第十話 片鱗
――エイーシャの宣言とグールの襲撃がはじまってから、すでに六時間。
霧を透過して差し込む赤い陽光に照らされた街は、まるで血の池の底で地獄の獄卒が徘徊しているような地獄絵図へと変貌してしまっていた。
「もっと早く走りなさい! 気を抜くとヤツラに追い付かれるわよ!」
学生の集団を率い、そう指示を飛ばす亜理紗にも余裕はない。
本来、生徒たちを指揮すべき教師の姿が此処には無いことも、彼女の精神を疲弊させる要因となっていた。
他人の子供よりも自分の家庭を優先する大人や、己の命を優先する者は、グールが校舎に押し寄せる前にとっくに車で脱出を図っており。
あくまでも生徒たちを守ろうという使命に燃えた少数の教師たちは、先導することで図らずもグールの襲撃から教え子を守る盾となり、すでにその貴い命を散らして逝ってしまった。
その後、亜理紗の統率の元で行動していた生徒たちであったが。
はじめは百人そこそこの集団で行動していたのも、今ではすでに半数以上がグールの牙に掛かり、この場には四十人程度、ほぼ一クラス単位の生徒しか残されてはいなかった。
「くそっ! ヤツら警察犬のように鼻が利きやがるのか? こっちがどこに隠れてもすぐにわらわら集まってきやがる!」
「兄さん、犬はやめて」
「あー、そうだよなぁ、さすがに一緒にしたら犬が可愛そうかぁ」
「それだけ喋れるのなら、まだ平気でしょう? 相変わらずタフですねえ先輩は」
「はっ、そういうお前もな、健瑠!」
しんがりを務める様に、集団の後方で会話をしながら走る、柳ヶ瀬兄妹と名波健瑠。
体力に自信のある綜と真桜の二人と、それに食らいつきながら、小さい身体を刻むように、素早く、同じスピードで通りを駆ける健瑠。
この三人はまだ余裕がある方だったが、他の生徒たちの中には肉体的、精神的にも疲労が重なり、動きも緩慢で呼吸もままならない者の姿が多数見受けられていた。
「っああ! ちくしょう! ここにもグールがぁ! っぎ……ぎゃあぁっ!」
集団の先頭を走っていた前方の四人が、路地を右に曲がったところで悲鳴を上げる。
通りの向かい側から聞こえてきたその絶叫に、生徒たちは一様に身を竦ませ、足を止めてしまう。
ぐしゃり、びちゃ、と。肉が裂かれ、血が飛び散る音が聞こえてくる。
永劫に続くかのような、不気味な咀嚼音がようやく終わった時。
緩慢な動作で、血潮の臭うグールの集団がその身を現した。
「いけない! みんな止まらないで、足を動かすのよ!」
グールたちは新たな生者の臭いを嗅ぎつけたのか、一斉に生徒の集団へと早歩きのスピードを維持したまま、ずんずんと進んでくる。
鋭く伸びた犬歯の生えた口を大きく開き。
白濁した眼球を見開きながら、くぐもった呻き声を上げ追いかけてくる。
「こっちだ、みんなあわてるなっ! ――って、くうっ、また……かよ」
後方に居た綜たちは、逆回転するように押し寄せてくる、生徒たちの波に飲まれないように脇に身を寄せると、するりと上手く輪の中に滑り込み、同じように逃走を開始する。
両脇が住宅街になっている道路の幅は、およそ五メートル。
決して狭くはないが、数十人が一斉にスタートを切るには余裕がなさ過ぎた。
さらに恐慌を来たした生徒たちは足がもつれ、お互いの身体をぶつけ合いないながら逃走している。
その後ろ姿目掛け、疲れを知らぬ人喰いのモンスターはすぐそこに迫っていた。
――徐々に遅れ始めた集団の尾に、ついに狩人の牙が食らいつく。
「ぐぎゃあああ! かっ、噛むなぁ! お、俺は、グールになんてっ、なりたくねぇ!」
悲痛な叫びが、伸びきった隊列の後方から聞こえてきた。
この異世界のグールに襲われたものは、傷口から感染することで、新たなグールになるという恐ろしい事実。
しかもその襲い掛かってくるグールのいずれもが、過去の志麻霧市の移人であったという現実を、皆すでに知らされている。
彼らは、身を震わす暗い底なし沼に落ちるような絶望感を味わいながらも、今はただ、ひたすらに逃げ続ける他に、持てる術は無かった。
「く……っ!」
嘆きを押し込め、恐怖を忘れ、叫びそうになる口を固く閉じながらひた走る。
「――っ、だから! さっきからなんなんだよ、【コレ】は!」
そんな切羽詰った状況の中で、荒い息に混じりながら、綜の愚痴が口から漏れる。
先ほど先行し犠牲になった四人を、彼らが曲がり角を曲がる前まで、綜は丸山貴之の時と同様に、【赤色】に染まった姿で見ていた。
そして彼らが角を曲がる瞬間。
四つの人型をさらに彩るように、【濃い赤色】が彼らが塗りつぶしていくのを、その目で映像として捉えた。
――数瞬の後、彼らは命を落とした。
(やっぱり、なぜかは分からないけどコレは……この現象は――俺の視界で【赤く染まった】人間は……【死亡】するって予兆なのか?)
息を呑み、喉がゴクリと鳴る音が、綜の熱を持った頭の中で反響する。
理由は分からない、原理も知らない……だが、今は理解だけはできた。
(というより、赤い霧のせいで俺が狂ってるだけなのかもしれないけどな。それでも……もしこれが、本当に確かな現象だというのなら……俺がすべきことは、俺は――)
――この力を上手く使えば、みんなを救うことができるんじゃないか?――