第一話 赤い霧
時間を遡ること――およそ十四時間前。
その日は十月の末、そろそろ薄着で起床するのは辛くなる季節の朝だった。
カーテンの隙間から無遠慮に差し込む日差しに導かれ。
柳ヶ瀬綜は寝起きでふやけた意識をなけなしの精神力で奮い立たせると、もっさりとベッドから出た。
昨夜の食卓で早番だと告げていた義母は、とっくにトールワゴンの軽自動車で会社に向かっており。
真面目で練習熱心な義妹は、来月の大会に備えた弓道部の朝練のためにすでに家を出ていた。
一人家に残されていた綜は、自室を出て一階へと降りる。
まずは洗面台でさっぱりと顔を洗い流すと、冷蔵庫から丁寧にラップが掛けられていた義妹手製のサンドイッチを取り出した。
もそもそと口内に詰め込みながら、学校指定のスクールブレザーを羽織り、空いた左手でボタンを留めていく。
身支度も滞りなく整い、少しクセ毛のある黒髪を揺らしながら、綜が教材の入ったバッグを肩にかけ玄関を開けたその時、差し込むように目映い光が綜の両眼を無造作に撫で上げる。
「いってきまーす、って――うわ、なんだこれ?」
誰も居ない家に向かい挨拶すると同時に外へと踏み込んだ足を、綜は思わず止め、たたらを踏む。
その足元を濃い霧がまるで子犬のように纏わりつくのを綜の目が捉えた。
「霧? にしても朝焼けのせいか、妙に赤色っぽく見えるな、これ」
眼に優しくない朝の日差しを遮るように、自身の額の前で手をかざし、周りの様子をうかがう綜。
すると綜が今居る住宅街を含めた辺り一帯、まるで濃厚なコンデンスミルクに熟れた苺を擂り潰したような、濃い赤い霧が、絹のベールのようにかかっているのが見て取れた。
「霧で乱反射してるからか? 妙に日差しが目にくるな、にしても山の方まで、ったく、もみじのシーズンにはまだ早いっての」
綜たちの住んでいる街をぐるりと囲むように、いつもは存在感を主張するはずの山々が、今では赤みがかった霧によって、薄っすらとその威容を季節外れの紅葉の色に染めている。
それがどことなく気に入らず、悪態が思わず綜の口をついて出た。
「ま、いっか。朝から面白いものが見れたし、悪い一日じゃなさそうだ」
体表全体に粘るように纏わりつく霧のように、どこか胸の奥にへばり付く不穏な虫の知らせを気のせいだと振り払う。
綜は気分を新たに、どこもかしこも茜色に染めあげた濃霧をかき分け、改めて学園へ向けての一歩を踏み出した。
これを最後に、家族の誰一人として再びこの家に戻ることは無かったのだと――この時は、知る由もなく。
◆ ◆ ◆
「朝はあんなに日が照ってたのに、今はなんだか不気味にくすんでるな」
いつも通りの教室で、普段は口にしないセリフが、綜の口を突いて出る。
その言葉を裏付けるように綜の視界の先では、不自然なほどに濃淡が激しく、気味の悪い赤い霧が日光を遮るように、窓をへばりつくように塗りつぶしていた。
「まだ曇りの方がマシだよねぇ、なんか気が滅入っちゃうよ、この霧」
「ね~、赤色の霧ってさ自然に出るものなのかな?」
綜が発した言葉と同じようなセリフが教室内の生徒の口々から零れている。
それはいつもの平和な学園生活を一変させるインパクトを持った、不気味で異質な色彩に対する皆の一様な感想でもあった。
登校時から勢いを増していた赤い霧の進軍は、その後もこんこんと湧き出る流水のように、市内に張り巡らされた道をなぞるように流れ、溢れていった。
それは一限目の半ば頃には三階に位置する。
綜たちが授業を受けていた二―Aの教室の窓枠にまで達したことで、教室内の生徒たちの視界は陽の光を遮断した濃く赤い霧に覆われ、外界の景色をも遮ってしまっていた。
なんとか日々の習慣通りに授業を進めようとしていた教師たちも、その異様さに次第に教鞭をとるための言葉も途切れがちになり、ついには緊急の職員会議が開かれることとなった。
そのため二限目の現在、教室には生徒たちだけが取り残されていたのだが。
「……本当に、大丈夫かな」
普段ならば降って湧いた自習の喜びに歓声を上げるはずの生徒たちの声は、どこからも聞こえてこない。
今はただ、生徒の誰もが赤い霧のカーテンが掛けられた窓を、食い破るような目つきで見つめながら、その有り様を語りあっていることしかできず。
それは不気味な赤い霧と共に忍び寄る、得体のしれない恐怖心を振り払うために、霧の向こうに日常のパノラマを見つけるためのごまかしでもあった。
「なんだかこれ……お芝居用のドライアイスの霧より、嘘くさいって感じしない?」
「だ、だよなー。この赤っぽさなんてさ、屋台のぼったくりアメ並みのチープさだぜ」
「食えるのかよ、これ?」
「馬鹿、んなワケねーだろ」
気を取り直すようにぎこちなくも、明るい調子の生徒たちの会話が弾みだすと、次第に教室内を熱を持った喧騒が包み込んでいく。
「あー、駄目だよ、まだ電波が繋がらなーい」
「やっぱり? あたしもダメー。どうなってるのよこれ、一限の休み時間から全然だよ」
赤い霧の影響で電波障害が発生しているのか、外部と連絡を取るための通信機器は、その全てがオフラインとなり繋がらない。
電源は入り、スタンドアローンでの端末の機能は使えるものの。
外界からの情報がシャットダウンされているという現状が、生徒たちの胸の奥に不安をこびりつかせる。
「ネットもテレビもラジオもダメ、か。って……あれ? お、おい! みんな見ろよ! 霧が晴れてくぞ!」
「えっ、うそ?」
「わっ、ほんとだ! やった、これでお母さんと連絡取れる!」
窓の外を見ろと、指揮棒のように掲げられた男子生徒の指先につられる様に、クラス中の生徒たちの視線が窓の向こう、外の景色へと注がれる。
数多の瞳の先では、赤い霧が舞台袖に収納されるセットのように、すうっと上の方から薄れていく様が見て取れた。
それと共に天盤が開かれたように、熱を持った太陽光が街を照らしていく、それは得体のしれない不安からの解放でもあった。
一斉に沸きたち、席を立つと身を乗り出すように窓の方へと押し寄せていく生徒たち。
いまや学園の至る所から歓声が鳴り響き、同調するように校舎を震わせていく。
だが、その希望は霧と共に、儚く消えた。
「――っ、なんだ?」
混雑を避けるために、皆から一拍遅れて席を立とうとした綜の身を、不意にぞわぞわと、脊椎の芯を冷やすような寒気が襲う。
「なっ! なによあれっ? 消えたんじゃなかったの!」
「そんなぁ! ウソでしょ!」
綜の耳に窓際の女生徒の叫びが飛び込んできた。
その高く響く声に引かれるように、窓際に群がる生徒たちの肩越しに、視線を素早く外へと走らせる。
「っ! まだ霧が、離れただけなのか?」
そこにあったのは、今なの厚く存在感を示す、赤い霧。
霧が晴れたと思ったのは、単純に今まで目の前に迫っていた霧が、距離を置くように視界の隅にまで遠のいたからだった。
学校の周囲にはいつもの見慣れた街並み。
だがその街を取り囲むように遠のいた赤い霧は凝縮され、濃度を増し、まるで壁のように街を取り囲んでいるように綜には見えた。
上を見やれば、朝に比べると幾分柔らかくなった日差しが降り注いでくる。
それは抜けるような青い空で、一見すれば日常の風景。
綜にとっても見慣れたはずの身近な風景パノラマの一部だった。
だが、視線を地平に落とすとそれまでの日常は異常へと一気に翻り、様変わりしてしまう。
その異常に耐え切れず、思わず声を荒げる綜。
「おっ、おいおい、冗談だろ! 一体なんなんだよ、この霧は?」
その声は教室中に響くほどの音量だった。
だが、そんな彼を窓際の生徒たちは振り返らない、いや、振り返る余裕がない。
なぜなら、彼らの視線を釘づけにしているのは、山をも越えてそびえ立つ赤い霧。
「ねえ、これってまるで、赤いカーテンみたいじゃない?」
クラスメイトの誰かが漏らした何気ないつぶやきに、綜は無意識に返答していた。
「ああ、霧で出来た……馬鹿げた大きさの、な」
陽が差してきたのは、単純に漂っていた霧が街の中心部から薄れていっただけだった。
肝心の霧は相も変わらず周囲に存在し、普段は街を取り囲むような連山をも、さらに被せるようにそびえ立つ赤い霧が覆っている。
そして周囲の状況が見えるようになったということは、決して事態が好転することには繋がらず、むしろ異様な周囲の有り様を見せつけられることによって、彼らの不安はさらに高まっていった。
街の中心部だけが、霧が晴れている奇妙な現象。
正体不明の赤い霧が起こしたその不条理な事象に、今や街の誰もが不安を抱いていた。
――その日、日本の地方都市、【志麻霧市】は、異世界へと転移した。