翔ちゃんと私
三夜連続投稿です。
阿呆な話ですみません…。
幼馴染み、というものは、人によって少しずつ定義が違う。
文字通り幼い頃からの付き合いをさすことばだが、家が近所なだけでそう言う人もいれば、同じく幼稚園や小学校に通っている相手を指す人もいる。
私としては、遅くとも小学校の頃から馴染んでいないと『幼馴染み』ではないのではないかとおもう。
この前など、中学の同期生を幼馴染みと称した人がいて驚いたものだ。
そういった意味で言えば、私と彼の関係は、まず間違いなく『幼馴染み』と言っていいだろう。
私の家の隣に住んでいる翔ちゃんは、私が七歳の時に生まれた、瀬尾さんちの長男だ。
ちょっと怒りっぽくて、食いしん坊で、ふくふくのほっぺがかわいい男の子だ。
翔ちゃんが生まれる前から、瀬尾さんの奥さんにも旦那さんにも私はとてもかわいがってもらっていたので、私も翔ちゃんをべたべたにかわいがった。
翔ちゃんは、何をしていてもかわいい。
おにぎりを口いっぱいに頬張っていても、チャンネル争いで負けて地団駄を踏んでいても、舐めた人差し指で障子に穴を開けまくってもかわいい。
「もー、理緒ちゃんがそんなに翔を甘やかすから!」
瀬尾さんちの奥さんにはよくそうやって怒られたが、仕方がない。
翔ちゃんはかわいい。
「なぁ、理緒。裁縫セットちょうだい」
「いいよ。でも新しいやつのがよくない?」
軽く私が返事をすると、翔ちゃんはプルプルと首を振った。
「ううん。理緒のがいい」
家庭科の授業で買わされる裁縫セット。兄姉がいる人はお下がりを使うこともあるけど、大体は皆新しいものを買ってもらう。数年経てばデザインも変わってしまうし、より使い勝手が良くなっているものだから。
でも、翔ちゃんは意外とケチらしく、こうやってよくお下がりをもらいにきた。男女で色が違うものは無理だったけど、図工で使う彫刻刀もレタリングセットも私のをあげた。どれも小学校の決まった時期にしか使わないから、あえて買うのはもったいない、って気持ちはわからないでもない。
私は大学に行き始め、翔ちゃんは中学生になった。
自宅から通える大学にしたので家はお隣のままだが、部活が忙しい中学生とサークルが忙しい大学生はあまり会わなくなった。
でも時々、翔ちゃんが窓を開けて私を呼ぶ。
「なぁ、理緒。これわからん」
「あー。これはね、答えを見るんだよ」
翔ちゃんが出してきたのは、数学のワーク。公式を使った基礎の問題なら私も解けるが、応用問題は厳しい。そういうときは答えを見て、どう解くかを確認するのだ。
「え、なにそれ。ずるくね?」
「ずるくないよ。解答欄にはすごくわかりやすく書いてあるから。やり方を覚えてしまえば、似たような他の応用問題もできるようになるよ」
私の答えに、翔ちゃんはふうん、と不満げに声を出して窓を閉めた。
たまにわからない問題にはあたるようだが、翔ちゃんの成績はなかなからしい。
テスト期間は遅くまで電気がついているし、頑張っているみたい。
翔ちゃんに志望校を訊いたら、私の母校へ行きたいのだと言っていた。
自転車で10分の、このあたりでは屈指の進学校。
「いいんじゃない。あそこは成績さえ良ければ髪を染めてもバイクに乗っても何も言われないから」
「……別に、そんなことしねぇよ」
ぷいっと顔を背けて、翔ちゃんは家に引っ込んでいった。
小さい頃は、落ち着きがなくて、わがままで、やんちゃで、よく泣いて、地団駄を踏んでいた翔ちゃん。
最近階段を上り下りするときも、静かにトントンと歩く。
ちょっと声を荒げることはあるけれど、うちに聞こえるほどではない。
前は窓を閉めていても、ぎゃーー! っていう翔ちゃんの雄叫びが聞こえてきたのに。ちょっと寂しい。
私が大学を卒業して、地元の会社に就職した年、翔ちゃんは見事第一志望の高校に合格し高校生になった。
「えっ! 翔ちゃん、ヒゲ?!」
ある日曜日、バッタリ庭先で翔ちゃんを見かけた。
翔ちゃんのあごには、本当にうっすらヒゲが見える。
「ええーー。ヒゲー!?」
「ヒゲくらい生えるっつーの。いくつだと思ってんだよ」
一昨年声変わりをした翔ちゃんは、どっかのオッサンみたいだ。
「はぁ。私も年とったもんだわ」
「はぁ? 何言ってんだよ」
私がため息をつくと、翔ちゃんは眉間にシワを寄せて家に入って行ってしまった。
ある日、庭のハーブを植え替えていたら、翔ちゃんがこいこいと手招きをした。
「んー? どしたの翔ちゃん」
土のついた軍手を外しながら翔ちゃんの近くへ行った。
「あー…。えーっと…」
翔ちゃんはバリバリと頭をかいた。
じっとあごを見てみたが、今日はヒゲはない。つるりとした少年らしいあごがかわいい。
「なぁ、理緒。付き合ってよ」
「いいよ」
突然の翔ちゃんの申し出に、裁縫セットちょうだい、と言われたときと変わらない調子で返事をしたら、翔ちゃんが盛大に眉間にシワを寄せた。
「…付き合うって、交際するってことだぞ。どっかについてくとかじゃねぇんだぞ」
「うん」
まさかそんな。悪いが私だってもう社会人なのだ。恋愛だっていくつかしてきたし、付き合うってどこに買い物かしら? なんて天然ではない。
「あ、でもごめん。私経験少ないから、筆下ろしがうまく出来るかは……」
「はぁ?!」
向かいの山田さんちのジョンがビクッとするほど大きな声だった。
「え、だから翔ちゃんの筆…」
「あーあーあー!! 聞こえてるって!! 筆とか言うなよ! なんなんだよ、なんでそんな話になるんだよ!」
翔ちゃんは地団駄を踏んだ。
あ、これは怒ってるときの翔ちゃんダンス。嬉しいときとか興奮したときの踏み方とはちょっと違うんだよね。久しぶりに見た。
「え? 高校生になって、周りの子が経験してて焦りだしたんじゃないの? やりたい盛りだって言うし、別に隠さなくてもいいと思うよ」
翔ちゃんは女の子たちにモテるらしい。家に押しかけてくるような子もたまにいる。
いくらそういうことに興味があっても、適当にそんな女の子たちに手を出したら面倒なことになることは想像がつく。
かといって、翔ちゃんには本命はいないようだ。バレンタインだってうちにチョコケーキを食べにきたし、クリスマスだって翔ちゃんとチキンを食べた。恋人たちのイベントをご近所さんで過ごしてしまうとは、なんて残念なんだ少年よ。
「まぁ、翔ちゃんのこと好きな女の子たちだと、ストーカーみたいになるかもしれないからね。その点私は大丈夫。本命の予行練習になるかはわかんないけど、頑張るよ」
誤解なきように言っておくが、私は別に貞操観念がゆるいわけではない。そして、翔ちゃんに邪な気持ちもこれっぽっちも抱いていない。
これはひとえに翔ちゃんを愛するがゆえなのだ。
何をしてもかわいい翔ちゃん。
離乳期に私のすったりんごを食べてくれた翔ちゃん。
歩き始めたら後追いしてくれた翔ちゃん。
ヤダヤダが始まって大変だった翔ちゃん。
声変わりしようが、ヒゲが生えようが、やりたい盛りになろうが、翔ちゃんはかわいい。
もう、私の助けはあまり必要としなくなった翔ちゃん。
成績だって、私より随分いいらしいし、よく風邪を引いていたひ弱な身体もたくましくなった。
大事にかわいがってきた翔ちゃんが成長して嬉しい気持ちと、もう私は翔ちゃんに必要とされないのかと寂しい気持ちに私は悩んでいた。
だからこれは、私から翔ちゃんにできる最後のこと。
「……理緒の…バカッ!!」
ところが翔ちゃんには、そんな思いは通じなかったらしい。
顔を真っ赤にして、人をバカ呼ばわりして家に逃げ込んでしまった。
「……ちょっとストレートに言い過ぎたかな?」
別に私は幻滅したりしないのにな。
思春期の子は難しい。