サイドストーリー:傍観者の後悔 ―プリズムの第三角―
「ねえ、あんたたち、付き合っちゃえばいいのに」
私の口からその言葉が飛び出した瞬間、世界の歯車が狂った音がしたような気がした。
蝉時雨が降り注ぐ、蒸し暑い夏の夕暮れ。
茜色に染まった公園のベンチ。
溶けかけたアイスキャンディーの甘ったるい匂い。
あの日、あの時、私がその一言を口にしなければ。
あるいは、もっと違う言い方をしていれば。
いや、そもそも二人の関係に、土足で踏み込むような真似をしなければ。
後悔は、二年という歳月が過ぎた今でも、私の胸の奥にヘドロのようにこびりついて離れない。
私は、松岡花子。
クラスでは「ムードメーカー」なんて呼ばれ、お調子者で通っている。
人の恋バナが大好きで、噂話に目がなくて、いつも輪の中心で笑っている。
そんな自分が、まさか親友たちの人生を大きく狂わせる「引き金」になるなんて、あの頃の私は夢にも思っていなかった。
***
健と由美は、私にとって理想の二人だった。
幼馴染で、美男美女で、お互いのことを誰よりも理解している。
放課後の教室で、二人が何気ない会話を交わしている姿を見るのが好きだった。
健の少しぶっきらぼうな優しさと、由美の屈託のない笑顔。
二人の間には、誰も入り込めない空気があって、私はそれを「特等席」で眺めるのが日課だった。
「じれったいなぁ」
それが、私の偽らざる本音だった。
誰が見ても両想いなのに。どうしてあと一歩踏み込まないのか。
若さゆえの焦燥感と、ほんの少しの野次馬根性。
まるで少女漫画の続きを早く読みたい読者のような無責任さで、私は二人の背中を押そうとしたのだ。
公園でのあの日。
健がジュースを買いに行き、由美と二人きりになった瞬間、私は勝負に出た。
ちょっと意地悪く、確信を突くように。
「健のこと、どう思ってるの?」
由美が動揺するのは分かっていた。
顔を赤くして、「もう、やめてよ」なんて照れる姿を期待していた。
そうすれば、戻ってきた健を冷やかして、一気にカップル成立まで持っていける。
そんな安易なシナリオを描いていた。
けれど、由美の反応は私の予想を裏切った。
彼女は過剰に反応し、防衛本能をむき出しにした。
『罰ゲームみたいなもんじゃん』
『軽いノリで』
その言葉を聞いた時、私は背筋が凍るのを感じた。
(言い過ぎだよ、由美……)
そう諌めようとした矢先、茂みの向こうで何かが動く気配がした。
そして、その後のことは、悪い夢を見ているようだった。
健が聞いていたこと。
その夜、二人が絶縁したこと。
翌朝、目を腫らして登校してきた由美が、健に冷たく拒絶される姿。
教室の空気が凍りついていた。
健の冷徹な態度は、まるで別人だった。
由美が縋り付いても、彼は表情一つ変えず、彼女の手を払いのけた。
その光景を、私はただ呆然と見ていることしかできなかった。
「私のせいだ」
その言葉が、喉まで出かかっては消えた。
私が余計なことを聞かなければ、由美はあんな嘘をつく必要はなかった。
健だって、傷つくことはなかった。
私が壊したんだ。
ずっと三人で笑い合っていた、あのかけがえのない時間を。
***
由美が学校に来なくなった。
健は、教室の隅で氷の彫像のように黙り込むようになった。
私は、二人の間を行き来する振り子のように揺れ動いた。
ある日の放課後、私は意を決して健を呼び出した。
階段の踊り場。冷たいコンクリートの壁。
健は無表情で私を見下ろしていた。かつての、少し皮肉屋だけど温かみのある健の瞳は、そこにはなかった。
「由美のこと、許してあげてよ」
私は必死に懇願した。
自分が原因だと言い出せない卑怯さを隠して、あくまで「友人」として振る舞った。
「あの子、本気であんなこと言ったんじゃないの。私がしつこく聞いたから、照れ隠しで……」
「言葉は、取り消せない」
健の声は、無機質で平坦だった。
まるでプログラムされた機械音声のようだった。
「理由はどうあれ、あいつは俺との関係を『罰ゲーム』と定義した。それが事実だ。事実は変わらない」
「だからって、あんなに追い詰めなくても……!」
「俺は誰も追い詰めてない。ただ、関わりを絶っただけだ」
彼の論理は完璧で、そして冷酷だった。
感情論でぶつかっても、今の彼には届かない。
私は無力感に打ちのめされた。
私が知っている健は、もっと不器用で、人間くさかったはずなのに。
彼は傷つくことを恐れるあまり、自分自身を殺してしまったのだ。
そして、由美は日本を去った。
カンボジアへ行くと聞いた時、私は耳を疑った。
あの虫も殺せないような臆病な由美が?
海外なんて、修学旅行以外で行ったこともないあの子が?
そこまで、彼女は追い詰められていたのだ。
空港へ見送りに行こうかとも思った。
でも、行けなかった。
合わせる顔がなかった。
「元気でね」なんて、どの口が言えるというのだ。
私のせいで居場所を奪われた彼女に。
卒業式の日。
健の隣の席は空席のままだった。
私は一人、教室の片隅で泣いた。
みんなは別れを惜しんで泣いているけれど、私の涙は違う。
悔恨と、懺悔の涙だ。
私たちの青春は、あの日からずっと止まったままで、ついに再開することなく終わってしまった。
***
大学に進学してからも、私は罪悪感という重い鎖を引きずっていた。
健とはたまにキャンパスですれ違うことがあった。
彼は相変わらず一人で、周りを拒絶するオーラを纏っていた。
「工学部のサイボーグ」なんて陰口を叩かれているのも知っていた。
そのたびに、胸が締め付けられる思いがした。
由美からは、たまにメールが届いた。
現地の子供たちの写真や、見たこともない料理の写真。
文章は短かったけれど、そこには日本にいた頃にはなかった「強さ」が滲んでいた。
『私は元気だよ。花子も元気?』
その一文を見るたびに、私は救われるような、それでいて責められているような気持ちになった。
「私が直さなきゃ」
いつしか、それが私の使命になっていた。
壊したのは私だ。なら、修理する責任も私にあるはずだ。
お節介だと言われてもいい。嫌われてもいい。
二人がまた笑い合える日が来るなら、私はなんだってする。
そして、二年目の秋。
由美が帰国した。
カフェで待ち合わせた彼女は、見違えるほど変わっていた。
小麦色に焼けた肌。短く切った髪。
そして何より、瞳の輝きが違っていた。
かつての、人の顔色ばかり伺っていた由美は、もうどこにもいなかった。
「久しぶり、花子!」
彼女は屈託なく笑って、私を抱きしめた。
私は硬直した。怒られると思っていた。責められると思っていた。
なのに、彼女の腕は温かく、そして優しかった。
「……由美、ごめん。本当にごめん」
私は子供のように泣きじゃくった。
人目もはばからず、謝り続けた。
「いいよ、もう。花子のせいじゃないってば」
由美は苦笑しながら、私の背中をさすってくれた。
「私が弱かっただけ。花子の質問は、ただのきっかけに過ぎなかったの。……それにね、おかげで私、強くなれた気がするんだ」
彼女はコーヒーカップを見つめながら、静かに言った。
「私、健に会いたい。会って、ちゃんと伝えたいの」
その言葉を聞いた瞬間、私の中でカチリとスイッチが入った。
ムードメーカー松岡花子、復活の時だ。
いつまでもメソメソしている場合じゃない。
今の由美なら、きっと健の心の氷を溶かせる。
いや、由美にしかできない。
「任せなさい!」
私は涙を拭いて、鼻をすすりながら力説した。
「今度の学園祭。そこが決戦の地よ。健の研究室、展示やるらしいから。あいつ、真面目だから絶対ブースにいるはず」
「うん、分かった」
「逃げちゃダメだよ? 健、すっごく冷たいこと言うかもしれないよ?」
「大丈夫。覚悟はできてるから」
由美の目は、揺るぎない決意に満ちていた。
ああ、大丈夫だ。
この子はもう、私が守ってあげなきゃいけないような弱い子じゃない。
一人の自立した女性として、健と向き合おうとしている。
***
学園祭の当日。
私は自宅のアパートで、スマートフォンの画面と睨めっこしていた。
一緒に行くことも考えた。
陰から見守ることも考えた。
でも、やめた。
これは二人の物語だ。第三者である私が立ち入っていい領域ではない。
私がすべきことは、舞台を整え、背中を押してあげることまでだ。
時計の針が進むのが、やけに遅く感じる。
今は昼過ぎ。そろそろ会えただろうか。
健はどんな顔をしただろう。
追い返しただろうか。それとも、話を聞いただろうか。
悪い想像ばかりが頭をよぎる。
もし、ダメだったら。
もし、決定的に拒絶されて、由美がまた傷ついたら。
その時は、私が全力で由美を支えよう。
美味しいケーキを食べて、カラオケで朝まで歌って、健の悪口を言い合おう。
それが、親友としての私の役目だ。
午後五時を回った頃。
部屋の中が薄暗くなってきた。
窓の外からは、秋の虫の声が聞こえてくる。
ブブブッ。
机の上のスマートフォンが震えた。
心臓が口から飛び出しそうになる。
恐る恐る画面を見る。
通知の送り主は『由美』。
指が震えて、なかなかロックが解除できない。
深呼吸を一つ。
覚悟を決めて、メッセージアプリを開く。
『健と会えたよ』
最初の一文で、息が止まりそうになった。
続く文章を目で追う。
『ちゃんと話せた。謝れた。……健も、謝ってくれた』
『いろいろあったけど、仲直りできたよ。花子、ありがとう』
添付された写真。
そこには、夜のキャンパスを背景に、二つの缶コーヒーが並んで写っていた。
人の姿はないけれど、その写真からは、穏やかで温かい空気が伝わってくるようだった。
「……よかったぁ」
全身の力が抜けて、私はその場にへたり込んだ。
涙が溢れて止まらなかった。
今度は、うれし涙だ。
二年間の重荷が、すっと消えていくのを感じた。
私の犯した罪が完全に消えるわけではないけれど、少なくとも、最悪の結末だけは回避できた。
すぐに返信を打つ。
『おめでとう! 本当によかった! あんたたち、最高だよ!』
『ていうか、私抜きでデートとか許さないからね! 今度奢りなさいよ!』
送信ボタンを押すと、すぐに『既読』がついた。
そして、新しい通知が届く。
『あ、健がグループMINE作ろうって』
『招待が届いています』
画面に表示された『浅見健』の名前。
二年ぶりに見る、その名前。
私は震える指で『参加する』をタップした。
『よう、花子。久しぶり』
健からのメッセージ。ぶっきらぼうだけど、どこか懐かしい文体。
『余計なことしやがって。……まあ、感謝はしてるけど』
「素直じゃないんだから、もう……」
私は泣き笑いの表情で、画面に向かって毒づいた。
画面の中には、かつての三人の空間が戻ってきていた。
いや、違う。
以前のような、なあなあの関係じゃない。
一度壊れ、痛みを知り、それでも繋がり直した、新しい私たちだ。
夕暮れのプリズム。
光は屈折し、分散し、様々な色を見せる。
私は、その光を乱反射させる、ただのガラスの破片だったのかもしれない。
でも、その乱反射があったからこそ、二人はお互いの本当の色を知ることができたのだと思いたい。
「さてと!」
私は勢いよく立ち上がった。
お腹が空いた。
今日はとびきり美味しいものを食べよう。
そして、今度三人が集まった時には、とびきりの笑顔で冷やかしてやるんだ。
「いつ結婚すんの?」って。
窓を開けると、秋の夜風が心地よく吹き抜けていった。
夜空に浮かぶ月は、どこか誇らしげに輝いていた。
私の大切な親友たちの、新しい始まりを祝福するように。




