1 異世界転移
初投稿。
プロットや設定は行き当たりばったりで考えているので、もし要望や指摘があれば感想を下さい。
「ふむ……ふむ」
小さな声が、冷え冷えと冴え渡った空間に鳴り渡り、ほのかな反響を残して消えてゆく。
声の主たる黒髪黒瞳の青年は、どこか愉快そうに、その面貌に笑みを形作っていた。
青年の眼前には、青白く輝く透明の板が浮遊し、板の表面には、角ばった文字の羅列が続いている。
そして、彼が板の表面を指でなぞるたび、文字の羅列が流動するかのようになめらかに動き、板に表示される内容が変化してゆく。
彼が座すのは、白銀色の、巨大な構造体。
高さが天井まで至る金属柱を、椅子の形に削りだしたかのような、無機的でありながら、ため息が出るほどに美しい玉座である。
玉座の周囲に目を向ければ、鏡のように磨き上げられた白黒の大理石が、広大な空間にチェック状に敷き詰められているのが見て取れる。
そこには、大木のような柱が目盛りのように寸分の狂いなく等間隔に並び立ち、領域に美しい規律を与えている。
その中央に一人佇む青年の出で立ちは、黒いシャツに、スラックス。
闇のように黒い生地が、青年の輪郭をストロボの光に生じた影のように際立たせ、モノトーンで統一された空間に調和していた。
「ふむ……。
よし、よっし……コンプ」
青年は小さく独りごちると、達成感のにじむガッツポーズを見せた。
同時に、彼の目前に浮遊していた板の輝きが薄らいだかと思うと、そのまま、空気中に溶け去るかのように板は消滅した。
彼が身を置くこの空間は、現実ではない。
現実には存在しないアイテムやスキル、モンスターや亜人が存在する、ゲームの世界である。
頭部に装着することで、現実に極めて近い、臨場感ある音や映像を体感させるヘッドマウントディスプレイ(HMD)。
超音波によって、空間上に人の触覚に作用する力場を作る、非接触力覚インターフェース(NCKI)。
そして、人の表皮上から脳波を読み取ることで、思考のみでキャラクターの操作を可能とするブレインマシンインターフェース(BMI)。
これらを組み合わせることによって実現した、Virtual Reality、すなわち仮想現実技術によって、まるで自分自身が、本当にプレイヤーキャラクターになったかのような没入感を実現しているのだ。
今現在、青年がプレイしているゲームは、そんなVRゲームの中の一つ、クリエイター・オブ・カオス(CoC)。
完成度の高いオフラインのRPGであり、高い自由度と膨大なゲームボリュームを誇る有名作である。
このCoCは、元来のゲームとしての面白さに加え、機能の拡張が可能な点が高く評価された。
オフラインゲームならではの要素として、CoCは、ゲームの制作元から配信されるDLCや、ユーザーの手によって独自に作られるMODなどの改造データを導入することで、ゲーム内容を改変できるのである。
特に、ユーザーが世界中に存在しているCoCは、MODの開発が盛んであり、MODの量や質は、VRゲーム中でも最大級であると称されている。
そして、青年はたった今、新作DLCと新作MODによって拡張された、新アイテムや新スキルをはじめとする追加要素、その全てを入手・攻略し終えたところであった。
達成感の余韻にしばし浸った青年は、一息ついた後に、全身を脱力させた。
ゲーム内で、これ以上することが無くなったが故の、やるせない虚無感のためである。
そのまま、やる気なさげに手を一振りすると、彼の眼前に、いくつかのアイコンが浮かび上がった。
慣れた手つきで指先を踊らせ、アイコンを突く。
それにしたがい、表示されるアイコンの項目が次々と切り替わってゆく。
メニュー、システム、ログアウト――。
そこまで至ったその時、青年の指先がピタリと静止した。
「あれっ?」
ログアウトボタンが、無い。
「えっ。あ、マジか」
彼のプレイするCoCは、スタンドアローンのオフラインゲームである。
自らアップデートやMODの導入を行わない限り、仕様の変更は行われない。
ログアウトボタンが消失するという事態は、ありえないことだ。
そもそもログアウトはゲームを動作させるOSが持つ機能であり、たとえバグでゲームそのものが動かなくなっても、OSだけは確実に動作し、ログアウトなどシステムの根幹に関わる機能は使用できるようになっているはずだった。
これが意味するところは――。
「まさか……ハードが、壊れた? 嘘だろ」
VRゲームのハードは、大型で多機能、つまりは大変に高価である。
修理に出すのは、容易ではない。
「はぁ……保証効くかな……」
そして何より、ログアウトできない。
この事実が、青年の悲しみを誘った。
「コンプ……せっかくコンプしたのに」
ログアウトできない以上、彼はこのゲームを、ログアウト操作を飛ばして電源を落とし、強制終了させるほか無い。
しかし、CoCのプレイデータは、ログアウト時にメモリーに保存されるという仕様なのである。
それはすなわち、彼が努力して集めたアイテムも、スキルも、全てが水泡に帰すということを意味する。
連休を利用し、10時間以上ぶっ続けでプレイした末に、その努力が全て無駄と化す喪失感は、青年を容赦なく打ちのめした。
重く淀んだ溜息を吐き、青年はノロノロと緩慢な動きで、自身の頭部に手をやった。
頭に装着したHMDを取り外すためである。
「……あれっ?」
決定的な違和感を覚えた。
触れる。
自身の頭部――HMDに覆われているはずの箇所に、じかに手で触れることが出来る。
「待て、待て待て……」
青年は玉座から体を起こす。
そして、恐る恐るといった様相で、その脚を前に踏み出した。
カツン、と、青年の靴底が大理石の床を叩く硬質な音が響き、その一歩は、何の問題もなく踏みしめられた。
「嘘だろ」
VRゲームは、脳波で動かす。
故にプレイヤーは、常に椅子に座った姿勢をとり、動きを念じることでゲームを操作することとなる。
だが、先ほど脚を踏み出した際、青年は、何も念じていない。
彼は、実際に身体を動かしたのだ。
この世界があくまでHMDの見せている仮想現実であるなら、彼は未だ、自室の椅子の上にその身を置いているはずである。
そこから立ち上がり、前に歩こうとすれば、青年の自室の間取りから考えて、足は壁にぶつかるはずだった。
だが、ぶつからない。
再度、踏み出す。
先とまるで変わらず、大理石に靴音を響かせ、青年の身は一歩前へと進み出た。
青年の全身を怖気が走り抜けた。
ここは、何処だ。
俺の身体は、どこにある。
それとも、俺の頭がおかしくなったか。
歩く。
青年の歩みを阻むものは、何もない。
彼の身体は、広大な大理石の上を、黙々と前進してゆく。
「これは……」
荒唐無稽な話だ。
漫画や小説のように、馬鹿げている。
だがこの状況は。
「……ゲームの世界から、抜け出せなくなった……?」
彼のプレイヤーネームは『ネグロ・グレゴリオ』。
ゲーム、クリエーター・オブ・カオス(CoC)にハマり込むあまり、ゲームを完全クリアした後、あらゆるDLCや非公式MODを入れまくり、その追加要素も全て遊びつくした末、ゲーム中に登場する全てのモンスターを支配し、全てのスキルとアイテムを己が物とした廃人であり。
地上1階層、地下100階層の計101階層からなるゲーム中最大、最凶のダンジョン、『月光殿』を拠点とし、強力なNPCからなるギルド『レウコン・イーリス』の長としてこのゲームの世界に君臨する、絶対強者である。
「……そうだ、俺のNPCたちは……?」
◆
「副総統、エヴァ・ドゥーケ。
お呼び付けにより、大総統閣下の御前に参着いたしました」
「……ああ。ご苦労」
玉座に腰を下ろしたネグロの眼前に、美の極致と形容するにふさわしい美女が、恭しくひざまずいている。
彼女の名は、エヴァ・ドゥーケ。
ネグロによって創りだされた、彼のしもべ――使い魔NPCの一人であり、彼が創造したキャラクターの中でも、最強クラスの存在である。
平伏の姿勢をとり、微動だにしない彼女は、万年雪のように白い肌に、白と黒を基調としたドレスをまとっている。
髪もドレスと同じく白と黒が交じり合ったマーブル模様で、髪から視線を下に向ければ、この世のものとは思えないほどに美しい顔がある。
ツンと通った鼻筋やピンク色の唇は、冷たい印象を与えながらも、匂い立つ色香も孕んでいた。
その眼は伏せられ、瞳の色や目つきはうかがい知れない。
そしてよくよく見てみると、彼女の髪やドレスの白と黒の模様が、まるで生き物のように流動し、交じり合ったり分離したりしているのが分かる。
その美しく幻想的な身様は、見まごうことなく、ネグロの作り出したNPCそのものである。
彼女の服や髪に使用されている、流動する白と黒のテクスチャや、彫刻の女神のように均衡のとれた体つきなどは、ネグロ自身が、MODを使用して膨大な時間をかけ設定・改良を加えた結果だ。
だが、違う。
ネグロは、自身の造形したNPCが、本質的に別のものへと変質していることに、ひと目で気づいていた。
ネグロが、コンソールを用いたコマンドによって、自身の部下として作成したNPC――エヴァを呼び出すと、それから数秒と経たないうちに、忽然と彼女が姿を現した。
恐らくは、瞬間移動系のスキルを用いたのだろう。
そうして現れたエヴァの姿を目にして、ネグロはしばし、言葉を失った。
実写に近いリアリティどころの話ではない。
彼女の有する質感は、紛れも無く現実のそれであった。
呼吸に合わせて上下する胸、声に合わせて開閉する唇、情緒によって微細に変化する表情。
繊細な髪や、伏せたまぶたを縁取るまつ毛は、その一本一本が確かな実体を持っているかのようになびく。
CoCには存在しないはずのモーションや、HMDの性能限界を明らかに超えている描画力は、この世界がゲームではないという事実を、ネグロの心に鮮烈に印象づけた。
「……如何なさいましたか? ネグロ様」
「ああ、いや」
心配そうに問いかけるエヴァに、ネグロは努めて冷静な声で返した。
ゲーム内において、プレイヤーが創造したNPCに、ボイスは付かない。
喋ることはあっても、今のエヴァのように声を出すのではなく、吹き出しに定型文が浮かび上がったり、何かの拍子に掛け声を上げたりする程度である。
声優のように澄み渡る女性の声で「ネグロ様」と名を呼ばれるたびに、ネグロはどこかこそばゆい感覚を覚えた。
「エヴァ。お前は、誰に作られた?」
「はっ。私、エヴァ・ドゥーケは、偉大なるレウコン・イーリスが大総統、ネグロ・グレゴリオ様の手により、この世に生み出して頂いた存在です」
「生み出されてから、今日までの記憶はあるか?」
「……? はい、ございます」
自身がネグロの手によって生まれた存在であると自覚している。
そして彼女は、ただのゲーム中のNPCだった頃の記憶も有している。
見たところ、ネグロへの忠誠心も相当なものであるようだった。
紛れも無く、目の前の美女は、ネグロが作った、あのエヴァ・ドゥーケであった。
ゲームの世界が――ネグロがCoCで作り上げたNPCたちが、忠実に現実化している。
ネグロの胸裏に、先行きの見えない不安とともに、凄まじい高揚感が湧き出てきた。
しかし同時、彼の思考はひどく冷静に冴え渡ってもいた。
いったい、どこまでの範囲が現実化したのか。
目の前に平伏している美女、エヴァを見るに、NPCたちは、ネグロが設定した通りの容姿をもって現実の存在と化している。
自身が座っているこの王座や、大理石に覆われたこの空間がある以上、自身が作り上げたギルド『レウコン・イーリス』の拠点であるダンジョン『月光殿』も同様に、忠実な実体化がなされているはずだ。
では、スキルやアイテムは。
月光殿の外部に広がるフィールドは。
ゲーム世界特有の、魔力をはじめとする架空の物理法則は、どうなっているのか。
ネグロの脳裏に、あらゆる可能性が浮かび、同時に、それに応じた今後の行動が瞬時に導き出された。
綿密にして膨大な行動計画が、瞬く間にネグロの脳内で練り上げられてゆく。
その思考速度は、常人離れしたものだった。
まるで自分が自分でなくなったかのようだ。
いや。
これは、殻を破り、世界を初めて明瞭に知覚したかのような、いわば生まれ変わるような感覚と言ったほうが正しい。
そして、自身に生じた変化、その原因に、ネグロは心当たりがあった。
「……知力のステータスも、現実化しているのか……?」
ステータス。
CoCに存在するキャラクターの能力を決定するパラメータである。
その中には、制作系スキルや魔法系スキルなどの効果に影響する、『知力』という項目が存在する。
ゲームを完全クリアした以上、ネグロのステータスはその全てが高水準に達しており、それは知力も例外ではない。
このゲームの世界が現実化したならば、ネグロが有するステータスも同様に、現実の能力として発現してもおかしくない。
「エヴァ。大幹部を全員、ここへ呼べ。月光殿の外へ出る」
「かしこまりました」
何にせよ、初めに確かめなければならないことは明確に決まっていた。
ここが果たして、『ゲームの世界』の中なのか、あるいは外なのか、である。
◆
月光殿、地上階層。
溶けそうなほどに白く澄んだ石づくりのタイルが敷き詰められた空間に、四人の靴音が、硬質な響きをもって鳴り渡る。
そこには、四人の美女、美少女を付き従え、黒のシャツにスラックスをまとう青年、ネグロが歩を運ぶ姿があった。
「まずは、リンネが尖兵だ。
月光殿の外部は未知だからな。
お前の能力が正常に働くなら、まず死ぬことはないだろうが……警戒して当たれ」
「かしこまりました」
ネグロの言を受けて、巫女服に似た赤と白の和装に身を包んだ長身の美女が、歩みの速度を緩めずに、微かに頭を下げる。
まるで闇が溶け落ちたかのような黒髪が、彼女の身動きに合わせて妖艶にゆらめき、濡れたようにつややかな光を放つ。
赤い隈取りにふち取られた優しげな目つきが、ほんの一瞬、鋭利な光をおびて輝いた。
彼女の名は、リンネ・アルビオル。
レウコン・イーリスの生産活動における最高責任者、生産隊総督の肩書きを冠する者である。
「次にベルタが出ろ。危険がないかの判断を任せる」
「お任せを」
ネグロにそう返したのは、その身に黒い紳士服をまとう、男装の麗人である。
彼女は栗色の浅黒い肌を持ち、後頭部で一つ結びにされた、透き通る銀色の髪が、まばゆいばかりに映えている。
銀縁のメガネを鼻にかけ、そのレンズの奥では、赤い瞳を有する目が、どこか蠱惑的な、そして同時に破壊的な色をたたえて、妖しく光っていた。
ベルタ・ファクラー。
情報交換および記録、蓄積の統括、そして作戦の立案を担う、参謀隊総督だ。
「マルギットは、ベルタの護衛。
外に敵がいた場合は、何としても月光殿に近づけさせるな」
「了解しましたっ! 我が主!!」
ひときわに背が低く、体つきの幼い少女が、今にも跳ね上がりそうな勢いで、快活に声を上げた。
絢爛な装飾の施された布に身を包んでおり、その意匠は、インドの民族衣装であるサリーに似ている。
深紺色の髪はショートで切りそろえられ、軽快な彼女の歩みに合わせ、その毛先を揺らしていた。
しかし何にもまして目を引くのは、彼女の異貌である。
みずみずしいその肌は、薄い青色。
瞳は眩いばかりの金色で、その瞳を囲う白目の部分は黒真珠のように黒い。
幼気ながらも、やはり絶大な美しさを内包した、人ならざる者。
彼女は、マルギット・シュメルツァー。
レウコン・イーリスが擁する膨大な戦闘員、その頂点に立つ指揮官、防衛隊総督の少女。
「エヴァは俺の護衛だ。離れるなよ」
「はっ!」
そして最後に、エヴァ・ドゥーケ。
白と黒が生き物のように流動する、神妙な模様を持つ髪。
そして、その髪と同じ模様を持つドレスをまとった女性。
ネグロの側近であり、彼の不在時には組織の全権を委託される存在である。
「まもなく月光殿の外に出る。リンネ、準備を」
「はい」
黒髪に和装の佳人、リンネが、ネグロの前を歩くように位置取る。
それから間を置かず、彼女の全身を覆うように、薄く発光する皮膜が顕現した。
敵の攻撃を防御する魔法の障壁を始めとする、敵にそなえるためのスキルを発動したのだ。
ネグロが統治するレウコン・イーリスが本拠地、『月光殿』。
CoCにおいて、月光殿は『極魔界』という高難易度フィールドの最深部、『とこしえの夜』エリアに存在する。
そこは地上1階層、地下100階層からなる、巨大なダンジョンであり、MODによって追加された日本風マップデータに、ネグロが更に改造を加えて創りだされたものである。
凶悪無比なダンジョンとしての難易度に反し、月光殿の外観は、華美の一言に尽きる。
その様式は日本建築の寝殿造りに似ており、長大な白木の柱から組み上げられた、見上げるのにすら苦労する、巨大な純白の棟がいくつも連なっている。
建物の周囲は池に囲まれ、さらにその外周部を、鬱蒼と茂った森が覆っている。
空は『とこしえの夜』のフィールド特性により、常に天候が月夜で固定され、瘴気に満ちた森のなかで、月光に照らされて白々と、恐ろしく巨大な屋敷の輪郭だけが浮かび上がる。
そんな幻想的な場所である。
はずだった。
「な、なんだ、これはっ!」
「これは、これは」
月光殿の外部に広がる光景を目にしたマルギットは、その声に戦慄をにじませて声を上げ、それにベルタが追従した。
「……真っ昼間……だな」
その声にどこか諦観に似た色を乗せて、ネグロは眩しげに手でひさしを作ると、空を見上げた。
抜けるように青い空。
白熱する太陽。
そこには、本来の月光殿が建つ極魔界にあるべき、悠久の月夜など欠片もなく。
苛立たしいほどに清々しく牧歌的な、太陽光の降り注ぐ草原があった。
「瘴気も全くありません。
ここは、極魔界ではない可能性が濃厚です」
「うん。だろうな」
ベルタの報告を受けて、ネグロは小さく息をつくと、ゆっくりを当たりを見回した。
月光殿を囲う池は残っているが、その奥に目をやれば、生い茂る魔の森も、月光を受けて発光する極魔界特有の植物オブジェクトも、その一切が綺麗に消失している。
かつては、ほのかな月光を受けて美しく輝いていた、月光殿の真っ白い外壁。
それも今や、いやに太陽光を反射して、もはや煩わしいとすら感じられた。
「まあ……一歩外に出たら死ぬとか、そういう事態にならなくて良かったと言うべきだろう。
……マルギット!」
「はいっ! ここに」
幾度か頭をガシガシと掻き、しばらく遣る瀬なさげに立っていたネグロだったが、間もなくして立ち直ると、彼は鋭い声でマルギットを呼びつけた。
「精鋭を幾人か選抜してチームを作り、月光殿の外部周辺を調査しろ。
念のため、お前自身も調査に同行するんだ。
生物には可能な限り見つからないようにし、仮に見つかったとしても極力戦闘はせず撤退すること。
期限は、そうだな……3時間だ。いかなる理由があろうと、今から3時間以内に帰還せよ」
「わかりましたっ!」
「それから、リンネ。
お前はマルギットの部隊に可能な限り強力な武具と、万が一に備えたアイテムを支給。
消費する素材の量に糸目は付けなくて良い。最悪の事態を想定して十分な用意をしろ」
「かしこまりました」
揃って頭を垂れるマルギットとリンネを一瞥すると、ネグロは自身の傍にひかえるエヴァへと視線を移した。
「エヴァは他の大幹部の補助を頼む。
特に防衛隊は総督のマルギットが不在になって大変だろうしな」
「かしこまりました」
「あとは……ベルタか。
お前は、月光殿内に異変が及んでいないかどうかを調べろ。
全部署の隅々から情報を吸い上げ、異常な点が見つかった場合は報告せよ」
「仰せのままに。ネグロ様」
「と、まあ……現状でできることと言ったら、こんなものか。
質問や進言がなければ、行動を開始せよ」
「はっ!!」
4人の美女、美少女が声を揃えた。
◆
「マルギットからの報告が上がりました」
黒曜石でできた重圧な机を挟み、ベルタはネグロにそう告げた。
「聞こう」
ネグロは短くそう告げると、静かに椅子の背もたれに体重を預けた。
ここはネグロのプライベートルームに隣接する、ネグロ専用の執務室である。
執務室という名に違わず、部屋のインテリアは無機質にして質実。
装飾を極力排し、実用性を重視したものが多い。
しかし、他でもない世界のすべてを手に入れたギルド、レウコン・イーリスの頂点に立つ人物の部屋である。
家具や小物の品質は、言うまでもなく最高級。
それ一つで伝説の武具が作れるであろう最高級の魔石を削りだして作ったインク瓶や、あらゆる金属の中で最高クラスの魔力伝導率を誇る純ヒヒイロカネのペン先を持つ万年筆。
巨大なひと続きの黒曜石を研磨して作った机や、世界を滅ぼす力を持つ最高クラスの魔物『ユグドラシル・トレント』の身体から削りだした棚。
この部屋にある物を適当に換金すれば、それだけで並みの国の国庫を軽く上回るほどの額となるだろう。
「はい、報告いたします。
まず、月光殿の周囲は、観測した限りではほぼ全て草原。一部には岩山や滝などがあったそうですが、地形に急激な変化は見られません。
また、太陽が存在しており、魔界特有の瘴気が無い点などから、少なくとも極魔界とは別のフィールドであると推測されます」
「ふむ……まあ、それについては見れば分かるしな」
ネグロは静かに頷きながら、脳内ではすさまじい速度で情報を処理していた。
CoCの世界がまるごと、そのまま現実化した訳ではないようである。
現実化したのは、月光殿のみであろうか。
であれば、月光殿が建っている"ここ"は、どこだ。
「マルギットの部下によって作成された地図がこちらにございます」
「……念の為に聞くが、この地形に見覚えはあるか? ベルタ」
「……いいえ。ボクの記憶にはございません。
エイト・ヴィンクラーにも地形の照合をさせましたが、記録に存在する全てのフィールドに合致するものはありませんでした」
「……だろうな」
エイト・ヴィンクラー。
組織内における過去から現在に至るまでのあらゆる事象を記録・管理している部署である、『情報管理局』の局長を務めるNPCの名である。
彼の知識は、レウコン・イーリスが蓄積する膨大な記録データと同等の情報量を持つ。
そのエイトが「記録に存在しない」と言う以上、それはレウコン・イーリスの記録に存在してないことと同義。
そして、ゲーム内全てのフィールドを踏破し、支配したレウコン・イーリスの記録に存在しない土地というのは、すなわちゲーム内には存在しない土地であるといえる。
となると、今現在ネグロが居る此処は、ゲームと異なる異世界、あるいはゲームと同一の世界であるが、時代が違う、という可能性もある。
「また、いくつかの原生生物の姿を確認できました。
こちらがそのデータでございます」
「ほう」
ベルタから手渡された資料に素早く目を通す。
そこにはやはり、ネグロにとって見覚えのない生物ばかりが記されていた。
「この生物のステータスは確認したのか?」
「はい。最上位の解析系スキルを持った者に確認させたようです。
その結果、これら生物たちはあまりにも――」
ベルタがその軽薄な笑みをやや陰らせ、ほんの少し言いよどむ。
ネグロはそこに不吉な気配を感じ取り、わずかに身を固くした。
ゲームの世界では、ネグロとその部下たちは最強の存在であった。
しかし、この世界の生物が、ゲームと同じ基準の強さである保証はどこにもないのである。
「あまりにも――弱すぎます」
「ん? 弱い?」
ネグロは手元の資料に目を落とす。
月光殿周辺に生息する生物の姿、生態、ステータスが細かく記述されているのに目を通す。
ここでもやはり、ネグロは人間であったころとは比べ物にならない処理速度を発揮し、資料を高速で読み進めることができた。
「なんだ、これ。 弱っ。
スライムレベルじゃないか」
「はい」
例えば、額から四本の角を生やし、全身が刺々しい形状の角質のようなものに覆われた4足歩行の生物。
さながらサイを何倍も凶暴にしたかのようだ。
しかし見るからに強そうな外見であるにもかかわらず、そのステータスは、CoCに登場する最序盤の敵と大差ない。
いわば、ゲーム開始直後に戦う最弱の敵よりも少し強い程度である。
資料をめくると、大抵の生物が似たようなステータスであることが分かった。
見た目はやたらと厳しかったり流麗であったりするのだが、総じて弱い。
資料中で最強の生物も、ゲーム中の中堅モンスターにすら至らない低ステータス。
レウコン・イーリスの構成員の中でも、この生物に負ける可能性を持つ存在を探すほうが苦労するほどである。
「まあ……月光殿の周辺に棲息する生物が特別弱いという可能性もある。
油断はせず、マルギットに月光殿の防衛をさらに厳重にするよう通達しろ」
「かしこまりました」
「ベルタ……この異変、どう見る」
唐突なネグロの問いかけに、ベルタは一瞬だけ動揺を見せる。
しかしすぐさま持ち直すと、朗々と持論を述べた。
「月光殿周辺の環境が急変したり、月光殿が別のフィールドに移動したという線もありますが……。
それでは説明を付けづらい事柄がいくつかあります。
全世界のマップデータを記録している、我らがレウコン・イーリスの記録に、周囲の地形が、全く該当しないのです。
たとえ環境が激変していても、この世界が我々の元居た世界と同じであるなら、山や川の位置などから、共通点を見つけ出せるはずです。
ですので、ボクとしては……恐らく、別世界に来たのではないかと」
「うん……素晴らしい。俺も同じ考えだ」
ベルタは驚いたように瞠目したのち、心底嬉しそうな笑顔を浮かべて「ありがとうございます」と一礼した。
「この世界をもっと調べなければならない。
どんな生物や物質があるか、どんな気候があるか……。
そして、もし人間などの知的生物がいるのなら、そいつらの生活や情勢も、な。
これから忙しくなるだろう。お前たちにも存分に働いてもらう」
「はい、仰せのままに」
「では、次の指示は追って知らせる。ご苦労だったな」
「いえ、ネグロ様のお役に立てる以上の喜びはございません。
どうか今後も、この身を存分にお使いください」
「……そうか。期待している」
「はっ! では、失礼致します」
ネグロの執務室から静かに退室し、扉を閉める。
扉を背にして、ベルタはゆっくりと深呼吸する。
そして、普段浮かべている人を喰ったような笑みをとろけさせるように崩した。
「褒められたっ……! 素晴らしいって言われたっ……!! くふふっ!!」
幼い少女のように、その場で小さくぴょんぴょんと跳ねながら、ベルタは歓喜に身を悶えさせた。
ベルタをはじめとするギルドの構成員は、ネグロの指示で動き、ネグロの役に立つことを至上の喜びとする。
ネグロの命令によって行動するだけでも、彼女にとっては天にも昇る心地であった。
それに加え、敬愛するネグロから直々に称賛の言葉を受けたベルタは、もはや失神しそうなほどの喜びを得ていた。
元々、大幹部らはNPCの中でも特別にネグロへの崇敬が深いのが、彼女の感情をさらに増大させている。
ベルタは、ネグロの執務室から出るまでの間、喜びのあまり小躍りしそうになる身体や、嬉し泣きしそうになる顔を必死に抑え続け、そして今、その感情をようやく解き放つことが出来たのであった。
「ああ……ネグロ様……偉大なる創造主……我が唯一の主……!」
上気した顔で、その目からは歓喜の涙を溢れさせ、ベルタはしばしの間その場で幸福の絶頂を味わい続けていた。
◆
「あれで、あんなに喜ぶのか……」
執務室の椅子に深く座ったネグロは、小さく呟いて苦笑いを浮かべた。
彼は、その卓越した五感によって、執務室の扉を隔てていながらも、ベルタの挙動を細かに把握していたのだった。
「まあ、NPCたちの動きを見るに、性格も俺が設定した通りのようだな……」
NPCを作成する際に設定したモーション、そしてAI、受け答えの定型文など。
それらの"性格"に関与する情報が上手いことに整合化され、現実化していると、ネグロは見た。
例えば先のベルタなどは、受け答えの定型文において、一人称を『ボク』に設定したのが、忠実に再現されていた。
「いずれ、俺自身の能力も確かめないとな……。
とりあえずは……」
ベルタが残していった資料を再度検分しながら、思考を働かせる。
少なくとも月光殿の周辺には知的生物は存在せず、またそのような生物が生活していたと思われる文化の痕跡もない。
この世界に知的生物が一切存在していないのならば、今後のギルドの方針は大分単純になるのだが、ネグロは事がそう簡単には進まないという強い予感を持っていた。
「どこかに文明を持つ生物が居るはずだ……」
この世界のことを知るには、元々この世界に住んでいる知的生物に接触するのが最も手っ取り早い。
そのため、まずは人間、あるいはそれに類する生物を探し出すことを第一の目標とする。
第二に、この世界が危険であるかどうかを判断し、もし危険性が高いのであれば、月光殿とNPCたちをその脅威から遠ざけ、守る。
そして第三に、もし、可能ならば――
「この世界の住人を、そしてこの世界を……支配する」
彼がネグロとなった副作用か、あるいは彼元来の廃人プレイヤーとしての気質か。
ネグロは、この未知の世界を"攻略"せんとする強い衝動を抱いていた。
『ドミネーター』。
それが、ネグロの有するジョブの名である。
◆