表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/8

第6話 新しい空の下で

学園祭の喧騒は、夜の訪れと共にその色合いを変えていた。

昼間の突き抜けるような青空と熱気は鳴りを潜め、代わりにキャンパスを包み込むのは、無数のイルミネーションと、少し肌寒い秋の夜風だった。

模擬店の明かりが星々のように地上に散らばり、遠くのメインステージからは、フィナーレに向けたバラード曲が微かに流れてくる。


工学部の校舎裏手にあるベンチ。

そこは、祭りの中にあって唯一、時間の流れが緩やかなエアポケットのような場所だった。

僕と由美は、並んで座ったまま、空になった缶コーヒーとミルクティーを両手で包み込んでいた。中身はもう冷たくなっていたが、不思議と捨てる気にはなれなかった。

それが、僕たちの再会をつなぎ止めるアンカーであるかのように思えたからだ。


「……そっか。カンボジアに行ってたんだ」


僕が静かに問いかけると、由美は懐かしそうに目を細めて頷いた。


「うん。最初はね、ただ逃げたかっただけなの。日本にいると、どうしても健のことや、学校のみんなのことを思い出しちゃうから。言葉も通じない、私のことを誰も知らない場所に行けば、全部忘れられるんじゃないかって」

「でも、違ったんだろ?」

「うん。全然違った」


由美は苦笑した。その横顔は、僕の記憶にある幼い彼女とは違い、どこか凛とした強さを宿している。


「向こうに着いた初日、すごいスコールに降られてね。道路が川みたいになって、私のスーツケースも泥だらけになっちゃったの。言葉も分からないし、スマホの電波も悪いし、もう最悪って思って泣きそうになってた」

「お前らしいな。昔から、すぐパニックになる癖は変わってない」

「うるさいなぁ。でもね、その時、現地の子供たちが駆け寄ってきて、私の荷物を一生懸命運んでくれたの。泥んこになって、笑いながら。言葉なんて通じないのに、『大丈夫?』って顔をして」


彼女の声が、優しく弾む。


「その時、恥ずかしくなったの。私は自分のことばっかり考えて、悲劇のヒロインぶって逃げてきただけなのに、この子たちはこんなに逞しく生きてるんだって。……それからかな。私が変わらなきゃって思ったのは」


由美の話を聞きながら、僕は胸の奥が熱くなるのを感じていた。

僕が研究室という狭い世界に閉じこもり、機械相手に数値をいじっていた二年間。彼女は海を越え、泥にまみれ、言葉の壁と戦いながら、自分の殻を破ろうとしていたのだ。

その圧倒的な経験の差に、僕は劣等感ではなく、純粋な敬意を抱いた。


「すごいな、由美は」

「え?」

「俺なんて、大学に入ってからずっと、誰とも関わらないように生きてきただけだ。講義を受けて、レポートを書いて、家に帰る。その繰り返し。……変化を恐れて、現状維持にしがみついてただけだ」


自嘲気味に言うと、由美は首を横に振った。


「ううん、健だってすごいよ。だって、ずっと夢だった工学部の勉強、続けてるんでしょ? さっき後輩の子と話してるの見たけど、すごく頼りにされてたじゃない」

「あれは、ただ機械の配線をしてただけで……」

「それがすごいの! 一つのことを続けられるって、才能だよ。私にはできなかったことだもん」


彼女の真っ直ぐな瞳に見つめられ、僕は言葉に詰まる。

かつては、その純粋さが重荷だったこともある。自分の汚い部分を見透かされているようで、怖かったのだ。

けれど今は、その光が心地よい。

プリズムを通した光が、複雑な屈折を経て、ようやく優しい色で僕に届いているようだった。


「由美は今、どこの大学に行ってるんだ?」

「ここの隣の県にある、国際教養学部のある大学。編入試験、すっごく大変だったんだから! 毎日図書館にこもって、健が受験勉強してた時みたいに必死に勉強したの」

「へえ、あのお前がねぇ……」

「ちょっと、どういう意味よ!」


由美が軽く僕の肩を叩く。

その感触に、僕たちの間にあった二年の空白が、音を立てて埋まっていくのを感じた。

会話のリズム。笑うタイミング。沈黙の長さ。

十数年かけて培ってきた「幼馴染」としての呼吸は、簡単には消えないものらしい。

ただ、以前と違うのは、そこにお互いへの「甘え」や「依存」がないことだ。

それぞれが一度壊れ、一人で立ち上がり、別の道を歩んだ末に、再び交差した点。

今の僕たちは、対等な「個」として向き合っている。


「……ねえ、健」


ふと、由美が空を見上げた。

キャンパスの照明に照らされた夜空は、街明かりのせいで星は見えないが、深く吸い込まれそうな藍色をしていた。


「私たちが離れていた時間って、無駄じゃなかったよね?」

「ああ。……必要な時間だったと思う」


僕は即答した。

もしあのまま、あの日あの公園での出来事がなく、なんとなく付き合っていたとしたら。

きっと僕たちは、お互いの未熟さに気づかないまま、もっと深い傷をつけ合って終わっていただろう。

一度壊れたからこそ、再構築できる関係がある。

雨が降らなければ、虹はかからない。


「……花子、元気にしてるか?」

「うん! 実はね、帰国してから一度だけ会ったの。最初はすっごく怒られたけど、最後は泣きながら抱きついてきて……。でね、『健のことはどうするの?』って聞かれた」

「お節介なやつだな、相変わらず」

「ふふ、でも、花子が背中を押してくれたんだよ。『学園祭に行けば、きっと会える』って」


松岡花子。

僕たちの関係を壊すきっかけを作った彼女だが、同時に、こうして修復の糸口を作ったのも彼女だった。

今度会ったら、文句の一つでも言ってやりたいところだが、たぶん僕も感謝の言葉しか出てこないだろう。


「そろそろ、行くか」


僕は立ち上がった。

学園祭の終了時刻が近づいている。学生たちが片付けを始め、祭りの後の寂しさが漂い始めていた。

由美も頷き、ベンチから腰を上げる。

二人で空き缶をゴミ箱に捨て、並んで歩き出す。


向かう先は、駅へと続く銀杏並木だ。

行きとは違い、今は隣に彼女がいる。

その事実だけで、見慣れたキャンパスの風景が、まったく別の世界のように鮮やかに見えた。

足元の枯れ葉を踏む音が、二重奏のように響く。


「健、駅まで送ってくれる?」

「ああ、もちろん」

「やった。久しぶりに健と帰れるね」


由美が無邪気に笑う。

その笑顔を見て、僕はポケットの中のスマートフォンを強く握りしめた。

今しかない。

ここで言わなければ、僕はまた後悔することになる。

二年前、着信拒否をし、ブロックリストに入れ、すべての繋がりを断ったあの日の自分を、乗り越えなければならない。


僕は立ち止まった。

それに気づいて、由美も足を止める。

不思議そうな顔で振り返る彼女の前で、僕は震える手でスマートフォンを取り出した。


「……由美」

「なに?」

「MINEのID、教えてくれないか」


心臓が早鐘を打っていた。

たかが連絡先の交換だ。今の時代、初対面の相手とでも挨拶代わりにすることだ。

けれど、僕たちにとっては、これは特別な儀式だった。

一度切断された回線を、再び繋ぐための。

過去を精算し、未来へのパスポートを手に入れるための、重く、そして大切な儀式。


由美の目が、驚きに大きく見開かれた。

そして、みるみるうちに潤んでいく。

彼女は慌ててバッグをゴソゴソと探り、自分のスマートフォンを取り出した。


「う、うん……! もちろん! いいよ、ていうか、私から頼もうと思ってたのに……!」


彼女の手も震えていた。

画面を操作する指先がもどかしい。

やがて、彼女の画面にQRコードが表示された。

僕はカメラを起動し、そのコードを読み取る。


『ピロン』


静かな夜道に、電子音が響いた。

画面に表示されたのは、『Seto Yumi』という新しいアカウント名と、海外の青空をバックに笑う彼女のアイコン。

二年前の、ピースサインのアイコンとは違う。

今の、強くて美しい彼女の姿だ。


『友達に追加しました』


その文字を見た瞬間、僕の肩から重い荷物がふっと消えたような気がした。

長かった。

本当に、長かった。

あの夕暮れの公園から始まった、僕たちの長い迷路が、ようやく出口を迎えたのだ。


「……追加した。これ、俺の新しいID」

「うん、確認するね」


由美が鼻をすすりながら画面をタップする。

そして、顔を上げて満面の笑みを浮かべた。


「ありがとう、健。……今度は、ブロックしないでね?」

「しないよ。二度としない」


僕は苦笑しながら、けれど真剣に答えた。

もう、逃げない。

言葉の綾で傷つくことがあっても、すれ違うことがあっても、もう回線を切るような真似はしない。

話し合い、ぶつかり合い、修正していく。

それが、これからの僕たちの在り方だ。


「さあ、行こう。終電なくなっちゃうぞ」

「あ、待って! 花子にグループMINE作ろうって連絡しなきゃ!」

「気が早いな……まあ、いいけど」


再び歩き出した僕たちの頭上には、いつの間にか雲が晴れ、鮮明な月が浮かんでいた。

新しい空の下。

僕たちは、幼馴染という古い殻を脱ぎ捨て、名前のない新しい関係へと踏み出した。


「ねえ、健」

「ん?」

「今度、ご飯行こうよ。美味しいアジアン料理のお店見つけたの」

「パクチーは苦手なんだけどな」

「えー、克服してよ! 人生損してるよ!」


他愛のない会話。

けれど、その一つ一つが、今は宝石のように輝いて聞こえる。


かつて、一つの嘘が僕たちを引き裂いた。

けれど、その嘘があったからこそ、僕たちは痛みを知り、孤独を知り、そして再会の喜びを知ることができた。

夕景のプリズムが映し出したのは、後悔という名の影だけではなかった。

その先にある、未来という名の光。


「……またな、由美」

「うん、またね。健」


駅の改札前で、僕たちは手を振り合った。

「さようなら」ではなく、「またね」と言える幸福。

その余韻を噛み締めながら、僕は一人、帰路についた。


スマートフォンの画面が光る。

『今日はありがとう。また連絡するね!』

由美からのメッセージと、変なウサギのスタンプ。

僕は歩きながら、自然と口元が緩むのを止められなかった。


夜風は冷たかったが、胸の奥には確かな温もりが灯っていた。

止まっていた時間が、今、力強く動き出す。

後悔も痛みもすべて抱きしめて、僕たちは生きていく。

この新しい空の下で。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ