第六話 五十六年前
空に浮かんでいた巨大な女性は、独り言を聞かれていたと気づいた途端、その端正な表情を引きつらせる。
と――瞬時に、懐から取り出した【金色のマイク】を右手に握りしめると、鈴の鳴るような美声と共に、満面の笑みで軽妙な挨拶を披露した。
もっとも、その作りものめいた笑顔の頬を、たらりと一筋の汗が流れていったのを何万もの街の人々に見られた状態でだったが。
「…………」
まるで集団催眠にでも掛かったかのように、街はしんと静まり返る。
辺り一帯には、どうしようもなくやっちまったなぁ、という感じの、実に気まずい空気があふれていた。
「あっ……あれ? ちょっと、なんですかこの反応! もしかしてスベった? まさか、この【電波を司る神霊】たるエイーシャともあろうものが? ……OH! シット! こんなことならいつも通りにやってりゃあ良かったですわ~!」
本人は小声で呟いてるつもりなのだろう。
けれども、またしても辺り一帯に轟く独り言は、街中にダダ漏れだった。
「兄さん……あの大きい人は、笑いが取りたいのかな?」
「いやいや、芸人じゃないだろさすがに…………たぶん、電波ってそういう意味じゃないよな」
どことなく緩んだ空気が蔓延する中。
その空間を作り出した張本人はようやく我に返ったのか、こほんと可愛らしい咳払いを半径数キロに響かせると、表情を引き締めなおし、改めて口を開いた。
「えー、言葉は通じてますよねぇ。よっし! それじゃあ! 改めて、五十六期・移人団の皆さん、ようこそ異世界【バークウェア】へ! 通例通りにご紹介させてもらいますね。わたくしはこの世界におけるもっとも新しき神霊、【エイーシャ・ヴィーシャ】と申します。主に電気や電波、ネットにメディアなどの情報通信と機械製品、それら近代でバークウェアに広まった、新しい概念を司っておりますよー」
【神霊エイーシャ・ヴィーシャ】と名乗る存在がそう宣言すると共に。
地上では霧を凝縮した映像モニターのような、薄く半透明の膜の巨大なスクリーンが、何の前触れもなく街中に無数に現れた。
それは彼女の周囲――街のありとあらゆる空間――。
ビルや公園、商店街や公共施設に学校など、様々な場所に突如として数限りなく出現した。
「な! なんだこれ? スクリーンが宙に浮いてる!」
「まさか! SFじゃあるまいし……こんなことって!」
綜たちの周囲にも同様に無数のモニターが宙に浮いている。
その現象に驚きを示す綜と信じられない面持ちで目を見開く亜理紗。
それまでのどこか間の抜けた言動とは裏腹に、不可思議な現象を引き起こす圧倒的なまでの力。
眼前に突き付けられたその超常現象は、間違いなくエイーシャと名乗る彼女が、確かに【神霊】と呼ばれるにふさわしい存在だということを、街中の人々に見せつけていた。
「それにしても……神霊、五十六期? 一体どういう意味かしら、ねえ柳ヶ瀬はどう思う……って、柳ヶ瀬?」
「――痛っ……なんだこれ、クソ! なんでこんな時に……!」
異常事態の続発のせいなのか、疲れか頭痛か。
不意に神経が焼切れるような刺激を頭部に覚え、思わず頭を押さえる綜。
「ちょっと柳ヶ瀬? ねえ、どうしたの、気をしっかり持って、しっかりなさい!」
「兄さん?」
そんな綜の姿を弱気に囚われていると勘違いしたのか、亜理紗は傍らで奮い立たせるような檄を飛ばし、真桜は何もできずにただ固まったままだった。
「それでは、しっかりと志麻霧市民の皆さんが理解できるように、これまでの経緯を今から説明しますから。まあ……納得できないことばかりあるとは思いますけれど、私は皆さんが冷静に対処してくれると信じていますから、だから、今回もきっと大丈夫ですよね」
柔らかなその表情は、見る者に安心感を与える、神霊エイーシャの微笑み。
そんな女神の微笑に、街中の人々は不安に駆られながらも、どこかホッとした雰囲気を醸し出していく。
そしてどこから取り出したのか、いつの間にか【指示棒】を左手に持ち構えると、【金縁のメガネ】を掛けたエイーシャが、まるで教師が生徒に教鞭をとるように、教卓から見下ろすような姿で街全体の人々に語りかけてきた。
「えーっと、まずは理解すべき事柄から簡潔に述べましょうねぇ。この志麻霧市という、私たちから見ると異世界にあたる街が、ここバークウェアという世界に来たのは…………実は、あなた方が初めてではありません! なんと、今回で数えること都合【五十六回目】となるのですよ、この街ぐるみの集団転移は! そうです、あなた方はこの世界にとっての大移民団というなるのですよー!」
レッスンワン――女神は最初の爆弾を投下した。
「どういうことなの? いったい……何を言ってるのかしら、あの神霊というのは?」
「く、ぅ……!」
普段は人一倍聡明である亜理紗の戸惑いのつぶやきが綜の耳を打つ。
だがその言葉も今ではひどく遠くに聞こえた。
綜はこの世界に来てから襲われた偏頭痛と闘いながらも、目の前にそびえ立つ神霊の言葉を聞き漏らすまいと、必死に己の意識を奮い立たせている。
亜理紗や真桜もそんな綜の様子が気になるようだが、今はエイーシャの言葉にそれぞれ気を向けていた。
「最初は理解できなくても良いですから、とりあえずはお聞きなさい移民の人々よ。そう、事の起こりは今から五十六年前のこと。このルーギツ国の南の一角の土地に突然、志麻霧市と言う異世界の街が、丸ごと転移してきたのがはじまりだったのです」
「五十……六年前?」
綜が苦しげに呟くのと同時に、全ての空間モニターに合成CGのような映像が浮かび上がった。
それはきっと、【五十六年前】の当時の映像を模したものなのだろう。
そこには中世ヨーロッパの城塞都市を上空から撮影したような、空撮映像が映し出されていた。
だがそれも数秒の間。
次の瞬間には、その威風堂々とした都市が、画面いっぱいに溢れた光の爆発によって、一瞬にして塗りつぶされるように消されていく。
街を覆っていく光の洪水が治まり、数秒後。
スクリーンに残ったのは、異物が侵食するように。
それまでの牧歌的な町並みだった異世界の都市を……破壊して存在していた――見慣れた現代的な日本の街――街の人々が見慣れた【志麻霧市】の全景だった。
「異世界から来た志麻霧市の転移により、元々このバークウェアに存在していた街が押し潰されるように吹き飛びました」
エイーシャの言葉通り。
その映像の志麻霧市の周囲には、元々そこにあったのであろう。
倒壊し、崩れ落ちた石造りの建物や、血を流し倒れ伏す人々の姿も見て取れた。
「この世界から失われたものは、街一つ分の建物や人材等、諸々の消失。それは先触れの無い災厄、予兆無き凶兆、本当にヒドイ災害でした……とはいえ、私はこの時には神造まれてないから、知ってるのは記録だけなんですけどねぇ」
「………………」
悲しげに呟きながらも、どこか軽く、場違いなエイーシャの言葉に、もはや誰も反応することはできない。
志麻霧市に住む誰もが、いまや言葉を発することもなく、ただモニターの中のその映像を、食い入るように見つめていることしかできなかった。
映像自体はあまりにも鮮明すぎて、非現実的な作り物めいてはいたものの。
この時、誰しもがこの映像を事実として認識していた。
街を覆った赤い霧、そして空に出現した神霊と呼ばれる超越存在。
人々は、それらを実際に目で、耳で、五感で体験した。
そして、自分たちが本当に異世界に来てしまったことを。
さらに見せられた映像の中身と、先ほどからのエイーシャの言葉に――もしかして自分たちは、この世界から疎まれているのではないか――という事実に、気付き始めていた。