俺、執事になってしまいました 1
その日、林田悠斗は自分の通帳を見て絶望していた。何度も何度も見直せど、記入されている数字は0。預金残高は0円である。銀行の目の前で通帳を握りしめ、深いため息を吐いた。
林田悠斗はごく平凡な大学二年生である。大学受験の際に第一志望、第二志望の大学に落ち、滑り止めの私立大学に入学して二年が経過した。だが、悠斗の家はそれほど裕福なわけではなかった。両親は共に健在だが、数年前に父が身体を壊してしまい母が働いているが入学金、授業料いろいろ含めるとギリギリだった。しかも、悠斗にはまだ下に弟ひとりに妹ひとりがいるため、生活費は自分でなんとかしなければならなかった。地道に貯めてきた貯金に、居酒屋のバイトで何とかやりくりしてきたが、本日それも底をついてしまった。タイミングが悪いことにバイト先の居酒屋も店長の都合により、閉店することになった。
「絶望的だ……。俺は、これからどうすれば」
銀行の前にいつまでもいるわけにもいかず、肩を落としながら足を引きずるようにして歩きだした。重さは変わらない筈なのに、肩に掛けているリュックが重さが増しているように感じる。此処まで気分が落ち込むと、普通に歩いている周りの人たちが何故だが妬ましくなってきた。気分を変えようと家への帰宅ルートにいつもと別の道を使ってみることにした。人が少なく、頭を冷やすには丁度いい。
「母さんたちに言うわけにはいかないしなあ」
スマホの通話履歴は「母」が一番上に来ており、つい昨日電話があったばかりだ。無理をしていないかと心配してくる母に余計な心配も出費もさせたくはない。今悠斗がやるべきことは、収入源を確保すること、バイトを探すことだ。落ち込んでばかりもいられない、情報を得るためにネットを使いたいがネットカフェを使うお金もないので、ここは学生として大学のコンピュータを利用してやろうと悠斗は決めた。 考え事をしながら歩いていたため悠斗は前から歩いて来た女性二人組に気がつかず、そのうちの一人と肩がぶつかってしまった。すいませんと謝ると、女性のほうも大丈夫ですと言って友人であろうもう一人と話ながら去っていった。そこでふと周りを見てみると、あまり人がいない通りなのにやたらと女性が多い。一人の人や数人で歩いている人もいるがほとんど女性だ。修二が見た男といえば今のところご近所のご老人くらいだ。
「何かイベントでもあんのか?」
見れば女性たちは同じ方向に向かい、または同じ方向から帰って行った。女性たちは皆興奮しており、中には夢でもみているかの様にぼんやりしている人もいた。少し異様なその光景に悠斗は興味を持った。このまま真っ直ぐ進めばいつもの帰宅ルートとぶつかると思うが、それを止めて路地を曲がって女性たちが来た方向に向かってみることにした。
「何だここ?」
見た目はレンガ造りの上品な一軒家のようだった。入口付近に並べてある鉢植えも綺麗に手入れがされているようだ。看板のようなものは無いが、人が集まるということはきっとここは店なのだろうかと店の前に立ちながら悠斗はぼんやりとそんなことを思っていた。好奇心に負けて来てみたはいいが、これからどうしようかと考えていると、悠斗が来た方向とは逆の方から走ってきたらしい人と勢いよくぶつかってしまった。相手は小柄だったため尻餅をついてしまっている。
「す、すいません! 大丈夫です……か……」
手を差し伸べようとしたが、目の前の人物に固まってしまった。日本人離れした透き通るように白い肌に、くりっとした瞳は少しつり上がっており、睫は影をつくるほど長く綺麗に瞳を縁取っている。その顔はすべてにおいて整っており、それこそ人形のような美少女だった。
間抜けな顔をしたままの悠斗に目の前の美少女は口を開いた。
「おい」
「へ?」
聞こえてきた声は女の子にしては低い、ドスの聞いた声だった。見ると眉間にしわを寄せて悠斗を睨みつけている。
「何ぼーっとつっ立ってやがる。邪魔なんだよ」
差し出されている悠斗の手を払いのけるとその子は自分で立ち上がった。呆気にとられていた悠斗は改めてその子を眺めた。綺麗な顔にその下に目を向けていくと制服のブレザーが目に入り、さらにその下に目をやるとスラックスだった。そう、スカートではなく、スラックス。
「……男おおお!」
「……なんだよ、うるせえな」
「嘘だろ! お前、その顔で詐欺だろ!」
「失礼な奴だな! 男だよ! ご覧の通りの男だっつの!」
あまりの衝撃に思わず声が大きくなる。こんな下手したら女の子より可愛らしい顔をしているのに、この男子学生はとてつもなく口が悪かった。そんな悠斗には目もくれず、少年は腕時計を見ると舌うちをした。
「お前のせいでバイトの時間ギリギリじゃねえか」
「バイト? 君バイトしてるの?」
「何だよ、別にいいだろ」
「いや、俺はバイト首になっちゃってさ。いいなあと思って」
「俺には関係な……い……」
俺には関係ないと悠斗の前から立ち去ろうとしたら、その言葉を切って悠斗の顔をじーっと見つめてきた。品定めをするような目に足が一歩下がる。
「……まあまあかな」
「な、何が」
「あんた、バイト探してんの?」
「ま、まあ」
そう答えると、少年は悠斗の腕を掴むと引っ張って歩き出す。狼狽え、腕を振り払おうとするが小柄な割に力が強く振りほどくことができなかった。少年が連れて行くのは、今まさしく悠斗が見ていた建物の裏手だった。裏口らしい場所に来ると、少年は躊躇なく扉を開いた。
「はよーっす」
気の抜けたような挨拶をすると中にいた男性が眉をひそめて立っていた。
「遅いぞ、もう少しで遅刻にして減給しようと思っていた」
「すいませーん、でも減給は勘弁してくださいよ。従業員候補連れて来たから」
悪びれることもなく、少年は悠斗を指差して言った。
「……俺?」
「バイト首になったんだろ、丁度いいじゃん。こっちももう一人くらい欲しいって言ってたんだ」
「俺の意見は何処に?」
少年と言い合っていると、黙っていた男性が悠斗に顔を近づけて少年がやったのと同じように品定めするような目で見ていた。必然的に男性の顔も近いわけで、悠斗も相手の顔を見てしまう。
切れ長な目に、銀の細いフレームの眼鏡をかけており、知的な感じもするがどこか冷たい印象も受けた。ただ確かなのはこの男性の容姿もとても整っているということだ。しばらく悠斗の顔を凝視してから、眼鏡の男性は少年に向き合った。
「……ふん。まあ、合格点だろ」
「でしょ?」
「最終的に決めるのは店長だからな。まあ、あの人のことだ大丈夫だろう」
悠斗はおいてけぼりで話がどんどん進んでいる。このままではいけないと、おずおずと手を上げ、恐る恐る口を開いた。
「あのー……」
「何だ」
「結局、ここはどんな店何でしょう?」
そう聞くと、いつの間にか椅子に座っていた少年が馬鹿にしたように鼻で笑うと、眼鏡の男性の方を指差した。
「この格好見て、少しは予想つかないわけ」
そう言われて男性の格好をもう一度見てみた。几帳面そうに着こなされた、スーツとは違う黒い服。確か、燕尾服というものではなかっただろうか。それで導き出される答えは……。
「え?」
「お前には、執事になってもらうぞ」
さも当然のように目の前の男性は言い放ち、椅子に座っている少年はにやにやと面白いものを見る目でこちらを見ている。悠斗は自分の頭が真っ白になるのが分かり、心のままに叫んでいた。
「えええええええ!!!」