理緒と俺
翔ちゃん視点。
認識の違いが、こんなに溝を生むなんて思ってもみなかった。
気持ちは同じだと思い込んでいた。
言わなくてもわかると思っていた。
―――それが全部幻想だったなんて。
俺はぐちゃぐちゃの顔はそのままに、布団の中に潜り込んだ。
俺の家の隣には、俺が生まれる前から中西さんという一家が住んでいる。
ちょっと厳しい奥さんと、お調子者の旦那さん。それに、俺より七つ年上の理緒。
中西さんは共働きだったので、理緒はよくうちでご飯を食べた。ごちそうになるばかりで申し訳ない、と理緒が台所に立つことも多く、中西夫妻が休みの時はうちは一家で招かれた。いわゆる家族ぐるみのお付き合いというやつだ。
その良い関係は、俺が生まれる前から作られてきたものらしく、二つの家族がここまで結びついたのには、理緒の存在が大きかったようだ。
理緒は美人だ。
すれ違う男が七割近く振り返るくらい美人だ。
すらりと背が高く、落ち着いた茶に染めた髪は柔らかく艶やかだ。目尻はいつもトロンと下がって色気がある。鼻も口も小さくまとまった超絶美人だ。
俺は生まれたときからずっと理緒がそばにいたから、ちょっと美的感覚がおかしかった。
小学校にあがり違和感をおぼえ、中学校にあがってそれに気づいて愕然とした。
当たり前だと思っていた理緒の美貌は、当たり前ではなかった。
周りの女の子を探しても、理緒ほどの美人はなかなかいなかった。ちょっとかわいいかな、くらいの子はいるが、大体が自分の容姿を鼻にかけていたり特定の子を仲間外れにしていたり、性格に難があった。どんなに容姿が良くても、性格がアレだと滲み出るものだ。
その点、理緒は性格もイイ。
俺がわがままを言っても、イライラしても、理緒は目尻をいつもより下げるだけだ。でも、いけないことをしたら叱ってくれる。頑張ったことを認めてくれる。
そして、俺が何を本当は言いたかったのか、何をしたかったのかにすぐに気づいてくれた。
理緒は俺のことを一番よくわかってくれている。
理緒はいつでも俺の一番だった。
親しいお隣のお姉さんと思っていた理緒への気持ちを自覚したのは、理緒が大学に行き始めてからだ。
理緒はテニスサークルに入った。一応、テニスもしているが、要はお遊びサークルだ。春夏秋はテニスと飲み会、冬はボードと飲み会。
飲んで帰ってくることが増えて、男の車で帰ってくることもあった。
ダイガクセイってのは、遊ぶために高い学費を払っているのか、と理緒に言うと、『ちゃんと勉強もしてるよ』と朗らかに笑われたが。
ある夜、試験勉強をしていた俺は外に車が止まった音に気がついた。時計を見ると、午前0時をまわったところ。
細くカーテンを開けると、案の定理緒が帰ってきたらしい。
覚束ない足取りで楽しげに玄関ポーチを歩いている姿が見えた。
あの調子だと、庭石に蹴躓くのも時間の問題だ。
理緒は美人で頭もいいが、ちょっと抜けている。つい先週も酔っぱらって帰ってきて、庭石に脛をぶつけて痛い思いをしたところだ。
「…ったく、世話が焼けるな」
上着を羽織って玄関を出ると、俺の目に飛び込んできたのは、中西家の玄関ポーチに立つ理緒と見知らぬ男。
―――ふわふわと歩く理緒の腰に、馴れ馴れしくまわされた男の腕。
それを見た瞬間、ザアッと音を立てて血が逆流するような感覚が俺を襲った。
理緒を支えている男は、理緒よりも頭ひとつ分背が高く、がっちりした体つきの細マッチョだった。
男が理緒の耳元で何かささやくと、理緒が笑う。
やだぁ、冗談! と理緒が男の腕を平手で叩く。酒のせいかほんのり赤い頬がいやに艶かしい。
「理緒!」
気づけば俺は、今が夜中だとか、相手が自分より年上の男だとか、全部頭からすっぽ抜けて大きな声をあげていた。
俺の声に理緒が振り向き、へにゃりと笑う。
「あれぇ、翔ちゃん? どうしたの?」
理緒が俺と話していても、男は理緒から手を離そうとしない。
―――イライラする。
「あの、送っていただいてありがとうございました。もう大丈夫ですので」
とっとと帰れ、と言外に睨むと、男はポカンとしたあとすぐに、にやにやと下卑た笑いを浮かべた。
「あー、お隣のお姉さんのナイト気取りなんだね! あるある。年上に憧れる時期ってやつだよなー」
「――っ! 家に入るぞ、理緒」
男を振り返りもせず、理緒を家に押し込んでから、俺は全速力で自分の部屋へ逃げ込んだ。
俺はナイトなんかじゃない。
理緒を守る腕も、頭もない。
こんな風に逃げるしかないただのガキだ。
―――理緒はお隣のお姉さんなんかじゃない。
あんな、あんな男に触られてるところなんて見たくなかった。
ぐるぐる、ぐるぐると考えて、ようやくたどり着いたのは、今更ながらの答えだった。
俺は、理緒が好きだ。
お隣のお姉さんとしてじゃない。
一人の女の子として。
自分の気持ちを自覚した俺は、とりあえず勉強を頑張った。
理緒が出た高校も大学も、このあたりではかなりレベルが高い。
別にもっと身の丈にあった学校へ行ったとしても理緒は見下したりはしないだろうが、何となく理緒と並べるくらい俺だってできるんだと言いたかったのだ。
サッカー選手になる気もなかったが、運動ができないのも格好悪かったのでサッカー部でかなり頑張った。
たくましい男になるためには、筋トレも大事だと思ったので、毎日欠かさずやった。
それでも、こんなに頑張っても、理緒と俺の間には七年という大きな年の差がある。一つ追いついた気になれば、理緒は数歩先へ行ってしまっている。
悶々と悩みながらも、俺は猛勉強のかいあって理緒の母校に合格することができた。
「おめでとう、翔ちゃん。たくさん頑張ってたもんね」
理緒がくれたのは、真新しい辞書だった。
「翔ちゃんのことだから、お古でいいとか言いそうだと思ったけど。辞書はやっぱり新しい方が良いから」
そういえば、俺はよく理緒からお下がりをもらっていた。
今思えば、好きな子の物を持っていたいという幼い欲だった。
家庭科のときも、図工のときも、算数のときも、いつも理緒と一緒な気がして。
―――今思うと、何て痛いんだ。
頭を抱えて転げ回ってみたが、母親にひっぱたかれただけだった。
ある日、理緒が庭でハーブを植え替えていた。
ゆるくまとめたポニーテールが少しほどけて、白いうなじにかかっている。
汗でくっついた前髪も、色っぽいというのはもう犯罪なんじゃないか。
あれに、誰かが触れるなんて。
あのうなじに、頬に、胸に―――。
理緒。俺の理緒。
いつも優しくて、余裕があって、賢くて、きれいで、ちょっと抜けている理緒。
俺が理緒につりあうようになるまで、理緒は待ってはくれないだろう。
理緒は当然ながら、とてもモテる。
―――俺が高校を卒業するまでは、と思っていたが、もう無理だ。
俺は、理緒に受け入れてもらえるとは、正直思っていなかった。
理緒にとって俺はいつまでも“小さい翔ちゃん”で、恋愛対象ではないだろうから。
でも、告白することで、俺のことを少しくらい意識してくれるようになったら。
大好きと言ってくれるそのことばの意味を少し変えてもらえるようになったら。
そんな淡い期待は、斜め上を行く理緒の答えにより、無惨に砕け散った。
「なんなんだよ、筆下ろしって…!!」
枕に顔をつけて、苦い涙と叫びを吸い込ませた。