグロは何の感慨も抱いていないとばかりに反応を示さず、彼の後ろに控えるジルは、不快げに顔をしかめて、嫌悪感を示した。


「私が言いたいのは、アンタの態度よっ!

 相手が黒髪ってだけで蔑む、その性根が気に入らないって言ってんのっ!!」

「……そういうのいいから、早く手続きしてくれないか」


 再び怒声を上げ始めたジルと、恐慌のあまり、ネグロに向かって「殺さないでください」と命乞いを始めた受付嬢。

 どんな罵声を受けようが眉一つ動かさなかったネグロは、そんな二人を見て、初めて困り果てたような表情を浮かべた。


 ネグロ・グレゴリオ。

 黒髪でありながら、イルニアの冒険者たちから、救国の英雄『武神ネグロ』と称される青年。

 彼のランクは、イルニア国内に限れば最強の、Aランクである。







「……っとに、気に入らないわ。あの受付」

「なんでお前がそんなに怒ってるんだ」


 ネグロとジル。

 二人は親しげに言葉をかわしながら、王都カルティエを並び立って歩いていた。

 強い差別の対象となる黒髪を、何の躊躇もなく晒し歩くネグロは、否が応にも人目を引く。

 そして道行く人々がネグロに目を向けると、それから間もなくして、この黒髪の青年が、かの『武神』とうたわれる時の冒険者であると気付き、ギョッとするやら、うっとりと目を輝かせるやら、いろいろな表情を見せた。


「おい、あれっ……!」

「黒髪の武神だ……」

「フライ・ドレイクを素手で殴り殺したらしいぜ」

「なんだ、それっ!? 嘘つくなっ!」

「いや。Dランク以上の冒険者は、みんな実際に見てる」

「しかもその後、フライ・ドレイクにやられた負傷者を、よく分からない水薬ポーションを使って、全員回復させたんだとよ」

「ハッ……、とんでもねえな」


 ネグロを話頭とした人々の会話が、あちこちで生じる。

 ネグロを訝る声、英雄譚を称える声、あからさまな嫉妬の声。

 それらは、ここイルニアという国において、彼の存在がいかに鮮烈であるかを物語っていた。

 とりどりの話し声は当然、ネグロとジルの耳にも届くものの、ネグロ当人はまるで怖めず臆せず、歩みを続ける。

 ネグロと並ぶジルも若干居心地の悪さは感じているものの、本人が気にしていない以上、それについて何か言うこともなく、無心でネグロと言葉をかわし続けていた。


「……あの受付嬢、結構、良いとこの生まれらしくて、黒髪差別が凄かったのよ。

 黒髪じゃなくても、髪の色が黒に近いだけで、あからさまに態度を変えるくらい、ね。

 だから、前々からムカついてたってわけ」


 そう口にするジルの表情は、いつもながらの不機嫌そうなしかめっ面である。

 だが、よくよく見ればその顔はほんの僅かにほころんでおり、声色もどこか清々しい物があった。

 鉄仮面と称されるほどに表情の硬い彼女が、ここまで喜びの感情を露わにするとは、よほど清々したとみえた。


「黒髪差別、か」


 ネグロは想起した。

 数日前、フライ・ドレイクとの戦闘に、彼がはせ参じた時のことを。

 自身と同じ黒の髪色に染まった、ジルの姿を。


「……ごめん」

「何が?」


 ジルの消え入りそうな謝罪の声が、ネグロを回想から呼び戻した。

 見れば、先ほどまで隣を歩いていた彼女は、ネグロのやや後ろに位置どり、力なくうつむいている。

 普段から、炎のような鮮烈さをまとっている少女なだけに、今のジルの姿は、異様に弱々しく、小さく見えた。


 らしくない。

 たかが数日の浅い付き合いながらも、彼女がそうやすやすと、こんな弱気を見せることがないことを、ネグロは知っていた。

 変に楽しそうにしていたかと思えば、急に落ち込む。

 今のジルには、どこか不安定な気配があった。


「……私、アンタの強さとか、名声とかを笠に着て、自分の鬱憤を晴らしてるだけなの。

 受付嬢に文句を言ったのだって、アンタのためじゃなくて、私のため。

 ……迷惑でしょ。私みたいなのに付きまとわれて」


 そう言って、ジルは小さく笑った。

 その目は悲しげな光をたたえており、釣り上げられた口の端は引きつっている。

 今にも自殺してしまいそうなほどに虚無的な、自嘲の笑みだ。


「……ジル。どこかで、お茶でもしようか」

「え? ちょ、ちょっとっ!?」


 ネグロはそれを見て目を細めると、そのままジルの手を取り、足早に歩き出した。

 突然の行動に、ジルは悲しげな表情を思わず消し去り、困惑を見せる。

 この時ばかりは、彼女は冒険者『鉄仮面のジル』ではなく、歳相応の少女のように見えた。


「ようっ、英雄様! そいつは彼女かい?」

「おい、バカッ!!」


 すれ違いに、明快そうな男がネグロに冷やかしの声をかけ、その直後、隣にいた生真面目そうな男に、頭をひっぱたかれたる。

 同じ冷やかしとはいえ、その声色に、数日前までネグロに向けられていたような、黒髪を蔑む色は全くない。


 だが、ここ数日でイルニア王国最強クラスの冒険者として名を上げたネグロを冷やかすなどという行為は、たとえそれが友好的な色を含んでいようとも、恐れ多くて出来たものではない。

 高位の冒険者といえばCランクがせいぜいのイルニアにおいて、突如現れたAランクという存在は、頼もしさ以上に、その未知性に対する恐怖の方が勝っていた。

 聞けば彼は、Bランク級の強大な魔物『フライ・ドレイク』を、武器も使わず、単独で殴り殺したという。

 人々はそんな猛々しい噂話を耳にし、ネグロという青年は、さながら悪鬼羅刹のような恐ろしげな内面を有していると連想した。

 故に多くの者は、この生真面目そうな男のように、ネグロを畏怖し、直接のかかわり合いを持とうとしない傾向にあったのだ。


「あ。そこの二人」


 だが、そんな男の腐心むなしく、冷やかしの声を受けたネグロは唐突に立ち止まり、グン、と首を回転させて、そんな二人の男に顔を向けた。

 「そこの二人」と、明らかに自分らを指した呼びかけに、明快そうな男と生真面目そうな男の二人は、唖然として、それから互いに顔を見合わせた。


「あああっ!? す、すみませんっ!!

 コイツ、悪気は無いんですッ!!」


 そしてすぐさま、生真面目そうな男が、紙のように顔色を白くして陳謝する。

 深々と頭を下げ、そのまま地面に平伏してしまいかねない勢いがあった。

 きっと、先の冷やかしに気分を害したのだ。

 殴り殺される。

 男は本気で、そう信じ込んでいた。


「お、お金でも何でも払いますから――」

「金? 金は要らないんだが、この辺りで、美味いお茶が飲める店を知らないか」

「命だけは……えっ?」


 しかし、帰ってきた声に憤激の色はまるで無く。

 男が顔を上げれば、そこには存外に幼い少年の名残を残した、そしてどこかトボけたように穏やかな、黒髪の青年の顔があった。


 Aランク冒険者、武神ネグロ。

 英雄であると同時、その得体のしれない武力故に、まるで腫れ物のように及び腰で扱われていた彼であったが、この日を境に「意外と優しい」という噂が街に出回るようになるのだった。







 王都カルティエの中央に走る大通り。

 人が10人と並び歩いてもなお余裕を持つほどに広々とした道幅は、馬車が行き交うことを計算に入れた故のものである。

 そんな大通りに面する建築物は、王都の華やかさを損なわぬ、美しい造形のものが揃っている。

 それらは外観に違わず、いずれも高い格調を持つ店や、貴族・商人の屋敷で占められている。

 ネグロとジルの両者は、大通りの脇に並び立つそういった店のひとつ、喫茶店『アイーダ』へと足を踏み入れた。


「二人だ。周りに客の居ない、静かな席を頼む」

「……あっ!? はっ、はいっ!こちらへ」


 入店した二人を、白いシャツに黒いベストを羽織った店員が出迎える。

 店員は、ネグロの髪色を目にして一瞬眉をしかめるも、それからすぐに彼が"武神"であると気付き、一転してその態度を恐縮しきったものへと変えた。


「あれが、武神……」

「拳の一撃で、地を割るとか……」

「まあ。意外とかわいらしい男の子じゃない」

「後ろに居るのは誰だ?」


 店員の先導で歩くネグロを、無数の好奇の視線が追いかける。

 方々から、ネグロの容貌や武勇を話題とする、興奮気味の声が上がった。

 そんな声を受けながらも、当のネグロはあくまでもてんとして、むしろ彼につき従うジルの方が、落ち着きなさげに周囲を見回しているのが、どこか可笑しかった。


「こちらになります」


 粛々とした所作で、店員がネグロたちに席を勧める。

 窓際に小さな木のテーブルが置かれ、その卓上にはインテリアとしての小さな花瓶、そしてこれも小さなハンドベルが置かれている。


「こちらが、メニューにございます」


 席についたネグロとジルに、薄い板が手渡される。

 木を削りだした板に、インクで文字を書き込み、それにニスを塗りこんだものだ。

 多くの客の手に取り回されるために耐久性を求められる、こういったメニュー表などは、この世界においては、もっぱら木製であった。


「ご注文が決まりましたら、そちらのベルでお呼びつけください。

 では、ごゆっくり」


 そう言って店員が去ってゆき、ジルとネグロ両者の間に、居心地の悪い静けさが立ちこめた。


「好きなものを選んでいい。俺がおごる」

「えっ、あ、うん。

 ……いや、そうじゃなくてっ!

 何なのよ、いきなりっ!?」


 ネグロに促され、メニューの木板を手に取りかけたジルが、ハッとした様子で問いかけた。


「ジル。お前の身の上を知りたい。

 あの時――フライ・ドレイクを俺が倒した時、お前は黒髪だった。

 これは俺の推測だが、お前は、普段は魔法か何かで髪の色を変えていて、本当の髪の色は、黒なんじゃないか」


 そう口にするネグロの声は、低く、静かだった。

 彼の表情に、普段のような飄々として頼りない雰囲気はなく、黒い瞳が、知性を秘めた鋭い眼光を放っている。


 ジルは、思わず息を呑んだ。

 いつもヘラヘラとして、悪口や冷やかしを言われようと、草の穂のように受け流すばかりで、つかみ所のない青年、ネグロ。

 しかし彼は確かに、あのフライ・ドレイクを殺した、強者なのだと実感した。

 ネグロの黒い瞳、その深淵に底知れない力を垣間見たジルは、一瞬、呼吸を忘れて、それに見入った。


「……私の本名は、ミレーヌ ・ジル・ド・マルシェっていうの。

 貴族の生まれよ」


 気づけば彼女の口は、自身の過去を静かに語り始めていた。







 ミレーヌ ・ジル・ド・マルシェ。

 彼女は、イルニア国に領地を持つマルシェ侯爵家に、黒髪の忌み子として、生を受けた。

 血統を重んじる貴族社会において、魔法が使えないという生まれ持っての障害を持つ黒髪は、ともすれば生まれて間もなく殺されたり、あるいは捨てられたりすることも珍しくない。

 しかし、そんな時流にあって、ジルの両親は彼女を捨てるどころか、冷たく当たることすらせず、心からの鍾愛を見せた。


「ミレーヌ。貴方は、世界一可愛いわ。

 髪の色なんて、気にならないほどに」


 そんな優しい声色と、自身の黒髪をくしくしと愛おしそうに撫でる母親の手つきを、ジルは今でも明瞭に覚えている。

 彼女は社交界に出されることもなく、温室のように満ち足りたマルシェ家の屋敷の中で、蝶よ花よと、望むものを全て与えられながら育った。


 だが、生年5歳と少しに至ったころ、ジルを取り巻く環境は一変した。

 ジルに次ぐ第二子――黒髪でない健常な子どもが生まれたのだ。

 それは、闇のように黒黒としたジルの黒髪とはまるで対照的な、金糸のように輝かしい金髪をたたえた、美しい女の子だった。


 ジルに注がれていた慈愛は、大した時間もかけずに、そっくりとその対象を次女へと移した。

 服や人形、お気に入りの絵本は全て取り上げられ、妹のものとなった。

 やがて、親に構ってほしいとねだっても、相手にされなくなり。

 一日に与えられる食事の量と質は目に見えて落ち、間もなくして、屋敷の中を自由に歩き回ることさえ禁止されるようになった。


 当時はまだ頑是無がんぜない少女であったジルは、両親の豹変の理由も分からず、ただ怯え、悲しんだ。

 自身の両親の思惑を知ることなく、ジルは6歳の誕生日を迎える。

 彼女の心神は少しずつ歪み、ひび割れ始めていた。


「ミレーヌ。これを」


 ある日。

 ジルの自室――自室とは名ばかりの、彼女を軟禁するための牢に等しい空間に、ジルの母親が姿を見せると、言葉少なに小さな革袋を投げよこした。

 チャリン、と金属音をたてて床に落ちたそれを、浮浪者のような容貌の幼い少女が、目を輝かせて拾い上げた。

 その必死さは、さながらむしゃぶりつくかのようで、薄汚い容姿と相まって、一際に浅ましく映った。


 櫛も髪油も使わせてもらえず、まるで振り乱したかのようにボサボサの黒髪。

 身を包むのは、着るに耐えないほどにボロボロの古着。

 その姿はひどく様変わりしていたが、彼女こそが、ほんの1年前まで深窓の令嬢だった少女、ジルであった。


「わぁっ! お母さん、これは?」


 革袋を拾い上げたジルは、喜色満面の様相で母親に問うた。

 彼女は、母親の手から、物が手渡されるのが、嬉しくてたまらない様子であった。

 ある日唐突に親の情愛の全てを取り上げられたジルは、親への依存心の行き場を失い、その精神は変調をきたしていた。

 今の彼女は、かつての優しかった両親の幻影を見ており、無造作に投げ渡された革袋も、彼女の目には至上のプレゼントとして映っている。

 ジルの母は、フン、と忌々しそうに息をつくと、ゆっくりと口を開いた。


「お金よ。金貨が5枚入っているわ。

 それを持って、家から出て行きなさい」

「えっ……? お母さ――」

「出て行けッ!!」


 その一瞬、ジルは、母親の顔に、魔物のように恐ろしい悪相を見た。


 それ以降、ジルは自身がどういう状態であったか、よく覚えていない。

 屋敷の外に放り出されて、何日も泣きわめいていたような気もするし、あるいは夢遊病者のように茫然としていたやも知れない。


「おい、嬢ちゃん。

 こんな所で、何してんだ」


 そんなジルを自失から立ち直らせたのは、一人の冒険者だった。







「それから私は、運良くお人好しの冒険者――ブノアさんに拾われて、生き延びたってわけ」

「ちょっと、待て。ブノア?」

「そう。カルティエの冒険者ギルドで働いてる、あのブノアさんよ」


 ブノア。

 ネグロが冒険者登録する際に世話になった、ギルド職員である。

 柔和な物腰と、どこか気弱げな顔つきからは、彼の戦う姿はまるで想像できない。

 しかし、ギルドの事務職にしてはいやに大柄でガッシリとした体躯や、ゴツゴツと節くれ立った巌のような指は、言われてみれば確かに、冒険者の名残を感じさせる。


「あの人、昔はすっごい怖い人だったのよ。

 まあ、今じゃあすっかり丸くなって、冒険者ギルド、カルティエ支部の副ギルド長になってるけれど。

 人って、どう変わるか分からないものね」

「待て。副ギルド長?」

「そうよ……って、アンタ何にも知らないのねっ!」


 ネグロは、件のフライ・ドレイク襲来の際、ブノアがギルドの職員や冒険者に指示を飛ばしていた光景を思い起こした。

 妙にギルド職員や冒険者たちの聞き分けが良いと思えば、あれはギルドの副責任者の名による、威令であったわけだ。

 とはいえ、仮に初対面時にブノアが高い地位に坐しているのを知ったところで、ネグロのまるではばからない態度が、変わることはなかっただろう。


「でも、ブノアさんは怖かったけど、優しかった。

 私の黒髪を隠すための魔道具も、あの人が用意してくれたの」


 そう言って、ジルは襟に手を入れてしばしまさぐると、そこから金属製のペンダントを取り出した。

 中央にはめ込まれた赤い魔石が、妖しい光を放っている。


「これが、ブノアさんがくれた、髪の毛の色を染める魔道具。

 染料で染めると、どうしても違和感が出ちゃうんだけど、これは完璧に色を誤魔化せるの」

「それを使って、普段は茶髪を装っていたわけか」

「そ。まあ、その誤魔化しも、この前の戦いでぜーんぶ、無駄になっちゃったけどね」


 そう言って、ジルは笑った。

 悲しく、虚しい、自嘲、あるいは自棄の笑みだ。


「ねえ。ネグロ。

 私のお父さんねえ、子どもができにくい体質だったんだって。

 だから、養子をとろうとしてたらしいの。

 そしたら、奇跡的に私が生まれた。

 黒髪の忌み子だったけど、生まれないと思ってた実の娘が生まれて、それ以上に嬉しかったんでしょうね。

 でもね。それから二度目の奇跡が起きて、妹が生まれたのよ。

 今度は私みたいな黒髪の出来損ないじゃない、正真正銘の可愛い娘が」


 ジルの声は、震えていた。

 泣きそうであったためか、あるいは怒りに身を震わせていたのかは、分からない。

 ただ、押し殺すように言葉を紡ぐ彼女の内心に、計り知れない悲しみと怒りが併存しているのは、確かだった。


「黒髪じゃない子どもが生まれれば、そりゃあ、黒髪の私は要らなくなるでしょうね。

 だから、捨てられたのよ。

 おもちゃも、お洋服も、ご飯も……何もかも、取り上げられてねッ!

 捨てられた後の私には、何もなかったッ!

 力も弱いし、頭も悪いッ!

 おまけに、魔法が使えない、クソったれの無能よッ!!

 だから黒髪を隠して、バレないように怯えながら、冒険者として暮らすしか無かったのッ!!

 どれだけ鍛錬してもッ、全身に魔道具を仕込んでズルしてもッ! たかだかDランク止まり!!

 ……ねえ。

 私、6歳の頃から……10年以上、冒険者やってたのよ?

 10年も冒険者を続ければ、普通はもっとランクは上がるし、お金だって、稼げるはずなの。

 でも、私は無能だから、魔石や水薬ポーションを人よりたくさん買わないといけなくて、生活はちっとも楽にならなかった。

 ……。

 ……アンタは、いいわよね。

 そんだけ強ければ、食うにも困らないでしょッ!?

 お金だっていっぱい持ってるしッ、私みたいに汚い性格でもないッ!!

 みんなから、英雄、英雄って褒められるッ!!

 なんでッ!? なんで、アンタだけ、そんなに幸せなのッ!?

 私と同じ黒髪なのに……! なんで……ッ!!

 ……ずるい……。

 ずるいよ……そんなの……」


 ジルのまくし立てる言葉には、狂おしいまでの嫉妬があった。

 その悲嘆の声は、幼子が泣き叫ぶ声のように痛ましい。

 彼女が両親に見捨てられたその日から、その精神に膿のように蓄積していた醜悪な感情が。

 誰にも甘えることを許されなかった、幼子の叫喚が、ジルの口をついて溢れだしていた。

 剣を取り、体と精神を鍛え、鉄仮面の冒険者となったジルの心。

 しかし、その根本に根ざす悲しみは、彼女が6歳の時そのままの形で、そこに停滞していたのだ。


「ジル」


 そうして、彼女が言葉を終えるまで、じっとそれに聞き入っていたネグロは、ピシャリと、静かでありながら明々とした声で、彼女の名を口にした。


「あっ……」


 正気を失っていたジルの瞳に、知性の色が舞い戻った。

 そして直後、彼女は顔を青ざめさせて、その瞳からボロボロと涙をこぼし始めた。


「あ……ああ……ご、ごめっ……ごめんっ、なさいっ……!

 わ、私っ……こんなっ、こんな酷いことっ……言うつもりじゃ……!

 ごめんなさいっ……、ごめんなざいっ……!!」


 顔をクシャクシャにして、壊れた蓄音機のように謝罪の言葉を繰り返すジルに、ネグロは声の調子すら変えず、淡々と言葉を続けた。


「ジル。強くなりたいか」

「……ぅ、え?」


 しゃっくりを上げながら、ジルは、充血して潤んだ目で、ネグロを見上げた。

 毅然とした冒険者であった頃の、影も形もない。

 まるで小動物のような仕草だった。


「ジル、お前には、色々と教えてもらった恩がある」

「で、でもっ、それは私が、ネグロの黒髪に勝手に同情しただけでっ……。

 それに結局……よ、余計なお節介だったし……」

「いや。あの情報は、俺にとっては、とても有用なものだった。

 ……それに、アレが切っ掛けで、あの三人の冒険者が喧嘩を売ってきてくれたしな」

「え……?」


 ネグロの言葉の意味をはかりかねたジルが、すん、すん、と鼻を鳴らしながら、首を傾げた。


「ともかく、俺はお前から受けた恩に、多少は報いるつもりだ。

 2つの選択肢をやる。好きな方を選べ」


 そう言って、ネグロはピン、と人差し指を立てた。


「『お前が黒髪だった』という記憶を、この街の住人たちの頭から完全に消し去るか」


 次いで、中指も同じように立ち上げる。


「より高みに至る力を手にするか」


 ジルは、目を丸くした。

 彼女が黒髪であったという記憶を、街の住人たちから消し去る。

 そんなことが可能なのか、と。


「記憶の消去を選んだ場合は、無償でやってやろう。サービスだ。

 ただし、後者を望むなら――」


 そう言って、ネグロは身を乗り出すと、吐息がかかるほどにジルへと顔を近づけ。


「俺に"服従"してもらう」


 ゾクッ……と。

 ジルの背筋に、怖気とも、高揚ともつかない、電流のような感覚が走った。

 ネグロの声色に、未だかつて無い、異様なものを聞き取ったためだ。

 それは、普段の超然として何を考えているかまるで読めない、あの平坦で軽薄な声ではなく。

 獣の呻きのような獰猛さと、淫魔の囁きのような甘美さ。

 死神のようなおぞましさと、父親のような暖かさ。

 そんな、計り知れない感情の色を含んだ声だった。


「た、高みに至る……って、どういうこと?」


 そう問いかけるジルの声は、先ほどとは違う趣をもって震えていた。


「高みとは、全てだ。

 強靭な筋力もやろう。

 魔法も使えるようにしてやろう。

 富も、服も、食事も、今までに見たことのない素晴らしい物をやろう。

 望むなら、愛情も、新しい友人も、新しい家族も、与えよう」


 そう口にするネグロの顔に、冗談の色は無い。

 この男は、本気で、全てを与えてやると言っているのだ。

 あり得ない。

 だが、何より信じがたいことは、彼の言葉が偽りであると、全く思えない点であった。

 ジルは思わず唾を飲み込み、喉をゴクリと鳴らした。


「ジル。お前はさっき、同じ黒髪の俺が、何故強いのかと訊いたな。

 教えてやる……。

 それは、俺がこの世の者じゃないからだ。

 生きる世界が違うんだよ。文字通りにな。

 俺の世界では、髪色に貴賎なんて無い。

 財も力も、望みさえすればすべてが手に入る。

 俺はそんな世界からここに来た」


 ネグロの身から、人ならざる尋常でない圧迫感が、今にも気を失ってしまいそうなほどの覇気が生じる。

 ジルはひどく呼吸を乱し、犬のように激しく息をついた。


「招待を受けるのなら、その世界を見せてやる。

 俺と同じ視点を得れば、自分がどれほど不自由で退屈に生きていたかを、お前は知ることになるだろう。

 ただし、その代わりに。

 この話を受けたら、その瞬間から、お前の肉体、精神、魂は、俺のものだ。

 俺に従い、俺に尽くし、未来永劫、俺に"支配"される存在となる」

「あ……あ……」


 言葉が紡げない。

 呼吸ができない。

 意識が遠のき、ジルが今まさに倒れようとしたその時、彼女の身にのしかかっていた威圧感が、ふっと、嘘のように消え去った。


「……まあ、好きな方を選んでくれ。

 あっ。服従とは言っても、別に取って食おうとか、死後の魂をもらおうとか、そういう悪魔っぽいことは極力しないつもりだから。

 ちょうど、この世界の人間の部下が欲しかったんだ」


 見ればネグロは、いつもの気の抜けたような青年に戻っていた。

 先の豹変が、白昼夢のように思えてくる。


「ね……ねえ」

「ん?」

「ネグロに服従したら……その、肉体関係とかも……求められるの……?」

「いや、そういうのはいいや。

 ところで、注文は決まったか?」


 そう言って、ネグロはメニューの木板をジルに差し出す。

 意を決しての質問に、すげなく淡白な言葉を返されて、ジルは少しだけ不機嫌そうな表情を作った。







「おはよっ。ブノアさん」

「おや。ジル」


 昼中。

 例日のごとく手に書類を持ち、副ギルド長としての仕事に奔走していたブノアを、快活な少女の声が呼び止めた。

 彼が振り返れば、そこには珍しくも、朗らかな笑みを浮かべたジルが立っている。


「どうしたんだい……随分とご機嫌じゃないか」


 そう言いながら、ブノアは優しげな目尻をさらに落とし、笑みを作った。

 彼の記憶では、ジルがここまで屈託のない笑顔を見せたのは、片手で数えるほどしか無い。


 黒髪というハンデを背負いながらも、健気に生きる少女、ジル。

 まだ彼女が"黒髪であることは露呈していない"とはいえ、ブノアは、それもやがては破綻をきたす日が来ると、心の何処かで確信を抱いていた。

 冒険者という稼業は、魔法を使えるのと使えないのとでは、その効率に大きな違いが生じる。

 黒髪の、それもまだ若い少女であるジルには、本来であれば、冒険者という道を歩ませるべきではなかった。

 家から放逐されたジルを拾った当時、彼女に冒険者の技術を教えこんだことを、ブノアは未だに深く後悔していた。

 10年という、ベテランと呼ぶに足る期間を冒険者として過ごした彼女は、もはやその骨身に闘争が染み付いている。

 あどけなかった少女を、魔物との闘争へと引き込んだ張本人であるブノアに、冒険者を辞めろなどという言葉が言えようはずもなかった。


 故に、せめて彼女が冒険者であるうちは、笑っていてほしい。

 鎧のように固くしかめた表情をまとった彼女を目にするたび、ブノアはそんな、儚げな理想を抱いていた。


「何か、良いことでもあったのかい」

「ん。まあ、そんなところ」


 そう言ってツン、と、どこか得意気に顎を持ち上げる彼女は、歳相応に愛らしい少女そのものであった。

 どこか苦しげでいて、そして悲しげな顔容を貼りつけ、爆発の魔法を仕込んだ剣を振るう、飢えた獣のような姿は、彼女には似合わない。

 ブノアは、眼前の少女が、命を賭して魔物を殺し、日銭を稼いでいるという事実が、無性に悲しく感じられてきた。


「君がそこまで喜ぶなんて、余程のことだろうね。

 一体、何があったんだい」

「……秘密っ。それよりも、ブノアさん。

 今日は、挨拶に来たの」

「挨拶?」


 ブノアが、不思議そうにジルの言葉を復唱した。

 挨拶などされる覚えは無いが――。


「私ね、今日で冒険者辞めることにしたの」

「……えっ!?」


 ブノアは思わず、手に持った書類を床に取り落とした。


「だから、今までお世話になったブノアさんに、ありがとうって言いたくて」

「ま……待て。待ってくれ。ちょっと整理が追いつかない。

 なんだって、急に……」


 ジルが冒険者から足を洗うことは、ブノアとしても望むところであった。

 しかし、急すぎる、

 もし彼女が、何か後ろ暗い理由があって冒険者を辞めるのであれば、黙って見過ごす訳にはいかない。

 そんな親心から、ブノアはひっ迫した形相でジルの肩に手を置くと、矢継ぎ早に質問を飛ばした。


「なんで辞めるんだっ?

 もしお金の問題なら、私からも少しは出せるぞ?

 それに、辞めた後の食い扶持はどうするんだ?

 ちゃんとアテがあるんだろうなっ!?」

「……うん、大丈夫。

 ブノアさんが心配してるようなことは、無いよ」


 そう言った、ジルの顔は、今までに見たことがないほどに穏やかだった。


 ああ。

 これは、幸せな顔だ。

 彼女は、ジルは、どこかで、幸せを掴んだのか。

 ブノアは、ついこの間まで小さな子どもだったジルが、急に成長し、そして自らの元を旅立ってゆくような、喜ばしくも、どこか物悲しい感覚を抱いた。


「いや……」


 急に成長したのではない。

 ジルは、もうとっくに、大人になっていたのだ。

 彼女の顔を見る。

 未だ、多分に可愛さが残っているが、そこには垢抜けた美しさがあった。


 綺麗に――。

 綺麗に、なったな。


 ブノアは、声に出すことなく、噛みしめるように、心のなかでそう呟いた。


「本当に、大丈夫なんだね」

「うん。大丈夫」

「……辛いことがあったら、いつでも戻ってきていいからね」

「うん」

「病気や怪我に気をつけるんだよ」

「……うん」

「食事もきちんと取らないとダメだからね」

「……あははっ。ブノアさん、お父さんみたい」


 そのまま二人は、暫くの間、静かに寄り添っていた。







「もう、良いのか?」

「うん。別れは済ませた」


 中天の太陽。

 雲ひとつ無い快晴の下。

 イルニア国、王都カルティエの一角で、黒髪の青年ネグロと、茶髪の少女ジルが並び立ち、静かに言葉を交わしている。


「別に、一生ここに戻ってこれないわけでもない。

 気が向いたら、いつでも遊びに来れる」

「……そうだね」

「で、出立の準備はもう良いのか? 随分と荷物が少ないが」

「ずっと宿暮らしだったし、物を買うお金も無かったのよ」

「そうか」


 そこで、二人の言葉が途切れた。

 そよ風が吹き渡り、二人の髪をゆるやかに揺らす。


「……街のみんな、私が黒髪だってこと、本当に覚えてなかったわ」

「当然だ。レウコン・イーリスの技術をもってすれば、造作も無い」

「その、レウコン・イーリスって、どんな所なの?」

「俺に服従している者で構成された組織だ。

 賢狼族や竜の連中も、割りと楽しそうにしてるし、お前もすぐに馴染めるだろう。

 ……不安か?」

「ううん。むしろ、楽しみよ」


 そう言ってジルは、一歩、二歩と、ネグロの前に踏み出し、そして透き通った笑みを浮かべながら振り返った。


「これから、よろしくね。

 私の主――ネグロ"様"?」







第二部完。

あんまり一人のヒロインに構いすぎると失速するので、ここでジルは一時退場。

次の話から、王国蹂躙編を開始する予定です。

今までの投稿話の修正やプロット構築で、投稿まで結構間が開くかもしれません。

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