第四話 神部亜理紗
綜と真桜の二人が校舎の外に出た時、校庭は数百人の生徒たちで埋め尽くされていた。
多少薄まったとはいえ赤い霧は周囲に変わらず漂っており、およそ地面から三・四メートルに漂う霧がもっとも濃度が高い。
その赤い霧を目を凝らしてみても。
地面と水平な距離なら、百から二百メートルぐらいまでしか肉眼で視認することができないのだ。
やはり、それ以上の距離になると霧の密度が濃くなり、何も見ることができなくなっていた。
上空を見やると日が差しているのがはっきりと分かり、薄いセロハンのようにかかる赤い霧を透かして空を仰ぎ見ることができた。
しかし地面から肉眼で見る空は、やはり薄っすらと紅に染まっている。
午前中であるにも関わらずまるで夕焼けのようにも見え、日常の太陽光とは違い、不気味な存在感を放っている。
「霧が混じると、なんでこんなに薄気味悪く見えるのかな」
「うん……二階からなら、青空も見えたのにね」
ポツリと零す綜の愚痴に、相槌を打つ真桜。
そんな気が滅入りそうな赤い空から目を離し、綜は改めて周囲を確認する。
生徒の大半は状況を確認しようと、見晴らしの良い校庭へと移動していた。
それはまるで避難訓練の時の有り様にも似ていたが。
はっきりと違うのは、生徒たちがてんでバラバラに散っており、それぞれのグループで行動しているということだろう。
このごった返しの状況にも関わらず。騒々しい雰囲気は鳴りを潜め、周りでは街を取り囲む赤い霧の存在についての憶測が飛び交い、怯えの混じったボソボソとした会話が交わされている。
「やあ、庶務・柳ヶ瀬! ここ居たのね!」
「あ、神部会長! それにみんなも、一緒だったのか!」
聞き覚えのある、ソプラノの利いた歯切れの良い声に呼ばれ、そちらへと振り返る綜。
そこには生徒会長である神部亜理紗が居た。
彼女はこの異常事態にもかかわらず、普段と変らぬピンと背筋の張った毅然とした佇まいで立っている。
母親譲りの東欧の血が流れるサファイアブルーの瞳が、光を湛えたまま綜を見つめキラリと瞬き。
黄金色の艶やかな髪を纏う低い身長に似つかわしくない、日本人離れした肉感的な肢体は、鼻筋の凛と整った顔立ちで同姓の羨望を集め、異性の目を惹くカリスマ性を持っていた。
「なるべく固まって行動を共にしたかったからね、柳ヶ瀬ともはぐれる前で良かったわ」
そう言うと、肩の部分で鮮やかに舞うウェーブのかかった髪を払う。
その姿の後方には、亜理紗を頼りに集まった、綜も知り合いの生徒たちの姿が数多く見受けられた。
「そうですか、みんな一緒で良かった。それにしても、庶務って……あのねえ会長、俺はただ生徒会活動を手伝っただけですよ。何度も言ってますが、俺は正規の役員じゃないんですからね」
「なに言ってるの、君はすでに身内みたいなものよ。私としては、来季の生徒会役員の特別枠として、新規で庶務を創設するのも、やぶさかではないと思っているんだけどねぇ」
「うへえ。いやいや、便利屋はもう勘弁して下さいよー。有望な下級生なら、ほらほらここにも居ますから」
「えっ、ちょっと兄さん?」
いきなり綜に肩を掴まれると亜理紗の前に突き出され、驚きのあまり声のトーンが上ずる真桜。
しかしその内心とは裏腹に、相も変わらず真桜の表情に焦りの様相は一片も浮かばなかった。
「へえ、これが噂の柳ヶ瀬の妹ちゃんか。ふーん、中々いい面構えじゃない。全然おどおどしてないし、度胸もあるみたいよねえ」
「あ……どうも」
「ふふん、私の前でも肝が据わってるじゃない。いいわぁ、気に入ったわ貴方たち」
「ちょっと、さらっと俺を混ぜないでくださいよ」
肩をすくめ大げさに嘆息する綜と、意味ありげにカラカラと快活に笑う亜理紗。
「ははは。そう邪見にしないでよ、相変わらず女の子の扱いが解ってないなー君は」
「へいへい、会長がもっと可愛げがあれば考えますよ、俺だって」
「くくっ、違いないわ。そこら辺はまあ、お互いに努力が必要ってことなのよね」
二人の気安いやり取り。
それが、周りに集まっていた生徒たちの緊張をほどき、肩の力の抜けた緩んだ空気を醸し出す。
「ふふ」
互いに言葉にしなくとも意図した通り。
ちゃんと皆の緊張をほぐす効果を得たことに気を良くしたのか、周囲に気付かれないように綜に向けて軽く微笑み、ウィンクを飛ばす亜理紗。
(っ! ……たく、そういうポーズが似合いすぎだっての、神部会長は)
若干熱くなった頬を誤魔化すように、不自然に周囲を見渡す綜。
ふと、その中に混じっていてもおかしくない、友人が一人足りないことに気づく。
「あれ、由宇はいないんだ?」
「由宇って、東雲由宇のこと? そういえば見当たらないわね、まあ私も生徒全員を把握しているわけじゃないから、どこに居るかまでは分からないけど」
「いえ、知り合いが勢ぞろいしてるから、てっきり由宇も居るのかと思っただけなんで……まったく、どこに居るんだあいつ」
綜の脳裏に、中等部の時に転校生としてこの街にやってきて、今では親友といっても過言ではない友の姿が思い浮かぶ。
誰よりも行動を共にすることが多かった親友。
だがその姿が今は見当たらない。
どこに行ってるのかと、綜が考えを巡らせていると、不意に亜理紗が顔を寄せてくる。
そのまま周りに悟られないように声を潜めると、彼女は綜にだけ聞こえるような小声で話しかけてきた。
「……ねえ、これってさ夢を見てる、って方が信じられる光景よね。まあ残念ながら頬をつねっても眼は覚めないし、痛いだけだったんだけどね」
およそ現実ではありえない光景に、亜理紗自身も内心では底の知れない怖れを感じていた。
いまだ皆の前では気丈に振る舞ってはいられるが、感じているその恐怖を、彼女は綜にだけは吐露していた。
「これは残念ながら確かな現実で、異常な現象であり、異様な現実なのよねぇ。まあ通信機器は軒並み不通だし、一体何がどうなってるのやら。はー困ったわ、困ったわー……ほんと、誰か助けてくれないかしらー?」
「会長……」
奇怪でただならない現象を自覚し、不安視しつつも、亜理紗はあくまで軽い調子で言葉を紡ぎ、笑顔を浮かべる。
だがその整った相好が間近で見ると強張っており、微かに全身を震えが覆っているのを綜には見て取れた。
亜理紗自身、普段と変わらぬ口調をするようにと、心がけているのだろう。
その持ち前の強いリーダーシップが彼女を支える根幹であり、同時に彼女自身を縛る鎖であるのだと、綜は漠然と理解していた。
「ところで会長、そのことを俺に愚痴る意味は?」
「ふふ、生徒の模範であるべき会長の責務って意外と重いのよぉ。だから、柳ヶ瀬にもそれを体験してもらおうと思ってね」
「俺自身がそれを抱える必要は、どこにあるんですかねえ」
「言ったでしょう柳ヶ瀬。私は君に期待しているのよ、それに予行演習にもなるでしょう」
「だから役員に、ってことですか……はあ」
左目を軽くつむり、再びウィンクを飛ばしてくる亜理紗に、綜は軽く嘆息し、口の端を皮肉気に吊り上げることで応えた。
「これだけおかしなことばかり起きてると、確かになにがきっかけでパニックになるかも分かんないですしね……責任うんぬんは置いといて、用心するには越したことは無いでしょうね」
改めて、綜は周りに集った生徒たちを見回しながらそう呟く。
周囲には先輩後輩を問わず、綜自身が今までの学園生活で様々な出来事を経験し、それがきっかけで知り合うことになった親しい人たちの姿が幾人も見受けられる。
亜理紗のようにリーダーシップを取るつもりはないが。
綜自身の気持ちとして、そんな周りの人たちを助けたいという純粋な気持ちが、胸の中には確かにあった。
「うん、そうだよね、柳ヶ瀬」
そんな綜の気持ちを見透かしたように、薄っすらと微笑む亜理紗。
だが、そんな二人の純粋な想いをあざ笑うかのように、さらに事態は二転三転と転がり続けていく。
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