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サイドストーリー:遠い空の向こうで ―空白の季節、彼女の独白―

「絶交だ」


その短い言葉が、私の世界を断ち切ったあの日から、時間はずっと止まったままだった。

スマートフォンの画面が暗転し、私の指先は冷たく凍りついたように動かなくなった。

何度もかけ直そうとした。指が擦り切れるほどメッセージを送ろうとした。けれど、画面に表示されるのは冷酷なエラーメッセージと、私の存在が彼の中から完全に削除されたという事実だけだった。


「どうして……」


暗い部屋の隅で、膝を抱えて呟く。

答えは分かっている。私が悪いのだ。

松岡花子の何気ない質問に、見栄と照れ隠しで答えた私の浅はかさが、すべてを壊した。


『罰ゲームみたいなもん』

『軽いノリ』


自分の口から出たその言葉が、鋭い刃物となって私の喉元に突きつけられているようだった。

健は真面目だ。冗談が通じないほど誠実で、そして不器用なほど純粋だ。

そんな彼が、私の言葉をどう受け取るか、想像できたはずなのに。

いや、想像することを放棄したのだ。

自分の小さなプライドを守るために。彼への恋心を悟られるのが怖くて。

その代償が、これほどまでに大きいとは思いもしなかった。


学校へ行けば、彼の視線が痛かった。

いや、視線すらなかった。彼は私を空気のように扱い、徹底的に無視した。

その冷徹な態度は、周囲のクラスメイトさえも遠ざけた。

私は教室に居場所を失い、呼吸をすることさえ苦しくなっていった。

逃げたい。

ここではないどこかへ。

健のいない、私のことを誰も知らない、遠い場所へ。


そうして私は、逃げるように日本を飛び出した。

行き先は、カンボジア。

たまたまネットで見つけたボランティア募集の広告。

「自分を変える旅」

そんな安っぽいキャッチコピーに縋るしかなかった。

今の自分を捨て去りたかった。

健を傷つけた最低な自分を、日本という土地ごと置き去りにしてしまいたかったのだ。


***


プノンペンの空港に降り立った瞬間、むせ返るような熱気と、独特のスパイスの香りが鼻をついた。

日本とは違う湿度。肌にまとわりつく空気。

喧騒と熱狂。

トゥクトゥクのドライバーたちが大声で客引きをし、極彩色の服を着た人々が行き交う。

その圧倒的なエネルギーに気圧されながら、私は迎えの車に乗り込んだ。


車窓を流れる景色は、私の知っている「日常」とはかけ離れていた。

赤茶けた土埃。舗装されていない道路。木造の高床式住居。

市場に並ぶ見たこともない果物や、生きたまま売られている鶏たち。

信号などあってないようなもので、バイクと車がクラクションを鳴らしながら隙間を縫うように走っている。


「……とんでもないところに来ちゃった」


後部座席で小さく呟く。

不安で胸が押し潰されそうだった。

英語もろくに話せない。クメール語なんて「オークン(ありがとう)」くらいしか知らない。

そんな私が、ここで何ができるというのだろう。

ただの現実逃避。

親に無理を言って、学校を辞めてまで来た理由が、「失恋の傷を癒やすため」だなんて、誰にも言えるはずがなかった。


私が配属されたのは、シェムリアップから車で二時間ほど離れた、農村部の小さな学校だった。

電気は通っているが頻繁に停電し、水は井戸水を使う。

Wi-Fiなんて夢のまた夢。

スマートフォンの電波すら、風向きによっては圏外になるような場所だった。


「ユミ、これがあなたの部屋よ」


現地のコーディネーターであるソフィアさんが、満面の笑みで案内してくれたのは、簡素なゲストハウスの一室だった。

ヤモリが壁を這い、蚊帳が吊られただけのベッド。

日本での快適な生活に慣れきっていた私には、それは独房のように見えた。


その夜、私は枕を濡らした。

寂しかった。怖かった。

健に会いたかった。

「バカだなぁ」って、いつものように呆れた顔で笑ってほしかった。

でも、もう彼はいない。

私が手放したのだ。

圏外の表示が出ているスマートフォンを握りしめ、私は幼い子供のように泣きじゃくった。


***


私の仕事は、子供たちに英語や算数を教える先生の補佐と、校舎の修繕作業の手伝いだった。

最初の数週間は、地獄のようだった。

言葉が通じないもどかしさ。

慣れない肉体労働による筋肉痛。

そして何より、自分自身の無力感。


「Teacher Yumi!」


子供たちは無邪気に私を呼ぶ。

キラキラとした瞳。泥だらけの手足。

彼らは私が「先生」として何かを教えてくれると期待している。

けれど私には、彼らに教えられることなんて何もなかった。

逆に、彼らから教わることばかりだった。

井戸の汲み方。スコールの予兆。美味しいマンゴーの見分け方。


ある日の午後、突然の豪雨に見舞われた。

バケツをひっくり返したような雨。

校庭は一瞬にして泥の海と化し、私のスニーカーはずぶ濡れになった。

私は慌てて校舎の軒下に避難し、泥だらけになった自分の足元を見て、ため息をついた。


「最悪……」


お気に入りのスニーカーだった。

日本から持ってきた、数少ない私のアイデンティティの一部。

それが赤土にまみれて汚れていくのが、自分の心が汚れていくようで耐えられなかった。


「ユミ!」


その時、一人の男の子が雨の中を走ってきた。

名前は確か、ダラーといったか。いつも同じTシャツを着ている、痩せっぽちの少年だ。

彼は泥だらけになりながら、何かを私に差し出した。


「……?」


それは、大きなバナナの葉っぱだった。

彼はそれを傘代わりに私の頭上に掲げ、ニカッと白い歯を見せて笑った。


「Rain! Stop!」


拙い英語。

でも、その笑顔はどんな言葉よりも雄弁だった。

彼は私のスニーカーが汚れるのを気にして、自分が濡れるのも厭わずに葉っぱを持ってきてくれたのだ。


私はハッとした。

私は自分の靴のことばかり気にしていた。

自分が汚れること、自分が傷つくこと、自分が不快になること。

そればかりを考えて、目の前の子供の優しさに気づこうともしなかった。


健とのことも、そうだったんじゃないか?

私は自分が傷つくのが怖かった。

「好き」と言って拒絶されるのが怖くて、「今の関係」という居心地のいい靴が汚れるのを恐れて、嘘をついた。

『罰ゲーム』

その言葉は、相手を傷つけるためのものではなく、自分が傷つかないための防壁だった。

なんて卑怯なんだろう。

なんて臆病なんだろう。

目の前のダラー少年は、こんなにも無防備に、泥だらけになって私に優しさを向けてくれているのに。


「……ありがとう」


私はバナナの葉を受け取り、彼の頭を撫でた。

涙が溢れてきた。

雨に混じって頬を伝う涙は、温かくて、そして苦かった。


「Thank you, Dara. Thank you...」


私は泣きながら、何度も彼に礼を言った。

それは彼に対する感謝であると同時に、日本にいる健への、届かない懺悔でもあった。

ごめんね、健。

私、自分のことしか考えてなかった。

あなたの優しさに甘えて、泥を被る覚悟もなくて、ただ綺麗な場所にいたかっただけなの。


その日を境に、私の中で何かが変わった。


***


私は髪を短く切り、化粧をするのをやめた。

どうせ汗で流れるし、ここでは誰も私の外見なんて気にしていない。

大切なのは、私が何をするか、どう向き合うかだ。


私は積極的に泥仕事に参加した。

ペンキを塗り、古くなった机を運び、子供たちと一緒に走り回った。

クメール語も必死に覚えた。

ノートにびっしりと単語を書き込み、夜はロウソクの明かりで勉強した。

それは、かつて健が受験勉強に打ち込んでいた姿をなぞるような行為でもあった。

彼のように、一つのことに真剣に向き合いたかった。


「ユミは変わったね」


半年が過ぎた頃、ソフィアさんが言った。

私たちは夕暮れの校庭で、並んで座っていた。


「来た時は、今にも折れそうな小枝みたいだったけど、今は立派な大木になりつつあるわ」

「……そうですか? まだまだですよ」

「ううん、目が違う。ここに来た理由、聞いたことなかったけど……何か、辛いことがあったんでしょ?」


ソフィアさんの穏やかな問いかけに、私は静かに頷いた。

沈んでいく夕陽が、赤土の大地をさらに赤く染め上げていく。

それは、あの日、健と決別した公園の夕焼けによく似ていた。

けれど、今の私はもう、あの日のように目を背けたりはしない。


「好きな人を、傷つけたんです」


私は初めて、他人にその話をした。


「自分のプライドを守るために、一番大切な人を裏切るような嘘をついて……それで、逃げてきました」

「そう。……まだ、その人のことが好きなの?」

「はい。大好きです」


迷いなく答えた自分に、驚いた。

ああ、私はまだ好きなんだ。

時間が経てば忘れると思っていた。

距離が離れれば薄れると思っていた。

でも、違った。

離れれば離れるほど、自分自身と向き合えば向き合うほど、健という存在の大きさが浮き彫りになっていく。


私の弱さを知っていて、それでも隣にいてくれた彼。

不器用だけど、誰よりも誠実だった彼。

私は彼にふさわしい人間になりたい。

もう二度と、嘘で自分を守ったりしない強さを手に入れたい。


「なら、帰りなさい」


ソフィアさんは優しく、けれど力強く言った。


「ここで学んだ強さを持って、もう一度向き合いなさい。逃げたままじゃ、あなたの時間は一生動かないわよ」


その言葉が、私の背中を押した。

帰ろう。

日本へ。

そして、健の元へ。


許してもらえるとは思っていない。

「今さら何だ」と罵られるかもしれない。

それでもいい。

私は私の言葉で、本当の気持ちを伝えたい。

『罰ゲーム』なんかじゃない。

私にとって彼は、人生で一番大切な『光』だったのだと。


***


帰国してからの私は、まるで何かに取り憑かれたように動いた。

まずは大学への編入試験。

健と同じ土俵に立つためには、私も前に進まなければならない。

必死に勉強した。

睡眠時間を削り、参考書にかじりついた。

その原動力は、ただ一つ。「健に会いたい」という一心だった。


そして、松岡花子に連絡を取った。

最初は怒鳴られた。泣かれた。

「あんた、今まで何してたのよ!」と胸ぐらを掴まれた。

私は言い訳をせず、ただ頭を下げて謝った。

私の身勝手で心配をかけたこと。何も言わずに消えたこと。

花子は一通り私を罵倒した後、最後には強く抱きしめてくれた。


「……バカ由美。心配させやがって」

「ごめん、花子」

「で、どうすんの? 健のこと」


カフェのテーブル越しに、花子は真剣な目で私を見た。


「会いたい。会って、謝りたい」

「健、変わったよ。昔みたいに優しくないよ。すごい冷めてるし、近寄りがたい雰囲気になってる。それでもいいの?」

「うん。それが、私が招いた結果だから。どんな健でも、受け止める覚悟はある」


私の言葉に、花子は少しだけ呆れたように笑った。


「あんたも変わったね。昔より、ずっといい顔してる」


そう言って、彼女は教えてくれた。

健の大学の学園祭の日程を。


「行くならここしかないよ。普段の研究室はセキュリティ厳しくて入れないし、待ち伏せなんてしたらストーカー扱いされかねないからね」

「ありがとう、花子……!」

「お礼なんていいから、さっさと行ってきな! 玉砕しても、慰め会くらいはやってあげるからさ」


***


そして、学園祭の前夜。

私は鏡の前に立っていた。

そこに映っているのは、かつての制服姿の頼りない少女ではない。

カンボジアの太陽に焼かれた肌は少し色が戻ったけれど、目元には確かな意志が宿っていた。

髪はセミロングまで伸びた。

服装は、少し大人びたトレンチコートを選んだ。

健が見たら、「似合わない」って笑うかな。


心臓が早鐘を打っている。

明日、彼に会う。

二年ぶりに。

声を聞く。目を見る。

考えただけで、膝が震えそうになる。

でも、もう逃げない。


私は窓を開け、夜風を吸い込んだ。

秋の風は冷たいけれど、どこか懐かしい匂いがした。

見上げた空には、月が白く輝いている。

この月は、カンボジアの空とも繋がっている。

あの泥だらけの校庭で、ダラー少年が見せてくれた笑顔。

ソフィアさんがくれた言葉。

それらすべてが、今の私を支えている。


「待っててね、健」


夜空に向かって、小さく呟く。


私はもう、嘘つきの幼馴染じゃない。

あなたのことが好きだと、胸を張って言える一人の女性として、あなたの前に立つ。

どんなに拒絶されても、どんなに冷たい言葉を投げつけられても。

私の心はもう、決して折れない。


『罰ゲーム』という呪いを解くのは、私しかいないのだから。


私はカバンに、一枚のハンカチを入れた。

明日、もし泣いてしまったら、これで拭えばいい。

でも、きっと泣くのは嬉し涙だと信じて。

私はベッドに入り、長く、そして短い夜を迎えた。


空白の季節が終わる。

明日、私の時計の針が、再び動き出す。

その音が、希望の音色であることを祈りながら、私は静かに目を閉じた。

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