ぶるゥむーん!
2011年に書いた作品です。
/0
見えざる者と視える者が出会う時、不可視は可視となり、無価値は価値を得る。
/0.9
「こちらですか、先生?」
「ええ、このトンネルの奥から非常に凄まじい怨念を感じます。それだけじゃない、とてつもなく濃い――底が見えないほどの怨嗟の声が聞こえてきます」
「やはりそれは、五年前の観光バス正面衝突事故の犠牲者のものなのでしょうか」
「恐らくそうでしょう。突然の事故でしたからね、殆どの乗客の方に思い残す事があったのではないかと。何でこんな所で死ななきゃならないんだ、ってね」
「……考えるだけで辛いですね。我々が今こうしてのうのうと生きている事が罪な気がしてきます」
「生きているだけで罪になるなんて事はありませんよ。私達は亡くなった方々の分まで生きる、なんて事は考えなくていいのです。人の死はいつ訪れるか分からない。だからそんな考えは無責任極まるのです」
「先生……」
「だから、生きている側にできる事は、こうして亡くなった方々をきちんと成仏させてあげる事なのです」
「そうですね……おっしゃる通りです。では先生、そろそろ除霊を――」
「おッ、おい! スタッフの様子が奇怪しいぞッ! 何か急に苦しみだした!」
「えッ……そ、それって……!?」
「どうやら、憑かれてしまったようですね。これだけの量だ、私の御札をものともしない霊が居ても不思議じゃあない」
「グ、苦ジいよぉ……何デゴんな事に……嫌ダ……嫌ダぁ……ゴんなの……絶対おガジいよぅ……」
「せッ、先生! どうすれば……」
「安心して下さい、直ぐにこの人も、この人に憑いた方も楽にしてあげます。はぁぁああ……ッ!!」
「こ、これがエキセントリック除霊……す、凄い」
「ぬぅちょりゃぁぁぁああああああああああああッッ!! さぁ鎮まりたまえ! 今こそ鎮まりたま――」
/1
『――続いてのニュースです』
「ちょッ、ちょっとマコ姉! これから良い所だっていうのに何でチャンネル変えるのぉ!?」
何だか衝動的にというか暴力的な感情に圧されてテレビの世界を切り替えた事に対して、妹のリラは怒っているのか悲しんでいるのかよくわからない声色でそんな事を言い出した。
「うるせー。別に良いじゃんか、どうせ録画してるんだろ。後で見りゃ済む話でしょ」
「そういう問題じゃないの! 後で見たら今とテンションが全然違うでしょ! ワタシは今この瞬間に見たいの! 瞬間を生きたいのッ! わかるッ!?」
「あーわかるわかる。凄いねーうん」
最初からもう一回見ればそのテンションは戻ってくるんじゃないの、とオレはチャンネルを目まぐるしく変えながら屁理屈じみた事を思う。げ、明日の天気は晴れか。
そもそもオレは超常現象とか都市伝説とか、そういう系統の番組はあんまり好きじゃない。てか、正直嫌い。なのにリラはそういう系統の番組は大好物ときた。オレに無いものは妹が持ってて、あいつに無いものはオレが持ってる。中二病全盛期の頃はその関係がカッコいいとか血迷った事があったけれど、今思えばこの上なく面倒臭い関係ですよ中学二年生のオレ。
好き嫌いをとやかく言うつもりはないから、せめてオレがいない時に見て欲しいもんだ。まぁチャンネル権を取り戻す為にオレに襲い掛かってこないのを見る限りでは、どうやら後で見る事にしたらしい。何というか、諦めが良い。
「つーか、あんなヤラセ番組見ても何も面白くないだろ。何なんだよエキセントリック除霊って。胡散臭さが半端じゃない」
「あの胡散臭さが良いのに……」
むー、と頬を膨らませるリラ。どの胡散臭さが良いのか時間があれば一から十まで聞いてみたいものである。
「てゆーか、やっぱりヤラセってわかるんだマコ姉」
オレじゃなくてもわかると思うんだけど。多分コイツもわかった上で見てる筈だ。わかっているのに食い入る様に見て、そこに良さを見出すウチの妹はもしかして暇人なのだろうか。
緑色の瞳(カラコン装着)をキラキラと輝かせながら、ずずいとオレに詰め寄るリラ。さっきまでテレビに興味津々だったのに、今はオレに興味津々。諦めが良いっつーか、切り替えが早い。
無理もない。オレ自体、“そういう系統”なんだから。
「……番組自体はヤラセだけど、撮影してる場所は割とガチ。テレビ越しでもわかるぐらい」
「じゃ、じゃあ見えてたの? どんなのがいた?」
どんなのって……。大抵は人の霊しか見えないんすけど。
とりあえず、さっきの番組に映り込んでいたものを思い出してみる。
「あー……女の人が何人か。何かすっごい恐い顔でこっち見てた。こんな所でカメラなんか回してんじゃねえって感じ。オレだったらそう思う」
幽霊の気持ちなんてわからないけど。
「え、マジで? その女の人達、可愛い系? それとも綺麗系?」
おい、何か食いつくトコ違わねえか妹よ。まぁ相変わらずって言ったらそれまでなんだけど。
そんなリラの質問は、人の顔とか名前を覚えるのが苦手なオレにとっては少し難しい。可愛い系と綺麗系の区別もあんまりつかないし。
「あー、不細工じゃなかったよ」
とまぁ、どっちつかずの答えを出してみる。
「ふうん、そっか。あー良いなー、ワタシも幽霊とか見てみたい」
「あんまりオススメしないよ。見えないものが視えた所で、何の得にもなりゃしない。無駄に疲れるだけ」
「いやいや得でしょ。可愛い幽霊っ娘とキャッキャウフフな百合展開! 脳髄まで痺れる金縛りプレイッ! 嗚呼、想像しただけでもゾクゾクしちゃうッ!」
何というか、本日も通常運転と言う名の異常運転な妹なのであった。危険運転、あるいは飲酒運転とも言える。久し振りに実家に帰ってきたらコレだもんな。マジでコイツの将来不安になる。
こうして実家に帰ってくる度に、リラのヤツ彼氏の一人でも作ってねえかなーと淡い希望を抱くも、そんな非現実的な事が起きる筈もなく、妹が作っているのは薄っぺらい本の山だけ。ほら、女の子同士がとっても仲良さそうに抱き合っているアレですよ。裸で。
「マコー、お風呂沸いてるからご飯の前に入っときなー」
と、リビングの向こう――キッチンの方から少し低めの女性の声がする。ウチこと花崎家はオレとリラと、お母さんの三人家族なので、必然的に声の主はお母さんという事になる。
真性レズの妹の相手をするのも色々と面倒なので、ナイスタイミングお母さん。久々の実家の風呂だ、ゆっくり疲れを洗い流す事にしよう。
そんな訳で、風呂上りである。
やっぱり湯船に浸かるというのは気持ちが良い。普段オレが一人暮らししているアパートにはシャワーしか付いていないので、余計にそう感じてしまう。シャワーが付いてるだけでもありがたいんだけどね。
髪が長いので、ドライヤーで乾かすのに少し時間がかかった。本当はバッサリ切りたいんだけど、短髪が似合わないのは自分が一番よくわかっているからやらない。
キッチンへ行くと、お母さんが夕飯の支度をしていた。食卓には既におかずがズラリ。
「お、もう上がったんだ。どうだったー、久々のウチ風呂は?」
ニカッと白い歯を見せて笑い、そんな事を訊いてくる。彼女がオレとリラの生みの親――花崎利己である。その辺の女子大生に紛れ込ませてもわからないぐらい見た目年齢が若く、実年齢も三十三歳とかなり若い。仕事もバリバリできてカッコいいし、いわゆる自慢の親ってヤツだ。
「うん、毎度の事ながら凄く気持ち良かった。できる事ならテイクアウトしたい気分」
「たはははッ、そりゃ結構。ご飯もうすぐ炊けるから、座っときな。リラもホレ、もうご飯だから座りな」
はーい、とテレビに夢中のリラが返事をする。さっきの胡散臭い番組じゃなくて普通のバラエティ番組を見ているのは、オレへの気遣いなのか。
お母さんによる集合もかかった事で、食卓に花崎家全員集合。花崎家はオレだけが右利きなので、オレの向かいにお母さんとリラが座るという形になる。オレもお母さんもリラも、腕がぶつかるのが嫌なので昔からこのポジションなのだ。
「そういやマコ、休み明けにテストあるんだって?」
お母さんがそう言った瞬間、ピーピーピーという連続した電子音が鳴った。どうやらご飯が炊けたらしい。
「うん? ああ、そういえばそうだね。きっちり忘れてた」
「おいおい、どうせ忘れるならすっかり忘れろよ。ったく、しっかりしなさいよマコ。勉強とかしてんの?」
「してない。実力テストだから、勉強なんてしたら意味が無くなるでしょ」
あ、お母さん呆れ顔。
実力を試されるのだから、素の状態(つまりノー勉強)で挑む。ありがちな言い訳である。こんな事、ハヤカゼの前で言ったら確実に怒られるだろうな。
「ま、勉強しろとは言わないけどさ、赤点は取らないようにしときなよ」
「うん、気を付ける」
「よろしい。よし、そんじゃいただくとしますか」
食卓に足りなかった白ご飯が用意され、夕飯が完成する。本日の夕飯は焼き魚(何の魚かはわからない)や、だし巻き卵など、いかにも和食って感じだ。修学旅行とかで泊まる旅館の朝食でしかあまりお目にかかれない様な雰囲気。これは夕食だけど。
お母さんの料理も久々だ。正直、手料理ならお母さんの右に出る者はいないと断言できる。親バカならぬ子バカ発揮である。ちなみに二番手はリラ。変な番組が好きだったりレズだったりするけど、料理が上手なのは唯一の救いなのかもしれない。
いただきます、と三人揃って口にする。さて、先ずは炊きたてのご飯からいっときますか。
/2
――普段オレは、綾華市にある廃墟じみたアパート(“ワールドアパート”などと通称されている)で一人暮らししているのだが、三日以上の連休があると実家に帰るようにしている。実家までは電車で四駅ほど、自転車なら三十分弱。ホームシックもクソもない。
今年の黄金週間は飛び石連休だった。故に、二回も帰省する機会があった。一日だけ学校に行くというのが非常に面倒臭かったが、制服と学校の用意を持っていって実家から通学すりゃ良かったんじゃね、と気付いた実家からの帰り――五月五日の夕方。後の祭りというヤツだ。
のんびりと閑静な住宅街を歩く。今は夕焼けで紅い街だが、いずれは夜の闇に沈む。夜になると、霊的な方々が朝や昼よりもハッキリと見えてしまうので少し憂鬱になる。
オレこと花崎真心は、物心ついた時から幽霊やその類のものが見えるといういわゆる“みえる人”である。お母さん曰く、小さい頃はオバケとかそういうものは全く信じていないドライな子供だったらしい。そりゃ信じませんよ、だって見分けがつかなかったんだもん。見えるだけじゃなく、普通に喋ったり触ったりする事ができるオレにとって、人と霊の違いなんて無きに等しいのだ。
そんな自分が周りと違う事に気付いたのは小学生の頃。その時は周りが子供だったから冗談で済んだから良かったものの、一歩間違えれば確実にイジメの標的になっていただろう。今はもう慣れているけど、一時は自殺まで考えた事もあった。他人に見えないものが自分には見える、というのはこれ以上ない恐怖であり苦痛であり孤独だったからだ。
それからというものの、オレは人付き合いを最低限にし、なるべく友達というものを作らないようにした。余計なコトを知られたくないから。それでも、寄ってくる物好きさんはいるわけで。本当に良い迷惑だ。
一体いつまで隠し通せるのかな――。
一つ、また一つ、街灯が灯っていく。まるで、家まで案内されている気分になる。あまり良い気分じゃない。
「――――げ」
街灯の一つが点滅して消えかかっている事に気付く。こういう街灯の下には幽霊がいるって話をマトリョーシカ先輩から聞いた事がある。で、案の定いたわけですよ。電柱の物陰からこちらを睨む“ソレ”が。
中年太りしたオッサンの霊で、浮遊霊か地縛霊かはわからない。十七年間“みえる人”として生きてきたのに、その辺の区別がまだつかないのが自分でも可笑しい。別に区別がついた所で何かが変わるわけではないが。
目を合わせない様に電柱の横を素通りする。視線がザックリ突き刺さるが気にしない。「ちょっとちょっとそこのお姉さん」と話しかけられたけど気にしない。連中と関わるとややこしい事になるのは明白だからだ。
とまぁ、途中で変なのがいたけど無事に廃墟――もといアパート到着。各階に四部屋、合計八部屋の典型的二階建てアパートだ。シャワーだけが何故か完備されていて、あとの設備は普通未満。家賃は月に一度、諭吉を出せばお釣りがやって来る。
住人の殆どは高校生で、ワケアリらしい。オレは単に家族に迷惑をかけたくないから高校入学と同時に家を出ただけで、別にワケアリってわけじゃない。心配はかけてしまっているみたいだけど。
白状すると、ここにどんな人達が住んでいるのかあまり知らない。そもそも人が住んでいるのかどうかすらわからない。顔を知っているのは一〇一号室の黒山羊さんと一〇四号室の纏憑ちゃん。それと――、
ふと、知ってる気配を感じた。思わず顔を上げると、タイミング良く二階にある四つの扉の内一つがばこん、と開き、中から一人の女性がゆらりと姿を見せた。
「……こんばんはー」
「ン、真心か。こんばんは」
低血圧なのかそれともデフォルトなのか、だるそうな挨拶が返ってきた。
真上の部屋の住人、つまりは二〇二号室の住人、継接縫子さん。くすんだ金髪はオレよりも長く、眠そうな瞳には生気が欠片も宿っていない。一生笑いそうにない口元には煙草、故に年の頃は恐らく二十歳かそこらだろう。何だか元ヤン臭が漂っていて近寄り難い雰囲気だが、それ以上に近寄り難い要因が彼女にはあった。
右腕はしっかりあるのに、左腕はすっかり無いのだ。オレがここに入居したての頃はちゃんとあったのに、ここ一ヶ月の間にいつの間にか無くなっていた。生え変わりとかじゃあるまいし、恐らく何かの事故に巻き込まれたのだろう。何があったのかは訊かないけど。
「ン、実家からの帰りか」
階段を下りながら片腕の女性は言う。
「ええ、まあ。縫子さんはお出かけですか?」
「ン、コンビニへ買い物。そのついでに、知り合いと待ち合わせをしていてね」
普通その場合、買い物の方がついでなのでは。
「知り合い、ですか」
「ン、知り合い。新しい腕ができたから、取りに来いとさ。ン、全く……こっちは腕一本だから向こうから出向いて欲しいのに。本当に年中無休で自己中心的なヤツだよ」
「あー……そうですか」
「ン、あぁ引き止めてしまってすまないね。それじゃ、あたしはこれで」
すうっとオレの横を通り、コンビニへ向かう縫子さん。紫煙が鼻を衝く。煙草、苦手なんだよなあ。
煙草以前に、オレはあの人が苦手だ――否、あの人の左腕が苦手だと言った方がいいか。多分、これは“みえる人”であるオレ限定。縫子さんの左腕からは常に悪意もしくは殺意を向けられている気がする。“亡い時”でコレだから、“在る時”はもっと酷く、下手な霊よりもずっとヤバい。縫子さん自体は悪くないんだけど、どうにも好きになれない。基本良い人なあたり、始末が悪い。
歪な影を少しだけ見送ってから、一〇二号室の玄関前へ。うっわ、きたねぇ。二、三日留守にしただけでこんなに玄関前って汚くなるものなのか。砂埃、枯葉、桜の花弁もちらほら。春はもう死にかけだ。今日はもう暗いし、明日の朝にでも掃除する事にしよう。
「ただいまー、っと」
電気を点ける。浮き彫りになる六畳間。一人暮らしするには丁度良い狭さっつーか充分な広さ。これにきちんと電気水道ガスが通ってる上にシャワールームまであるのに、家賃は月一万円以下である。何も悪い事をしていないのに、罪悪感に良心が痛む。半年以上住んでるけど。
勉強用兼食事用の小さな机。実家から持ってきたマイ布団。その上ですやすやと寝ている、絹みたいな長い黒髪が目を引く浴衣姿の女の子。オレより背が低い可愛らしい冷蔵庫。ちょっぴりレトロな電話機。必要最低限のものだけが揃った無駄の無い空間――
「あ――――え……?」
奇怪しいな。無駄の無い空間な筈なのに、無駄なものがある。何だこの謎の生物。何でオレの部屋に知らない女の子が?
と、とにかく起こそう。このまま放っておくわけにもいかないし。とりあえず、柔らかそうなほっぺたを叩いてみる事にした。
「――ッ、触れるなッ!!」
寸前、閉じていた少女の瞼がカッと開き、少女の小さな手がオレの腕を力強く掴んだ。
「なッ、あ……!?」
流石に驚いた。寝ていなかった――起きていたのかコイツ。
ぎりり、とオレの腕を掴む手の力が強くなる。結構痛い。一体どこからそんな力が湧いてくるんだ。
「……、」
「――、」
互いに睨み合う。時間が止まり、空間が軋む。
そして、オレと少女は、ほぼ同時に口を開く。
「「誰だ?」」
まるで鏡を見ている様な気分だった。
/3
「私の名前は月読輝夜。追われているから、匿ってほしいのだ」
――――――ああ。何か、良くないユメでも見ているのだろうか。
家に帰ってきたら見知らぬ女の子がオレの布団の上で寝ていて、とりあえず起こそうとしたら力の限り腕を握られて、落ち着いたかと思ったら、追われているから匿え? バカか。
「匿う以前に、何でおまえはオレの部屋にいたわけ? ちゃんと戸締りしたはずなんだけど」
「フ……細かい事は気にするな」
「じゃあ不法侵入者の事も気にせず警察に連れて行くからそのつもりで」
「あわぁーッ! 待って待ってちゃんと話すから警察はやめてー!」
めちゃくちゃ焦りやがる。ますます怪しい。
「そ、その……奴等に追われてて、どこかに身を隠す場所は無いかなと思ってたら偶然にも人が居ない部屋があったから……」
いつ頃の事かはわからないが、この“ワールドアパート”の中でオレだけが留守にしていたのか。そりゃまぁ性質の悪い偶然ですこと。
それよりどうやってオレの部屋に入ったのかは無視かおい。このガキ、ピッキングの技術でも会得しているのか。
「……で、追われてるって言ったよな。何に追われてたんだよ、おまえ」
きめの細かい白い雪の様な肌と、前も後ろも切り揃えられた濡れ羽色の長い髪。そして三日月の刺繍が施された漆黒の浴衣という黒白の色合いがひどく印象的だ。恐らく、リラと同い年ぐらいだろう。柔らかい幼さが残っているものの、その容姿は目を疑うほど整っていて透明感と気品で溢れている。浴衣という格好のせいか、日本人形を連想させる。
そんないわゆる美少女的な見た目なので、恐いおじさんにでも追いかけられていたのだろうか。どの道、この子はお巡りさんにお世話になる運命なのかもしれない。
「ストレンジゴーストなのだ」
「す、すと……何?」
「おっと、これでは伝わらないか。まあ、要するに妖怪なのだ。私は妖怪に追われているのだ」
「……ようかいって、ねずみ男とか一反木綿とかの、あの妖怪?」
「うん、その妖怪」
ああそうかい。
じゃねぇよ。ふざけているのか、このガキ。警察より病院にぶち込んだ方が良さそうな気がしてきた。
とは言っても、どうにも華麗にスルーできない理由が二つある。
一つ目は、コイツが追われている身だという事。助けを求めている人を無視して知らんぷりを決めるほどオレは人間として終わっていない。
二つ目は、コイツを追っているのは妖怪だという事。もしオレが“みえる人”じゃなかったら、微塵も信じる事をせず下手な嘘を吐きやがってブハハハハと馬鹿笑いできるが、生憎オレは生まれた時から“みえる人”。妖怪という単語を正面から否定し切る事はできない。かと言って肯定し切る事もできない。半信半疑というヤツだ。
肯定し切れないのは、十七年間生きてきて妖怪なんてものを見た事がないから――否、そもそも何を以って見た事がないと言い切れるのだろうか。ただ妖怪だと認識していないだけで、オレは既にどこかで見た事があるのかもしれない。小さい頃、人と霊の区別がつかなかった様に。霊と妖怪の区別がついていないだけ、なのか……?
「妖怪か。妖怪ね。それが本当だとして、オレにどうしろってんだ?」
「だから言っているのだ、匿ってくれと」
「匿うだけで良いのか」
「えーっと……ご飯も食べさせてくれると嬉しいのだ! できれば三食プラスおやつ付き! おやつはポッキーとハッピーターン、飲み物はコーラかオレンジジュースで、食後のデザートにはハーゲンダッツのクッキー&クリームがいいのだ! あッ、それと、ピーマンとほうれん草としいたけは嫌いだからおかずには入れないで欲しいのだ……」
「おまえ……“図々しい”って言葉の化身か何かか? あと、好き嫌いするんじゃありません。色々と大きくならないぞ」
「フ……案ずるな愚民A。私は成長期だから背はぐんぐん伸びるし、おっぱいだってナニか挟めるぐらいぼいんぼいんになるぞ! お前みたいな貧乳にはならないのだ! 悔しいか悔しいだろう悔しいに決まっているのだわはははははーッ!!」
声と態度だけは無駄にでかい謎の生物Aである。
「わかったから静かにしろ。うるさくして追い出されたりでもしたら、匿うどころじゃなくなるだろ」
「そ、そっか……ごめんなさいなのだ……」
慌てて口を塞ぐバカ。
「し、静かにしてたら匿ってくれるのだ?」
小動物じみたうるうるの瞳で見詰めてきやがる。くそ――こんなの、反則じゃないか。
白状すると、最初から断るつもりなんて無かった。怪しい所は色々あるけれど、やっぱりどうにもなんと言うかオレ、こういうのには弱い。断れないし、見捨てられない。
「ああ、別に構わねえよ。何も無い部屋だけど、好きに使え」
今度は星空めいたきらきらの瞳で見詰めてきやがる。表情豊かなヤツだ。その性能が少し羨ましいよ。
「おおおおぉぉぉぉーッ! ありがとうッ! お前イイやつだなっ!!」
「だからうるせーって」
「あう……ご、ごめんなさいなのだ……。あ、そうだ」
「何だ? 無茶な注文は受け付けないぞ」
「違うのだ。お前の名前を教えて欲しいのだ」
名前。そうか、そういえばまだ名乗っていなかったか。
「花崎真心だ」
「マコか。フ……私ほどじゃないが、随分と可愛い名前じゃないか。何はともあれこれからよろしくなのだ、マコ」
……そりゃどーも。
そんな訳で。
オレは謎だらけの少女――月読輝夜を自宅に匿う事になった。
どうしてこうなった、と言わざるを得ない。
/4
「フ……今宵は満月か。我が右腕が疼くのだ……くっ、鎮まれ……!」
窓枠に腰を掛け、意味不明な事を呟きながら夜空を仰ぐカグヤ。オレは特に気にせず、明日の準備準備。
携帯のスケジュールを確認する。一日行って、また休み。休日に挟まれた平日も休みにして、十連休にしてくれたら良いのに。リバーシ的なノリで。
まあ、こうして平日を間に挟んでくれた方が気が緩まなくて済むし、丁度良いのかもしれない。長い休みは人に怠惰を植えつけて、機能を奪ってしまう。長期休暇は一種の病とも言えるだろう。
そんな病から逃れる為には学校に行くのが一番なわけで。バカな連中とバカやってるのが一番最高に充実した時間だ。それが世間一般に言うリア充なのかはさておき。
ふと、オレは何か小骨が引っ掛かる様な感覚を覚えた。学校――学校。学校?
「おまえ、学校とかどうしてんの?」
「そんなの行ってないのだ」
即答された。
「あー……アレか、登校拒否ってヤツか」
「違う。最初から行ってないのだ」
また即答された。
「行ってないって、おまえなあ。学校は行っといた方が良いぞ。毎日行くだけで勉強を教えてくれるんだから」
「フ……深淵なる闇の世界を生きる私にとって学校など不要でしかないのだ。私を縛るものは何も要らない。ただこの背中に、折れない翼があればそれでいいのだ……」
なるほど、学校に行ってないからこんなにバカなのか。納得納得。
しかし不思議なもんで、学校に行ってなくても中二病ってのは発症するものらしい。厄介な事にコイツは邪気眼系。この上なく扱いが面倒で、痛すぎて見るに耐えないタイプに分類される。まだカグヤとはほんの少ししか喋ってないけど、かつてのオレがそうだったから悔しい事にわかってしまう。類は友を呼ぶってか。
「あっそう。それでいいならいいけど。その折れない翼とやらでどこにでも羽ばたいていけ何も言わないから」
「むぅー……マコ、お前ちょっとつめたいのだ」
「うるせー。人の素の状態に文句言うな。何、温かくして欲しいんですか? かまってちゃんですか? 寂しいと死んじゃうんですか?」
「ぐ……。そ、それに、女のクセに男みたいな喋り方だから余計に冷たく感じるのだ……というか恐い」
「放っとけクソガキ」
女でも男みたいな喋り方をするヤツなんてどこにでもいるだろ。今の御時世、石を投げればボクっ娘もしくはオレっ娘に当たるんだよ。
明日の準備を済ませたオレは、今度は寝る準備にとりかかる。ばさっとシングル用の薄っぺらい布団を敷く。オレはふかふかでふわふわな布団が苦手で、こういう薄くて粗末な布団の方が身に合っているのだ。
布団を敷いているオレの横でカグヤは何やら不思議そうな顔をして、
「なー、お前もう寝るの?」
「応。明日は学校だし、夜更かしはしない主義なんだ。お肌に悪いし」
「まだ十一時前なのだぞ」
「もう十一時前なのだよ」
それに、明日はいつもより早起きして玄関前を掃除したいからな。
「むぅ……つまらん。ところで、私の布団は無いの?」
「あー、一人暮らしだからな。客人用の布団なんて無えよ」
「そ、それは私に床で寝ろという事なのだ……?」
「いやそもそもおまえ、深淵なる闇の世界を生きてるんだろ。だったら別に夜寝なくても良いんじゃないのか」
「なっ! あ、あああれはその……なななんと言うか、こう……あの、ほら。アレなのだ……うん……」
わかり易い動揺の色を浮かべるカグヤ。あっちこっちと目が泳ぎまくっている。
オレのサディスティックな部分がくすぐられて、意地悪しちまってるなーと自分でもわかる。
「ぷっ」
耐え切れず、オレは思わず吹き出してしまった。
カグヤはオレが何故笑っているのか理解できず、首を傾げている。
「ははは……悪い悪い、そう焦るなって。布団はちゃんとあるから」
「ほ、ほんと……?」
「ああ。ここにあるだろ」
オレは今しがた敷いた煎餅布団を指差す。
「えっ。ど、どういう事なのだ?」
怪訝そうに聞き返してくるカグヤ。何か不満でもあるのだろうか。
「あ、もしかして他人の布団とか無理な感じか? ていうか、それ以前にこんなペラペラの布団で寝ても、熟睡できるかわかんねえか。玄人向けだって言ってたしなあの人」
「べッ、別に無理じゃないのだ! そうじゃなくて、それはマコの布団だろう!? 私がマコの布団で寝たら、今度はマコが寝る布団が無くなってしまうのだ……」
「何だそんな事か。気にすんなって、オレは床で寝るからさ」
オレにしてみれば、いつも床みたいな布団で寝ているし、別に苦じゃない。
何より、年下の女の子に床で寝ろと言うほどオレは人間として終わっていない。
「本当に良いの?」
「うるせー。ガキは遠慮なんてするもんじゃねぇよ」
すると、カグヤは少し申し訳なさそうな、けれど心の底から嬉しそうな表情を浮かべた。
「あ……ありがとう、なのだ」
何故か顔を赤くしながら、いそいそと布団の中へもぐり込むカグヤ。邪気眼キャラを演じている時より、素の方が可愛いじゃないかと不覚にも思ってしまった。
その様子を見たオレは一安心して、電気を消す。窓の外から差し込む月の光だけが、この部屋の照明となる。
「よっこらせ」と、壁にもたれる。うん、何だか普通に本日を終えようとしているなあ、オレ。
不意に、もぞもぞと丸くなった布団に視線を向ける。
コイツは――カグヤは妖怪に追われていると言った。もしそれが本当に本当なら、何か手を打つべきなのだろうか。それとも――、
「マコ」
オレの思考を遮る声。ハッと意識を現実に戻すと、カグヤが布団からひょこっと顔だけを出していた。その様子は何だか亀の様で、少し可笑しい。
「どうした?」
「おやすみなさいなのだ」
何かと思えば一日の終わりの挨拶だった。
律儀なヤツめ、とばかりにオレは苦笑して、
「応、おやすみ」
同じ挨拶を返した。
――まだほんの数時間の付き合いだというのに、何とかしてコイツを助けられないかと考えているオレは本当にどうかしてる。
そもそも妖怪に追われているなんて話が本当なのかどうかすらわからないのに。
やっぱり、あまり深く関わらない方が良いだろう。元より、人付き合いは最低限にすると決めているじゃないか。
そんな事を考えながら、オレは眠りに堕ちた――。
/5
(あー……くそ、寝違えた)
強がってみたものの、やっぱり床と壁の寝心地はとてもじゃないが良いものとは言えなかった。布団も床も変わらないと思っていた時期がオレにもありました。布団一枚の差は予想以上に大きかったという事か、記憶しておこう。
携帯を確認すると、現在時刻は午前五時三十二分。空はまだ明るくなりきっていない。
本当はこんなに早く起きるつもりはなかったのだが、起きてしまった。否、起こされてしまった。
浴衣を着た邪気眼少女――月読輝夜によって。
「ふぁあ……ぁふ」
「フ……大きなあくびをして眠そうなのだ、マコ」
「誰の所為だ誰の」
コイツ、ガキのくせに起床時間は老人レベル。早起きは三文の徳とか言うけど、あと一時間半ぐらい寝た方が絶対に三文よりも価値があるだろう。時間に価値は付けられないけど。
「なーなー、掃除なんて早く終わらせて朝ごはんにしようよー。お腹空いたのだ」
カグヤの言うとおり、現在俺は玄関前の掃除中。マイ箒で落ち葉やら砂埃などをさっさと掃いているのだ。
これが、妹のリラが持っていなくて俺が持っている部分、“綺麗好き”。反対にオレが持っていないのは“料理のスキル”。パスタを茹でる事ぐらいしかできない子が、お嫁に行ける訳がないとお母さんによく言われるが、そんなの料理ができる人を見つければいいだけの話だ。
「うるせー。おまえ、自分の立場わかってる? 居候なんですよ? タダで飯にありつけると思ってんの?」
「うんっ!」
これでもかと言うぐらい元気な返事だった。殴ってもいいかなコレ。
「……じゃあ飯抜きな」
「えぇーっ!! ど、どどどうしたらご飯を食べられるのだ!?」
「働かざるもの食うべからず、働いたヤツは食ってよし、働かないヤツは飢えて死ね、ってな」
そう言って、オレはカグヤにプラスチック製の塵取りを投げて寄越す。
自分のやるべき仕事に気付いたのか、きらりと瞳を輝かせて(多分コレは働きさえすれば飯にありつけるんだという欲の表れ)塵取りを地につけてゴミ受けスタンバイ完了。
「フ……悠久なる闇世界を生きるこの私がわざわざお前の様な三下の家の手伝いをしてやっているのだ……だから早くご飯」
「はいはい、これが終わってからな」
いつもは一人でやっている掃除だが、二人でやると少しだけ早く終わった。
――朝食を終えても、時刻はまだ午前六時十六分。学校に遅刻しない様に、いつも家を出るのは八時ぐらい。故に二時間弱もの自由時間ができてしまった訳だが、その間にする事は本当に何もない。過ぎた早起きは三文を持て余してしまうから嫌なんだ。
そういえば。オレが留守にしている間、カグヤはどうしようか。色々ありすぎて、全然考えていなかった。考えもしなかった。
学校に連れて行っ……たらもっと面倒な事になるしなあ。
「おまえ、留守番とかできる?」
「フ……私を誰だと思っている。永遠の暗黒世界を統べる魔眼族の末裔だぞ。留守番など呼吸に等しいのだ……」
「じゃあ頼むわ裸眼族の末裔サン」
「ただぁし! 一つ条件があるのだ!」
ビシッと指を一本立てるカグヤ。一体どんなトンデモ条件を提示してくるのかと思ったら、
「できるだけ早く帰ってきて欲しいのだ」
どこか寂しそうな表情でそう言った。
「……応、四時ぐらいには帰れると思う。気が向いたらアイス買ってきてやるよ」
「ほッ、ほんと!? うおおおおおマコの気よアイスに向け~~~~~~~っ!」
そんな祈りを捧げなくても買ってきてやるから安心しろ、と心の中で言い、オレは苦笑した。
――時刻は午前七時五十八分。そろそろ学校へ行かなければ。
ちなみに、無駄に長い自由時間をどう過ごしたのかと言うと、眠らない程度にカグヤと一緒にゴロゴロしていただけである。無駄な自由時間を無駄に過ごすという無駄の無駄遣い。正直、気持ちの良いものじゃない。
「あれ、学校というのは普通、制服を着るものじゃないの? 何で普通の格好なのだ?」
「うん? ああ、ウチの学校は私服OKだからな。制服も一応あるみたいだけど、着てるヤツなんて見た事ないなそういえば」
「ふうん、そうなんだ。しかしマコは言葉遣いだけじゃなくて服装も男っぽいのだ……」
「うるせー。こういう格好の方が動きやすいんだよ」
びしっ。
カグヤの脳天に必殺マコチョップ(弱)。
「フ……効かぬわ」
「そうかい。そんじゃま、留守番頼んだぜ。腹が減ったら冷蔵庫にあるモン適当に食ってて良いから」
オレは通学鞄を肩から提げて、靴を履く。
「フ……任せるのだ」
と、平たい胸を張って鼻息ぷすーっ。態度だけは立派な番犬だなと思いつつ、オレはカグヤの頭をガシガシと乱暴に撫でてから玄関を開ける。
「いってらっしゃいなのだ、マコ」
「……応。いってきます」
――――――ああ。こうして、“いってらっしゃい”なんて言われるの、いつ以来だっけ。
オレは振り返らずに家を出た。
嬉しさで綻んだ顔をカグヤに見せない様に。
/6
“ワールドアパート”から徒歩約十分の所に、オレが通う高校がある。その名も泡沫高校。学力のレベルとしては中の下ぐらいで、欠席さえせずに真面目に授業を聞いていれば成績が傾く事は先ず無いぐらいだ(そもそも無欠席で真面目に授業を受けていればそうなるのは当たり前だが)。
オレのクラスは北校舎にある二年四組。北校舎は二年生のクラスしかないので、小生意気な一年生や大生意気な三年生に会う事がないのはありがたい。
教室に入ると、男子グループが益体もない話で盛り上がっていて、女子グループも何やら楽しげに駄弁っているといういつも通りの光景が広がっていた。
と、その喧騒の中、教室に入ってきたオレを見てキッと表情を変えるヤツが一人。
「おッそい! 何考えてんのよ花崎真心ッ!!」
甲高い怒鳴り声に、クラス中の視線がハヤカゼに集中し、刹那の静寂が訪れる。が、本当に静寂は刹那で、クラスの連中がひそひそと何かを話しているのが聞こえてくる。
「何だ、またあの二人かー」「仲良いよねーハルちゃんとマコっち」「百合夫婦キター! 眼福眼福ゥ!」「どうせマコが怒られるパターンだろ」「いつもどおりだな。ところでさあ……」「ああ知ってる! “通り魔”でしょ? 恐いよね……」「今日バイトだるー」「悟りでも開くか」「昨日のシュタゲ見たー?」「ノート写させてくれ」「だが断る」
最初の数秒はオレとハヤカゼについての話題だったみたいだが、ものの数秒で日常回帰。リラの様に切り替えが早く、カグヤの様に感情豊かなクラスだなと思っていたら、ハヤカゼがズカズカとオレの方へやってきた。
「ォ、オハヨウゴザイマス委員長……」
「おはよう。じゃないわよ! あんた今日は朝早く来てあたしのノートを写すんじゃなかったの!? 今何時だと思ってるのよ!」
……しまった。そういえば世界史のノートを見せてくれって連休前に頼んでたんだった。
「あー……悪い、すっげえ忘れてた」
「あんたバカァ!? だからあれほど休みの前にノート貸してあげるって言ったのに……」
「い、いやぁでも連休中はやっぱ勉強からは遠ざかりたいじゃん? 別に写す量はそんなに多くないし、連休明けでも間に合うかなーと思ってさ」
「忘れたら意味無いじゃない! 全くもう……わざわざ七時半に来てあげたあたしがバカみたいじゃない……」
ハヤカゼの言葉はもにゅもにゅとフェードアウトしていった。
「何か言ったか?」
「べッ、別にあんたの為じゃないんだからねッ! ほ、ほらッ。世界史は二限目だから間に合うでしょッ!」
何故かハヤカゼは頬を赤くして、世界史のノートを差し出してきた。貸してやる、という意味なのだろう。ピンク色のノートには綺麗な字面で“疾風春織”と書いてある。
疾風春織。我が二年四組を纏める眼鏡ポニーテールなクラス委員長である。オレ個人との関係は、中学時代からの腐れ縁というヤツで、受験シーズンは勉強を教えてもらったりと結構お世話になった。確実に頭の出来は良い筈なのに、オレと同じレベルの高校を選んだのが未だによくわからないが。
「お、応。ありがとな。早速写させてもらうぜ」
ハヤカゼのノートを受け取り、鞄の中からオレの未完成ノートを取り出して作業開始――の筈だったのだが。
「しまった。世界史のノートを忘れた……!」
「あんたバカァ!? あんたのノートが無かったらもっと意味無いじゃない! 本当にビックリするほど論外ねあんたは!」
ノート忘れただけなのにそれは言い過ぎだろ委員長ェ……。
しかしハヤカゼの言うとおり、確かにノートが無ければ何もできない。しかも今日はノートの点検日だった筈だ。さてどうしたものか。暫し思考の末、
「仕方無い。今から家にノート取りに帰るわ」
「えッ。あ、あんたねえ! もう八時十五分なのよ? 確実にホームルームには遅刻するわよ!?」
「ホームルームぐらいどうって事ないだろ、勉強じゃないんだし」
「で、でも……」
「大丈夫だって。ダッシュすればホームルームにも間に合うだろ。ま、そういう事だから先生によろしくっ」
荷物を置いて、教室から出る。「ちょ、ちょッと待ちなさい花崎真心ッ!」というハヤカゼの声が聞こえたが、無視してダッシュ。事態は一刻を争うから構っていられない。絶体絶命というヤツだ。
許せハヤカゼよ。今度お詫びに食堂で何か奢ってやるから。
口の中だけでそう言って、オレはカグヤが留守番してくれている自宅へと駆ける。
/7
泡沫高校から“ワールドアパート”一〇二号室、つまりオレの家まではものの六分ほどで到着した。ここ最近ではかなりのダッシュだったと思う。お陰で息切れが半端じゃない。酸素プリーズ。
しかし、可能な限りホームルームには間に合わせたいのでダウンしている時間はない。
鍵を取り出し、鍵穴に差す。ガチャリと回し、引き抜く。ギィ、と古びた扉を開ける。部屋ではカグヤが寝ているかと思っていたが――、
「――――は?」
自然に。あるいは必然に、間の抜けた声が漏れてしまった。
カグヤが、いない。どこにもいない。単にいないだけなら散歩にでも行ったのかと思えるが、オレには全くそう思えない。何故なら、部屋には明らかに争った形跡があるからだ。争った形跡といっても、物が散乱しているとか、そんな生半可なものじゃない。畳が派手に引き剥がされていたり、壁には大きな引っかき傷の様なものが刻まれていたりと、本当に“争った”形跡なのだ。とても人同士が争ってできるものじゃない。
「何だよ、これ」
状況が上手く整理できない。何で留守番している筈のカグヤがいなくて、オレの部屋がこんな事になっているんだ? 頼むから考える時間をくれよ。
不意に、オレの頭の中で短い記憶が再生される。カグヤの、あの頓狂な自己紹介が。
『私の名前は月読輝夜。追われているから、匿ってほしいのだ』
追われているから。そうだ、そうだよ。カグヤは追われていたんだ。追われている身だったんだ。そんなアイツにオレは、留守番を任せてしまったのか。ひとりに、してしまったのか……!
「何、やってんだオレ……っ!!」
自分の迂闊さに歯噛みする。思わず部屋をぶち壊したくなったが、既にぶち壊されているので余計に腹が立った。そもそも、一体どこのどいつがオレの部屋をこんな滅茶苦茶にしやがったんだ。やはり人間の仕業とは――、
……待て、人間の仕業じゃないとしたら、一体何の仕業なんだ?
人間じゃない。
人間以外。
人以外。
人外。
『私は妖怪に追われているのだ』
瞬間、思考と記憶が、気持ち悪く重なる。
妖怪。まさかとは思ったが、それぐらいしか考えられなかった。昨日のカグヤの話が全て本当だとするならば。
けれど、仮にそうだとしてオレに何ができる。オレはただ単に幽霊が見えて、幽霊と話せて、幽霊に触る事ができる普通人であって、妖怪にさらわれた女の子を助け出す様なヒーローみたいな力なんてどこにも無い。
それ以前に、カグヤはもう――この世にはいないかもしれない。いや、追われているだけであって別に始末されるとは限らないが、追われていると聞くとどうにもそういう絶望を想像してしまう。
とりあえず警察に連絡と思ったが、果たしてこれは警察の連中に解決できる問題なのだろうか。誘拐事件という形にされて、未解決のままいつしか有耶無耶になって、結局は何も変わらないんじゃないのか。
ならば。
「あぁれえ? 何だよおい、帰ってきてるじゃねえか。人間の学生ってのは、この時間は学校に行ってるんじゃないのかぁ?」
突然、後方から声が聞こえてきた。同時に、この世のものとは思えない気配が現れた。多分これは、“みえる人”であるオレ限定。
声のした方を振り返る――否、振り返ってしまう。まるで大きな手に頭を掴まれて、ぐるんと捻られた様な感覚。オレの意思なんて微塵も尊重せずに、身体が勝手に動いた。花崎真心という器が、振り向かなければならないと判断したのだ。
そしてそこには。思いたくもなかったが、思ったとおり明らかに人ならざるものがいた。オレはソレを見て漠然と、“鬼”の一文字を思い浮かべた。薄紫という気味の悪い肌色をした強靭な肉体は、そこらのプロレスラーなんか比べ物にならない。額の辺りから皮膚を突き破る様にして生えている一対の角は、まさに“鬼”のイメージどおり。節分の日とかによく見かけるからなのかはわからないが、オレはあまり驚かなかった。
「何だ、おまえ」
気付いたらオレは、ソレに話しかけていた。
「ぁん? オマエこそ何だ。俺様が視えるのか?」
「……応、丸見えだコラ。あと質問に答えろデカブツ」
「“何だ、おまえ”にか? 有り体に言えば、妖怪だわな。まぁ人間共が勝手に呼んでいるだけだがな」
本物だった。やべえ、初めて見た。初めて視えてしまった。確かにこんなのは十七年間生きてきて一度も見た事がない。そこら辺の幽霊と区別がつかないとか、そんな難しい話じゃなかった。なんて、わかりやすい異形だ。
待て待て落ち着けオレ。考えてもみろ。今この瞬間に、妖怪という存在が(“みえる人”であるオレ限定とはいえ)証明されてしまった以上、カグヤのあの話は嘘一つ無い真実という事じゃないか――!
「じゃあ、カグヤはどこへやった?」
オレは疑いもせず、このデカブツ妖怪がカグヤを追っている妖怪だと決め付けていた。だってそうでしょう、色々と都合が良いんだから。
「カグヤぁ? ああ、月読輝夜の事か。くくく、悪いがその質問には答えられないなあ」
「どこかへはやったんだな」
よし、問題の根底はハッキリした。しかし問題の解決にはなっていない。ただ問題文がわかっただけだ。
「それじゃあ、おまえはどうしてカグヤを追ってるんだ」
ここで問題。どうしてカグヤは妖怪に追われているのでしょうか。
そう、オレにはカグヤが妖怪に追われている理由がわからなかった。やっぱり、その完璧に近すぎる容姿なのだろうか。だがそれでは追う理由にも追われる理由にも安い気がする。
オレの質問に対して、目の前の“鬼”はニヤリと口の端を吊り上げて答える。
「月読輝夜の首には、それだけの価値があるからだ」
「……何だよ、ソレ。首に価値って……賞金首って事か?」
「ああ、人間風に言うならそういう事だな」
賞金首。漫画とかでよく見るけど、それって何か罪を犯した人間にかけられるものじゃないのか。
「どうして、アイツにそんなものが」
一体カグヤのヤツが何をしたっていうんだ。あんな、普通にふざけて、普通におちゃらけて、普通に謝って、普通に寂しがって、普通に笑える小さな女の子が一体何をしたっていうんだ。
「どうして? 決まっているだろう、月読輝夜は存在そのものが重罪中の重罪、大罪中の大罪の――――――“半妖”だからな」
いよいよコイツが何を言っているのかわからなくなってきた。
「はん、よう……?」
「そう、“半妖”だ。妖怪と人間の間に生まれた禁忌の存在。ただそこに在るだけで万死に値する罪の象徴。それが“半妖”だ」
なるほど、つまりアレか。カグヤは、人間じゃなかったって事か。いや、人間じゃないけれど、人間なんだよな。ああもうややこしい。
「そして月読輝夜は妖怪・桂男の父親と人間の母親の間に生まれた“半妖”だ。どうやらオマエの家に世話んなってたらしいが、良かったな人間。これで邪魔者とはオサラバできるし、こっちは気持ち悪い存在を消せて万々歳。悪い事は何も無いだろう?」
なるほど、確かに悪い話じゃない。
――なんて思うほど、オレは人間としてイカレてはいない。
「ふざけんな。おまえの言ってる事はいじめと同じだ。ただ種類が違うだけで、アイツは生きてるんだ。根本は一緒なんだよ。なのに気持ち悪いなんて暴力で片付けてんじゃねぇ。……カグヤを返せ」
次の瞬間、“鬼”の大きな手がオレの首根っこを掴み、そのまま壁に思い切り叩きつけた。背中に鈍い痛みが広がる。
「ぁ、が……ッ!!」
足が地に着かない。首はがっちりとホールドされて、振りほどけない。上手く息ができない。結果、真面目にやばい。
「人間は黙ってろ。これは“こっち側”の問題なんだよ。“そっち側”の価値観なんざ通用すると思ってんのかぁコラ!」
ぎりり。首が愉快に絞まる。いよいよ意識が軋んできた。視界もハッキリしないし、何か走馬灯が再生されそうな流れですよコレ。
「じゃあな、人間。オマエはここで寝てろ。そうすりゃ色々と楽になる」
「ッ……! ォ、……ッ!!」
お断りだ。
頭ではそう言ってるつもりだったが、身体は応えてくれなかった。
オレの意識は過大な負荷に耐え切れず、強制終了。
訪れるのは、絶望的な暗転。
/8
――深海から浮上する様に、目が覚めた。
壁には大きな傷、ボロボロの畳、荒れ狂った六畳間。随分ときたねえ天国だなと思ったが、オレの部屋だった。どうやら、オレは生きているらしい。もしくは、死に損ねたと言うべきか。あるいは、殺されなかったと思うべきか。
なんにせよ、首に残留している圧迫感から、さっきのアレは夢じゃない事がわかる。悪夢なんかよりよっぽど性質が悪い。
携帯を確認する。時刻は午後六時二十四分。着信あり、八件。オールハヤカゼ。――ああ、そういえば学校の事をすっかり忘れていた。恐らくハヤカゼが心配して連絡をくれたのだろう。あー、世界史の点数は引かれてるんだろうなあ。しかも荷物は学校に置きっぱなしだ。明日から土日なのにどうしよう。
それもこれも、全部カグヤの所為だ。アイツがオレの家で寝てたりなんかしてなかったらこんな事にはならず、オレの歯車は変わりなく廻り続けていた筈なのに。
もう、カグヤは“気持ち悪い存在”として始末されてしまったのだろうか。まぁアイツがどこで何をされようが、もうオレには関係の無い事だ。オレは安心して一般人に戻れるって訳だ。ヒャッホー、普通最高! やっぱりオレには、こんなぶっ飛んだ世界は似合わないんだ。だから、
「だからこそ、だよな」
オレはもう一度だけ、非日常へと足を踏み入れる事を決めた。それが正しいかどうかはわからないけれど、間違いではないと思う。間違いだとしても、オレを止めるヤツなんてどこにもいない。何故ならここから先は、オレにしか見えない世界だからだ。
全く、本当に世話の焼けるガキだ。そう思いながら、オレは携帯の電話帳を開く。えーっと、マ行マ行……あった。見つけた名前にそのまま電話をかける。
流石にオレ一人ではどうしようもないので、“こういう事”に詳しい人に手助けをしてもらおう。
「あ、もしもし」
コール音は長続きする事はなく、すぐに繋がった。
「マトリョーシカ先輩ですか? オレです、花崎真心です」
という事で、先輩とは近くのコンビニで待ち合わせる事になった。相当退屈だったらしく、電話をかけた時は自分の携帯電話をずっと見詰めて誰かから連絡が来ないか念じていたらしい。相変わらず底が知れない人だ。
「おーう、待たせちゃったねマコー」
飄々とした声を後ろから投げかけられる。振り向くと、そこにいたのは松葉杖をついた赤髪の女性。口元には煙草、故に年の頃は二十歳かそこら……ではなく、この人は未成年だという事をオレは知っている。
「煙草は二十歳になってからですよ、マトリョーシカ先輩」
「なーに言ってんのさ、十九歳も二十歳も一緒でしょうよ。大体、十五歳でも四捨五入すれば二十歳だぜ? ケラケラッ」
何が可笑しいのか、先輩は不出来な操り人形みたいにカタカタと揺れながら笑う。真鳥喜歌、女性、愛称・マトリョーシカ先輩。泡沫高校の卒業生で、卒業と同時に裏側の世界に自ら足を踏み入れた変人である。この人自体は“みえる人”ではないのだが、かなりのオカルトマニアで、“そういう知識”にやたらと詳しい。オレが霊的なトラブルに巻き込まれた時に何度かお世話になっているのだが、それはまた別のお話。
松葉杖に向いていたオレの視線に気付いたのか、先輩は何やら嬉しそうに口を開いた。
「気になるか? 何で骨が折れてもいないのに松葉杖なのか。答えは簡単、同情の視線を浴びたいからさ。前にも言っただろ、私は可哀想な人間でありたいんだよ」
「は、はあ……。もう充分お可哀想ですが」
という感じで適当にあしらっておくのがこの人との付き合い方だ。マトリョーシカ先輩は他人との深い繋がりを嫌っていて、その辺がオレと気が合うのかもしれない。
「ケラケラッ、知ってる。で? 私を呼んだって事は、また妙な事に巻き込まれてるみたいだね、おまえ。まぁ長くなりそうだから何も訊かないけど、そういうトラブル体質って普通は男の子が持つべきものなんだけどねェ」
「放っといて下さい。あまり時間が無いので、率直に訊きます。先輩、妖怪がよく集まる場所ってどこですか」
その質問をした瞬間、先輩の目つきが急に鋭くなった。さっきまでの飄々とした雰囲気が嘘みたいだ。
「妖怪……。マコ、おまえそんな所にまで足を踏み入れたのか。おまえはせいぜい霊媒体質三拍子が揃ってるだけの一般人だと思っていたが、まさか妖怪を視認できるまでになるなんてねェ……」
一人でブツブツと何事か呟く先輩。
「な、何ですか」
「いや何も。えぇと、妖怪がよく集まる場所だっけ。まぁ大抵は鬱蒼とした森の中とかにいるみたいだけど、この辺りにそんな場所はないしなあ」
綾華市もその周辺も都会で、大きな建物ばかりだ。故に、森などという自然の産物はどこにもない。
「他にあるとすれば――神社とか」
「神社、ですか」
「そう。綾華神社があるだろ。考えられるとすればそこぐらいじゃないかな。あとは皆目検討もつかないねェ。私もそこまで妖怪に詳しくないから」
申し訳なさそうにこめかみを掻く先輩。
「充分です先輩。ありがとうございます」
「礼は要らん。あと、これあげる」
不意に、マトリョーシカ先輩は懐から紙切れの様なものを取り出した。一瞬、一万円札かと思ったが違った。そりゃそうか。
「何ですかこれ」
オレは訝しげにそう尋ねる。
「御札。身に付けていれば何かしら役に立つと思うから付けとけ」
「はあ……」
渡されたのは何も書いていない真っ白な紙切れ。こんなの、本当に何かの役に立つのかな。まぁ先輩からの厚意だから受け取っておいて損はないだろう。
「じゃあ、時間が無いんでオレはこれで」
「おー。よくわかんないけど、くれぐれも無茶はしないようにな」
別に、無茶をしているつもりはない。オレはただ、オレにしか見えない世界を一度だけでも救いたいだけだ。
「――まぁ、乗りかかった船ですから」
/9
マトリョーシカ先輩とは別れた。
すぐさま綾華神社に向かおうと思ったが、流石に丸腰で行くのは無用心だと思ったので一旦家に戻ってきた。
「てか、オレん家に護身用になる得物なんてあったかな……」
家の中は相変わらず滅茶苦茶で、今すぐにでも掃除をしたかったが何とか堪える。
「あっ、そうか。箒があるじゃないか」
頭の中に浮かんだ掃除というワードで気付いた。幸いにも、オレが愛用している箒は無事だった。ある意味では使い慣れているし、金属バットとかを持ち歩くよりは怪しさも無いだろう。
それにしても、何やってんだろうな、オレ。いやまぁ、自分との関係がそんなに深くもない、しかも人間ですらねえヤツを助けに行こうとしている訳なんですけどね。大体、まだ生きているかすらわからないヤツを助けようだなんて、どうかしてる。成功確率が一パーセントにも満たない手術に挑む医者の気持ちって、こんな感じなのだろうか。って、そもそもそんな確率じゃあわざわざ手術なんてしないか。
けど、カグヤが生きてる可能性が一パーセントに満たなくても、オレ一人が走り回って足掻くのは自由だ。誰にも迷惑はかからない。オレが疲れるのは自己責任だし。
……で。そこまでして、何で助けようなんて思えるんだろうな。本当に、ここで諦めて見捨てても良い筈なのに。これも、誰にも迷惑はかからない。誰にも見えないのだから。
ふと、カグヤとの会話がフラッシュバックする。オレが何も考えずアイツに留守番を頼んだ時の事だ。
『ただぁし! 一つだけ条件があるのだ!』
アイツは元気良く指を一本立てて続けて言った。
『できるだけ早く帰ってきて欲しいのだ』
――ああ。そういえば、そんな小さな約束してたっけ。
四の五の理屈は要らないな。オレが動く理由なんて、そんなちっぽけなもので充分だ。アイツは、オレの帰りを待ってたんだ。
あの約束、今からでも遅くないから、半分だけでも守らせてくれ、カグヤ。
「さて、と」
オレは箒片手に家を出る。向かう先は、綾華神社。
「掃除の時間だ」
/10
“ワールドアパート”から徒歩約十五分の所に、綾華神社がある。夏祭りの出店とかはこの辺りでやっていて、シーズンが来ると結構な賑わいを見せるのだが、今は五月。その上、現在時刻は午後七時十五分ジャスト。辺りの人通りは少なく、今はオレしかいない。
空は薄暗くなってきて、夜が始まろうとしていた。霊的な方々がハッキリと見えてくる。人通りは少なくても、霊通りはそこそこのようだ。子供の霊から大人の霊、昨日のオッサンみたいに電柱の影に隠れているヤツもいる。視線が半端じゃない。
少し、あのデカブツについて訊いてみるか。辺りに人はいないし、好都合だ。話しかけるのは子供の霊が良いとマトリョーシカ先輩は言っていた。何でも、害が少なくて純粋無垢に答えてくれるからだそうだ。
オレは道端を呆と見詰めている男の子の霊に目をつけた。
「こんばんは、ちょっといいかなボク」
「……お姉ちゃん、だれ?」
「誰でも良いでしょ。それより訊きたい事があるんだけど」
「ききたいこと?」
「うん。この辺に、やたらとデカい鬼みたいなヤツ見かけなかった? オレ、そいつを捜してるんだけど」
「みたよ。さっきあそこに入っていくのみた」
男の子が指差したのは――綾華神社だった。ワオ、ビンゴ。
いや待て待て、まだあのデカブツと決まった訳じゃない。もしかしたら本当にデカくて鬼みたいな大男かもしれない。それはそれで怪しいけど……。
もっと条件を絞り込む必要があるな。
「じゃあそいつ、女の子とか連れてなかった?」
「女の子? うん、いっしょにいた。なんかこう、かばんみたいに抱えてたよ」
なら、そいつがカグヤで間違いないだろう。おいおいすげえな、こんな簡単で良いのか。
「そっか、ありがとな。それと、あんまりこの世に長くいると、大きくなれないぞ」
適当な事を言って男の子と別れる。
数メートルほど歩いて、綾華神社前到着。明かりは点いておらず、世界を見下す満月のみが、境内を照らしていた。薄気味悪いったらありゃしない。
一歩。境内に足を踏み入れる。その瞬間に、背筋を全力疾走する悪寒。オレの本能が、死に物狂いで警告している。
――これ以上、進んではいけない。進んではいけない。進んではいけない。いけない、いけない、いけない、いけない、いけないいけないいけないイケナイイケナイイケナイイケナイ――――
「うるせー。退いてろ恐怖心。今さらおせぇんだよ」
また一歩、踏み出す。足取りは軽い。
視線の先には賽銭箱、その直ぐ後ろには拝殿。左右に狛犬、頭上に満月。辺りを見渡しても、カグヤも“鬼”もいない――否、見えないだけだ。確かに気配は此処に在る。
普段から何も考えなくても見えてしまうのだから、見ようと思えば不可視なものだって視える筈だ。オレなら、きっと――!
十七年間生きてきて、初めて見えないものを視ようと思った。すると、
「……ホォラ」
すぐさま視界に異変が起きた。賽銭箱の辺りが、まるで蜃気楼の様にユラユラと歪み始めたのだ。更に集中すると、歪みは鮮明になっていき、そして。
賽銭箱の上で横たわっているカグヤと、その横で腕を組んでまるで待ち合わせをしている様に静かに立っている“鬼”が視えた。
カグヤの肩がすうすうと上下している所を見ると、どうやらまだ生きているようだ。一先ず安心するが、問題はここから。
「よう、デカブツ」
「……あれぇ」
怪訝そうに、“鬼”は口を開いた。
「オマエ、何で生きてんの?」
/11
何で生きてんの、か。漠然とした問いに、オレは思わず真面目に考えてしまう。カグヤが生きていると知って、余裕ができたのだろう。
オレにはデカブツの問いが二つの意味に聞こえた。“殺した筈なのに何故生きているのか”という意味と、そのままの意味で“何故生きているのか”という意味。前者はまぁ、オレの強運ってヤツだろうな。後者は……何だろう。まだ未成年のオレには意外と難しい質問だな、コレ。
「オレは首を絞められたぐらいじゃ死なねぇよ」
とりあえず、前者の意味という事で答えてみた。すると“鬼”はゲラゲラと下品な笑い声を上げた。
「なるほどなるほど、人間だと思って甘く見ていたよ。何だ、そんなに月読輝夜が大切か?」
「ああ、大切だ。オレはカグヤと約束したんだ。けどオレはその約束を半分も守れなかった。だからもう半分の約束を守る為に、そいつは返してもらわないと困るんだよ」
できるだけ早く帰ってきて欲しい、という約束。オレは一度家に帰っているが、カグヤがいなければ約束の意味はない。もう今は夜。故に“早く”帰る事はできなかった。
だからせめて、“帰る”という約束だけでも、守りたい。アイツとの約束を守りたい。それが結果的に――カグヤ自身を救う事になるんだ。
「嫌だと言ったら?」
こういう台詞が出たら、大概はバトルパートに突入するんだよなあ。似合わないけど、やるしかないか。白状すると、最初からコイツはぶん殴っておかないと気が済まないと思っていた。
だってコイツ、オレの部屋を滅茶苦茶にしやがったでしょ? もうそれだけでフルボッコ確定だよ。いやマジで。
「実力行使ってヤツだな」
弾、とオレは“鬼”に向かって全力疾走。手に持っている箒を竹刀に見立て、力の限り面を打――
ぐしゃ。
人が思い切り殴られる音。どうやらオレが殴られたらしい。腹部に滲む、破滅的な鈍痛。オレはまるで人形みたいに軽く吹っ飛ばされ二、三メートルほど地面をバウンドする。
「ァ、ぐ……ッ!!」
「人間如きが俺様に勝てると思ってんのか。女だからって容赦しねぇぞコラ」
まぁそうですよね。オレも確実に勝てるとは思っちゃいないさ。でも、確実に負ける気もしない。“絶対負ける”と思うのと、“多分勝てる”と思うのとではその違いは明白だ。何より自信の無いヤツが戦場に出ても、そいつは最初から敗北者だ。自分に負けているんだから。
箒を支えにして立ち上がる。もう既に頭の中は痛みでパンクしそうだ。それでも、オレは前へ踏み込む。今度は胴を狙い――
ぐしゃ、ばきっ。
また腹を殴られる。そんな事より、聞いた事ない音がしたけど大丈夫かな。恐らくどこかの骨が折れたと思うのだが、どこの骨が折れたのかわからない。
「くそ、何本いった……!?」
という感じに、ピンチなくせにどこかカッコいい台詞を吐ける余裕なんてオレには無い。代わりにとばかりにオレの口から吐き出される毒々しい赤。口内を生臭さが支配し、不快感が湧いて出る。
「諦めろ、人間。俺様も無益な殺しはしたくねぇんだ。だからここは引き下がれって。月読輝夜には何の価値も無ぇよ。生きてて誰かの得になる事なんて何もない、ただ邪魔なだけだ」
「……うる、せぇ」
「あん。何か言ったか?」
「ぅうるせぇっつってんだよォォォおおおおおおおおおおおおおおおあああああああああああああああああッ!!」
夜に浸透する、一つの咆哮。近所迷惑なんてお構いなしだ。オレはオレの事で精一杯なんだから。周りの事なんていちいち気にしていられない。
いきなり叫ぶオレを見て、“鬼”は目を白黒させる。何だ、妖怪から見ても、オレは奇怪しいのか。
「何様のつもりなんだよおまえ。黙って聞いてりゃ好き勝手言いやがって」
再び箒を支えにして立ち上がる。
「ふざけんな。生きてるだけで、そこにいるだけで罪になるヤツなんているか。いてたまるかってんだ!」
「何を訳のわからん事を……」
その時。
“鬼”の背後に蠢く影を、オレは見た。賽銭箱の上でもそもそと動くソレは、月光に照らされて浮き彫りになる。
「……カグヤ」
「マコ……?」
オレの喚声に目が覚めたのか、カグヤは起き上がり、開口一番オレの名を呟いた。
/12
「何で、どうしてマコがこんな所にいるのだ……? し、しかもボロボロだし……」
カグヤは酷く混乱している様だった。無理もない。さっきまで眠っていたのだから、状況が飲み込めないのは当然だろう。
「どうして、か。そりゃあアレだろ……おまえを連れ戻しに来たんだよ。何か連れ去られてたから」
オレはかすれた声でカグヤにそう言った。するとカグヤは“何でそんな事を”と言いたげな表情になる。
「連れ戻しにって……わかってるの? 私は“半妖”なんだよ!? そんな事しても、何も意味がないのだ!」
何だ、コイツ自分の事をわかっていたのか。“半妖”である事も、その価値も。
存在が許されないカグヤは自分を追う者から必死に逃げて、ただ単に日常を謳歌したかっただけ。実に人間らしい考えじゃねぇか。コレのどこに妖怪の血が混ざってんだ。
コイツのしたい事を何一つ考えずに真正面からぶち壊すヤツの方がよっぽど罪だ。反吐が出る。
「もう私の事はいいからマコは逃げるのだ! 私の事で誰かが――マコが死ぬのは絶対に嫌だッ!!」
ボロボロと大粒の涙を流すカグヤ。あーあー、泣かせちまった。この場合、オレが泣かせた事になるのかな。
それなら、オレにはアイツを泣き止ませる責任があるな。約束、責任。全く、本当に世話の焼けるガキだぜ。
「誰が死ぬかよ。それに、コレはおまえの事じゃない。オレが勝手に動いてるだけだ」
「マコ……?」
呆気に取られた様な顔をするカグヤ。写メしたいぐらい間抜けな顔だが、涙はピタリと止まっていた。
「あー、感動の再会の途中に悪いんだけど、調子に乗ってんじゃねぇぞ人間」
突如、頭上から振り下ろされる殺戮の拳。気付いた時にはもう頭にヒットする寸ぜ――
ばがん。
オレは顔面から思い切り地にねじ伏せられた。腹部、頭部、顔面。どんどん痛覚が悲鳴を上げる場所が増えていく。
ゆっくり顔を上げると、両方の鼻の穴から何か温かいものが垂れてきた。オレはそれが鼻血だと直ぐにわかった。
血が足りなくなる前にケリをつけなければ。そう思い、オレは目と鼻の先にあるマイ箒に手を伸ばすのだが、
べぎん。
辺りに生々しく響く音。オレの右腕が“鬼”の足によって容赦なく踏み潰され、へし折られた音だ。
「―――――、」
痛すぎて声にすらできない。
「いやぁぁぁああああああああああああああああっ!!」
代わりに、カグヤが悲鳴を上げた。くそ、オレにはその声の方がよっぽど痛いからやめてくれ。
「無駄だって言ってんのがわかんねぇのか?」
「何が、無駄だって……?」
「俺様に挑もうっていうのが既に無駄なんだよ。こっちは妖怪、そっちはただの人間。能力差をわきまえろ人間」
へえ、妖怪って理屈抜きで人間よりも上なんだ。役に立たないどうでもいい知識をアリガトウ。
「だからさっさとのたれ死ね。俺様にオマエを殺させるな」
“鬼”はオレの腕から足を退けて、背中を向けた。
「……待てよ、デカブツ」
それでもオレは、立ち上がる。二本の足で。オレの怨念めいた声に振り向いた“鬼”は驚きを隠せない様な顔をしていた。後ろにいるカグヤも同じく。
「まだ立つのか、オマエ」
「当たり、前だろ」
腕は折られても、足はまだ折られてないからな。充分過ぎるほど立ち上がれる。
「約束を守れないような“男”には、無様に死ぬ価値すら無ぇからな」
折れていない左腕で箒を構える。さーて、ここからが本番……って、何だか“鬼”とカグヤが揃って怪訝そうな表情をしているのは何故だろう。オレ、何か変な事言ったか?
「……は? 男? オマエ、女じゃないのか」
「何言ってんだ。どっからどう見ても男だろうが」
「いや、どっからどう見ても女だろ」
何だよおい、妖怪から見てもオレって女に見えるのか。ちくしょう、久々だぜこのリアクション。そういえばカグヤにも言ってなかったっけ。女の子呼ばわりされる事に慣れていたから、何も言わなかったけど。
「う、嘘なのだ……。あんなに、私よりも綺麗なのに……」
カグヤが何かをブツブツと呟いている。
「まぁともかく、オレはまだまだ倒れる訳にはいかねぇんだよッ!」
箒を振り上げ、我武者羅に走り出す。どこでもいい、とにかく思い切り打ち込めば――
「だから無駄だっつってんだろ!!」
べしゃ。
またまた腹を殴られる。内臓が幾つか破裂していても奇怪しくはない。ボタンを押せば飲み物が出てくるドリンクバーみたいに、オレは口から真っ赤な血を吐き出す。何か冗談じゃない量になってきてるんですけど。
ここまでされても、オレはまた立ち上がろうとする。このままでは同じ事の繰り返しだと思ったのか、“鬼”はオレの左足の横にズンズンと近づいてきた。そして――そのまま小枝を折る様な気軽さで、オレの左足を踏み折りやがった。
「が、ぁ……ッッ!!」
「マコぉッ!!」
「何回言ったらわかるんだ人間。オマエには何もできない。不可能だ。無理だ。無駄なんだよ」
そう言われてみれば、そうかもしれないな。何かもう、無理くせえ。
「もう、やめて……。もういいよ……マコ」
おまえこそやめろ。そんな言葉をかけられると、諦めたくなってしまうじゃないか。
身体中が軋み、悲鳴を上げている。オレの身体も無理だって懇願してやがる。
ここで諦めて死んでしまえば、全てから解放されて楽になる。けれど、ここで死んでしまうと何もかもが水の泡だ。約束も守れずじまいで、カグヤはいずれ殺される。
花崎真心、十七年間の人生の中で最大のピンチ。絶体絶命、どうするオレ。とまぁ、そんな自問自答をしたところで時間の無駄だ。既に答えは決まっているのだから。
答えは勿論、生きる。生きてカグヤとの約束を果たす。その為に今できる事は、立ち上がる事。たとえ片足が折れていようともだ。
「ば、馬鹿な……! 確かに左足は折った筈なのに、何故立てる!? いや、骨が折れてるとかそれ以前の問題だぞ!!」
「ははっ、骨を折られたぐらいじゃオレは倒れねぇよ。オレを倒したかったらオレの心でもへし折ってみろってんだ」
尤も、絶対に折れないけどね。折られない自信がある。
「どんなに痛めつけられても、何度でも立ち上がる……」
賽銭箱の上にいるカグヤが真剣な表情をして口を開いた。オレはとりあえず聞き耳を立てる。
「踏まれても踏まれても、立ち上がり咲き誇るその姿はさながらたんぽぽ。まさに――」
カグヤは一呼吸置いてから、
「“不屈の王者”なのだ……!」
とんでもねぇ中二的な二つ名をオレに付けやがった。
普段なら真っ向から却下すると思うのだが、今のオレはどうにもテンションが奇怪しいので、不覚にも悪くないと思ってしまった。
「“不屈の王者”ね。じゃあその名に恥じぬよう、何度でも立ち上がってやんよ」
この時、多分オレは人を殺しかねない顔になっていたと思う。
「ひ……ッ!!」
“鬼”は思わず後退りした。何だ、妖怪でも恐がる事ってあるのか。そりゃ傑作だ。
「怯えたな、デカブツ。今ならまだ見逃してやるけど、どうするよ」
「は、ははッ……何を馬鹿な事を! 人間如きに見逃してもらうほど俺様は……」
言葉は続かなかった。恐らく、恐怖が声をシャットアウトしてしまったのだろう。
「そうかい。その心意気は褒めてやるけど、もうおまえの心は折れちまってんだ。だから終わりだよ、デカブツ」
「あッ……ああッ……! うぁぁああああああああああああああああッ!!」
ついに“鬼”は情けない声を上げながらどこかへ行ってしまった。本当は百発ほどぶん殴りたかったけど、平和的に解決してよかった。傷付いたのはオレだけだし。
脅威が去った事に安心してしまったのか、急に全身の力が抜けた。このまま地面にぶっ倒れるかと思ったが、
カグヤが、その小さな身体でオレを優しく支えてくれた。
「……お前は馬鹿なのだ、マコ」
「カグヤ?」
「私なんかの為に、こんなにボロボロになって……わけがわからないのだ」
オレの胸元に顔が蹲っていて表情は窺えないが、その声は微かに震えていた。どうやらまた泣かせてしまったようだ。
「……悪い」
無力なオレは謝る事しかできなかった。
カグヤはオレを強く抱き締めて嗚咽する。涙がシャツに染み込んできたのがわかった。
「あーもう泣くなって。おまえが泣いてたら、ここまでボロボロになったオレの立場がないだろ」
すると、徐々にカグヤの嗚咽は鎮まっていった。辺りを妙な沈黙が包み込む。
数十秒後、カグヤはガバっと顔を上げた。目はウサギみたいに赤くなっていて、泣いていたのが直ぐにわかる。その表情は一瞥するとムスッとしているが、口元はほんの僅かだが微笑んでいた。赤い目もよく見ると笑っている。
それを見て本当に安心した。一件落着というヤツだ。
オレはカグヤの頭にぽんと手を乗せて、
「ただいま」
「……おかえりなさい、なのだ」
カグヤとの約束を、半分だけ果たした。
/13
あの一件の後、オレはソッコーで入院させられた。医者によると、普通は立てない様な状態だったらしい。それでも立ち上がってたオレって何者だよ。生命の神秘って素晴らしい(?)。
お見舞いに来たお母さんとリラは、包帯ぐるぐる巻きで志々雄真実みたいになっているオレを見た途端、
『マコの可愛い顔が台無しじゃない……!』
『もう綺麗なマコ姉は見れないの……?』
などという事を言いやがった。いや、オレ男だから別にそういうのは気にしないからね。ここまで来ると新手のいじめみたいだ。
ハヤカゼもお見舞いに来てくれた。絵に描いた様なフルーツ盛り合わせを持ってきて、病室に入りオレと目が合った瞬間、
『かッ、勘違いしないでよね! 別にあんたのお見舞いに来た訳じゃないんだからねッ!』
と、顔を真っ赤にしてそう言い放った。じゃあ誰のお見舞いに来たんだよ、とオレは速攻でツッコミを入れておいた。
お見舞い客はそれだけではなく、縫子さんやマトリョーシカ先輩まで来てくれた。
縫子さんはまぁ、相変わらず朴訥とした感じで普通に心配してくれたのだが、その時に限って彼女には左腕が“在った”ので、オレとしては息が詰まりそうでお見舞いどころではなかった。
足が折れてもいないのに松葉杖をついてやってきたマトリョーシカ先輩は、本当に足が折れているオレを見て同情の視線を向けた。向けて欲しいのは先輩でしょう、と鋭くツッコミを入れておいた。ちなみにマトリョーシカ先輩から貰ったあの何も書いていない御札は『虎の威を借る狐』という名前だそうで、それ以上は何も教えてくれなかった。真っ当な想像力を働かせてあの御札がどういうものだったのか考えてみたが、嘘か本当かわからないのでやめておいた。
そして今オレの隣にいるのは今回の一件の中心人物、月読輝夜。ハヤカゼが持ってきたフルーツ盛り合わせの中にあった林檎を、使い慣れていない果物ナイフで不器用に切ってくれている。あーあー、それ皮分厚すぎだろ。
先輩によると、十七年間生きてきて一度も妖怪を見た事がなかったオレが突然視える様になったのは、コイツの妖怪の部分にアテられたからだそうだ。あくまで推理らしいが、妙に納得してしまった。
「……本当にいいの?」
林檎を切りながら、カグヤは申し訳なさそうに言った。
今回の一件の事もあって、カグヤはオレの家に住み着く事になったのである。
「何が」
「まだ私を追ってる妖怪は沢山いるんだよ? 今回は何とかなったけど、次は……」
「うるせー」
ぺちん、とカグヤにデコピンをお見舞いする。カグヤは「あうっ」という気の抜けた声を漏らす。
「ごちゃごちゃと細かい事を気にするな。またああいうヤツが来たら、またオレが何とかしてやる。それでいいだろ」
今度は約束とか、そういうのはナシで。本当に、ただ真っ直ぐカグヤを守る為に。
カグヤはここに在る。ここにいる。ここに生きてる。オレの隣にいる。それだけで、かけがえのない価値じゃないか。
それでもコイツの存在が罪だなんて言うヤツは、片っ端からぶっ飛ばしてやる。心が折れない限り。
「……マコ」
不意に、名前を呼ばれた。
何だ? とオレは聞き返す。
「――ありがとう」
カグヤは俯きながら小声で何かを言った。
「あん? 何か言ったか?」
「……何も!」
ぷいっ、とカグヤはそっぽを向いた。何なんだ一体。
怪訝に思っていたら、カグヤは切り終えた林檎の一切れをフォークで刺してこちらへ寄越した。かなりガタガタで歪な形をしていて、本当に林檎なのか疑わしい。
「フ……深淵なる闇の世界を生きるこの私がわざわざ切ってやったのだ……ありがたく“あーん”されるがいい」
ここで邪気眼キャラかよ面倒くせえ。何だよありがたく“あーん”されろって。
まぁ片腕だし、折角の厚意だから断る訳にはいかない。オレは観念して大きく口を開けた。……かなり恥ずかしいものがあるな、コレ。
ほどなくして口に放り込まれる林檎らしき物体。形はアレだが味はちゃんと林檎だった。商品が良いのか、それともカグヤが切ってくれたからなのか、かなり瑞々しくて美味しく感じた。
「ん、美味い」
「良かったのだ」
ニシシ、とカグヤは無邪気に微笑んだ。
それが心の底からの笑顔だという事は、“みえる人”じゃなくてもわかるだろう。
まぁ、オレも良かったよ――コイツの咲き誇る様な、月明かりみたいな笑顔を守れてさ。
/BlooMooN!・END.