第十一話 疑念
脳裏によぎるのは、真っ赤な紅葉に彩られた秋の記憶。
綜が十歳の時、末期の肺がんで父親が無くなった当時の記憶。
遺骨の入った白磁の骨壺が、無事にお墓に納められるのを見届けた後。
泣き疲れて居間のソファで寝ていた義妹を残し、綜は独り、庭から山間に落ちる紅の夕日を眺めていた。
その目から、流すべき涙もとうに枯れ果て。
独りで悲しみに溺れ途方に暮れていた綜にそっと近づき、後ろから抱きしめてくれた義母の温もりを今も覚えている。
血の繋がった実父を失い、世界にただ一人だけ残されたような孤独の恐怖に震えていた綜の心はあの時、義母が差し伸べてくれた温かい手によって、確かに救われた。
「だからこそ、今度は……俺が!」
この場に残った生徒たちが生き残り、街を包む赤い霧を抜け、この世界でも皆で笑いあえるような、せめてもの救いをこの手で掴むため、護りぬくために。
――柳ヶ瀬綜はそんな未来を夢想し、ここに決断した。
グールの群れをなんとか引き離した時には、また生徒の数が、減っていた。
距離を稼いだ今も、綜の視界では未だ幾人かの生徒の姿が、赤い極彩色で毒々しいまでに塗りつぶされている。
文字通りのデスマーチに、乾ききった綜の唇からは溜め息しか零れない。
(とはいえ、どうすれば……この予兆をどんな風に使えば良いんだ? 早く何とかしないと、こうしてる瞬間にも……っ!)
「いゃああ! あいつらよ! あ、あの化け物がまた!」
再び集団の後方、数十メートル先から、獣の遠吠えのような唸り声が近づいてきた。
それと同調するように、綜の視界では――周りに居る生徒たちの姿をじわりじわりと塗りつぶすように、さらなる赤色の浸食が広がっていく。
「まずいわ……み、みんなもう少し頑張って! えっと、ここがあれで、っ……どうすれば」
「神部先輩! はやく指示をちょうだいよぉ! もうやつらがそこまで!」
「わっ、分かってるわ!」
泣き叫ぶ女生徒に煽られ、思わず怒鳴り返す亜理紗。
さすがの亜理紗も連続する異常事態に追い詰められ、疲弊した頭ではとっさの判断に迷いが生じる。
たとえどれほど高い能力を持ち、生徒を率いる指導者足らんとしていても、彼女もまだ一般の学生に過ぎなかったのだから。
しかし現在の状況が、亜理紗にそんな甘えを許してはくれなかった。
「どこに行けばいいんですか! はやく! 早く決めてくださいよぉ、会長ぉ!」
「そ……そうよ! そこの路地を右に抜ければきっと――!」
苦し紛れに亜理紗が指示を発した瞬間。
綜の視界が場面が切り替わったように、深紅のスクリーンに染め上げられた。
――その中には亜理紗を含め、真桜や健瑠たちの姿も含まれており――
「ダメだ!」
「っ、兄さん?」
「先輩? 何を」
突然の綜の怒号に、思わず驚きの声を上げる真桜と健瑠。
だが傍に居る二人の戸惑いの声を振り切るように、綜は一気に駆け出すと、集団の先頭へと躍り出る。
いまだ脳裏にこびりつく、『予兆なんて正気じゃない』といった、己の理性や常識といった賢しい思考を全て放棄し、知性や分別すらかなぐり捨て、綜は感情の赴くままに動く。
それはまるで、感情のままに動いていた、やんちゃであった子供の頃に戻ったような、そんな懐かしい感覚。
綜はその極限にまで研ぎ澄まされた意識の中で、心に刻んだ己の信条を思い浮かべる。
(これ以上、犠牲者を出すわけにはいかない!)
そう決意を強く抱き、目の前の分岐路を見据え、その先をイメージする。
――右側の路地を選択し、進むイメージを強く心に刻み、後ろの生徒集団を振り返る――【不可】
ほぼ生徒の全員が、視界の先でどす黒い赤色に染められている、予兆通りならほぼ全滅の取り返しのつかないレベルだろう。
――真ん中の小道を選択し、進むイメージを心に描き、後ろを振り返る――【可】
赤色の生徒はかなり減ったが、真桜が未だに濃く塗りつぶされている。絶対却下。
「はっ、はは! やっぱりな、こいつ……俺の思考とリンクしてるのか? それなら!」
――左側の路地を抜け、裏通りを右手に進む――そのルートを頭に焼き付けながら、三度後ろを見る――【有効】
赤くポイントされている生徒はさらに激減した。赤色そのものも濃淡が薄まっている。上手く逃げれば助けることは――【可能】!?
「ね、ねぇ妹ちゃん。柳ヶ瀬はなんで立ち止まってるの? ここははやく逃げなきゃダメな場面なのよ! このままじゃみんなが!」
「わ、分からないです、あんな兄さん、見たこと無い」
「パニックになってるってこと? くっ、やっぱりここは私が先導しないと!」
綜の突然の叫び声に気取られて、動きを止めていた生徒たちだったが。
亜理紗は気を取り直すと、混乱していると思われる綜を諫めるために、その歩を進める。
「柳ヶ瀬、しっかりしなさ――!?」
「やっぱりここしかない! みんな、俺について来い!!」
気付けのために、肩を叩こうと思って振り上げた亜理紗の手が、素早く駆けだした綜の身体に触れることも無く、見事に空を切った。
そして後方に居た生徒たちは、綜の言葉にはっとすると。
ようやく与えられたルートに、我先にと飛びつくように、次々と過酷なグールとの鬼ごっこへ再び突入する。
「ほら生徒会長も、はやく動かないと皆に置いていかれますよ」
「わ、分かってるわよ! まったくなんなのよ! ちょっと、待ちなさいっ!」
脇を駆け抜ける健瑠に声を掛けられ、気分を一新するように頭を振ると、他の生徒たちよりも一拍遅れて、亜理紗も集団に遅れまいと足を踏みだす。
集団の先頭はすでに先の十字路を左に折れ、建物の陰にその身を隠していた。
「だからそっちは……! えっ、こんな? まさかグールが!」
自分の指示とは真逆の行動を綜がとったことに、知らず知らず反発の芽が亜理紗の心に芽生える。
しかし、そのしこりのような不満を抱えたまま生徒たちの後を追い、左側の路地に飛び込もうとした直前、亜理紗の耳にくぐもったグールの唸り声が聞こえてきた。
その後、亜理紗は左の路地に入りながら、自分が最初に決めた右側の路地にグールの群れが大挙として押し寄せ、埋め尽くされていく様を見た。
「ひょっとして……あのまま右に行ってたら、みんな襲われてとんでもないことになってったこと? まさか……柳ヶ瀬はこれを察知していたっていうの?」
先頭で右へ、左へと、指示を飛ばしながら駆ける綜の姿を視界に捉える。
亜理紗の目から見て、綜自身は一欠けらの戸惑いもなく進んでいるように見えた。
「こんな状況下で、なんの迷いもなく?」
果たして、迷いが無いということは正しいのだろうか?
この状況で常人ならば戸惑う、もし道を間違えていれば、と。
この状況で常人ならば恐怖する、もしこの先でグールと出くわしたら、と。
「……異常だわ」
迷いが決断することを遅らせ、危機を招くことは亜理紗だって百も承知だ。
だからこそ、指導者は個々のリスクを人々から請け負い、それを乗り越える立場で指示をする。
人を導くとはそういうものだと、亜理紗は常々考えており。
綜にも身につけてほしいと期待していたのは、そういう【モノ】だった。
だが、目の前で恐怖に囚われた生徒たちを先導する今の綜は、何かが違う。
戸惑いが無い、恐怖が無い。
それはルールを知らない子供が、ただひたすらにボールを追いかけているだけの、児戯のようで。
いつしか飛び出した子供はフィールドさえも外れ、横合いからの車に衝突するような、そんな危なっかしさと、例えようもない不安感を、亜理紗に感じさせていた。