第5話 プリズムの告白
工学部の校舎の裏手は、表の学園祭の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
コンクリートの壁に囲まれた無機質な空間。建物の影が長く伸び、アスファルトの上を黒く塗りつぶしている。
遠くから聞こえる吹奏楽部の演奏や、マイクを通して響く司会者の声が、まるで水底にいるかのようにくぐもって聞こえる。
ここにあるのは、規則的に唸りを上げる室外機のファンノイズと、時折吹き抜ける風が枯れ葉を転がす音だけだ。
そして、僕と瀬戸由美の間に流れる、息が詰まるような沈黙。
僕はベンチには座らず、自動販売機の横にある手すりに腰を預けた。
由美は、三メートルほど離れた場所に立ち尽くしている。
その距離は、僕たちが過ごした二年間という空白の時間を象徴しているようだった。
「……で、話ってなんだよ」
沈黙に耐えきれず、僕は先に口を開いた。
意識して作った低い声。感情を極力排した、冷徹なトーン。
それが僕の精一杯の防御壁だった。
彼女のペースに巻き込まれてはいけない。情に流されてはいけない。
脳内で警報が鳴り響いている。
由美は一度大きく深呼吸をした。
肺の奥まで空気を入れ替え、覚悟を決めるかのように拳を握りしめる。
その視線は、真っ直ぐに僕を捉えていた。
逃げない。逸らさない。
その瞳の強さに、僕は思わず目を逸らしそうになる。
「健。私、ずっと謝りたかった。あの日、公園で言った言葉のこと」
やはり、その話か。
僕は小さくため息をつき、ポケットの中で拳を握った。
「今さらだろ。もう忘れたよ」
「ううん、忘れてない。健はそんなに器用じゃないもん」
由美は静かに、けれど断定するように言った。
「健が忘れてないこと、私が一番よく分かってる。だって、私自身も一日たりとも忘れたことなんてなかったから」
「……勝手なことを言うな」
「勝手だよ。私はずっと勝手だった。あの時も、今も」
由美が一歩、前に踏み出した。
カツン、とスニーカーの音がコンクリートに響く。
「あの日のこと、言い訳させてほしいの」
「言い訳なんて聞きたくない」
「聞いて。お願い」
彼女の声が震えた。懇願するような、けれど決して退かない響き。
僕は舌打ちをしそうになるのを堪え、黙って彼女を見返した。
聞くくらいならいいだろう。それで彼女が満足して、二度と僕の前に現れなくなるなら。
そう自分に言い聞かせる。
「あの頃の私ね、すごく怖かったの」
由美は遠くを見るような目をした。
「健はずっと優秀で、真面目で、目標に向かって真っ直ぐ進んでた。工学部に行くって決めて、夢に向かって努力してた。でも私は、自分が何になりたいのかも分からなくて、ただなんとなく毎日を過ごしてた」
彼女の言葉に、僕は眉をひそめた。
そんな風に思っていたのか?
いつも明るく、クラスの中心にいた彼女が?
「健と一緒にいるのは楽しかった。幼馴染だから、隣にいるのが当たり前だと思ってた。でも、高校三年生になって、周りが進路だの恋愛だのって騒ぎ始めた時、急に不安になったの」
由美は言葉を選ぶように、ゆっくりと続ける。
「このまま健が遠い世界に行っちゃうんじゃないかって。私だけが置いてけぼりになるんじゃないかって」
「……それが、『罰ゲーム』なんて言葉を使った理由になるのか?」
僕の冷たい問いかけに、由美は痛みに耐えるような顔をした。
「うん……なるの。私にとって、それが一番の防衛策だったから」
彼女は視線を僕の足元に落とし、独白するように語り始めた。
「花子に聞かれた時、本当はすごく動揺した。『健のこと好きなの?』って聞かれて、心臓が飛び出るかと思った。だって、図星だったから」
時間が止まった気がした。
風の音も、室外機の音も消え失せる。
今、なんて言った?
好き? 図星?
「……は?」
間の抜けた声が出た。
由美は顔を上げ、潤んだ瞳で僕を見た。
「好きだったよ。健のことが、ずっと好きだった。幼馴染としてじゃなくて、異性として」
予想もしなかった言葉に、僕は言葉を失った。
思考回路がショートする。
論理が破綻する。
好きだった? なら、なぜあんなことを?
「でもね、怖かったの。もし『好きだ』って認めてしまったら、もし健に伝えて拒絶されたら、もう隣にいられなくなる。今の心地よい関係が壊れてしまう。それが何より怖かった」
由美の声に熱がこもる。
「それに、周りにからかわれるのも嫌だった。『あいつら付き合ってんのかよ』って冷やかされて、健に迷惑がかかるのも嫌だったし、何より、自分に自信がなかったの。健の隣に釣り合うような女の子じゃないって、勝手に思い込んでた」
彼女の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「だから、嘘をついたの。『罰ゲームみたいなもん』だなんて、最低の言葉で予防線を張った。そう言っておけば、もし健と付き合うことにならなくても傷つかなくて済む。周りにも『ただの幼馴染だから』って言い訳ができる。……自分のプライドを守るために、健の気持ちを踏みにじったの」
彼女の告白は、僕がこの二年間、憎み続けてきた「瀬戸由美」像を根底から覆すものだった。
彼女は僕を軽んじていたわけではなかった。
むしろ、逆だったのだ。
大切すぎるがゆえに、失うことを恐れるあまり、歪んだ形で自分を守ろうとした。
それはあまりにも幼く、不器用で、そして残酷な選択だった。
「……バカじゃないのか」
ようやく出た言葉は、罵倒というよりは、呆れに近いものだった。
「ああ、バカだよ。大バカ者だよ」
由美は涙を拭いもせず、自嘲気味に笑った。
「そのバカな嘘のせいで、一番大切な人を傷つけて、一番失いたくないものを失ったんだから。健に『絶交だ』って言われた時、世界が終わったと思った。自業自得だって分かってたけど、呼吸ができないくらい苦しかった」
彼女は一歩、また一歩と僕に近づいてきた。
今度は僕も逃げなかった。
「日本を逃げ出したのも、健に会わせる顔がなかったから。でも、海外に行って、ボランティア活動をして、色んな人と出会って、ようやく分かったの。言葉は一度口に出したら戻らないけど、心は伝えなきゃ伝わらないんだって」
由美は僕の目の前まで来ると、深々と頭を下げた。
「ごめんなさい。あの日、健を傷つけて本当にごめんなさい。私の弱さが、健の優しさを利用した。……本当に、ごめんなさい」
彼女の嗚咽が、静かな空間に響く。
その震える肩を見ているうちに、僕の中の氷が音を立てて砕け散っていくのを感じた。
怒りはもうなかった。
あるのは、やるせなさと、そして僕自身の傲慢さへの気づきだった。
僕は壁から背中を離し、ゆっくりと彼女に手を伸ばした。
けれど、触れる寸前で止めた。
まだ、僕にはその資格がないような気がしたからだ。
「……由美、顔を上げてくれ」
僕の声に、由美がおずおずと顔を上げる。
涙でぐしゃぐしゃになった顔。
昔と変わらない、泣き虫の由美の顔だ。
けれど、その瞳には、かつてなかった強さが宿っている。
「俺も……悪かった」
僕の口から出た謝罪の言葉に、由美が驚いたように目を見開く。
「え……? 健は悪くないよ。私が全部……」
「いや、俺もだ」
僕は自分の胸に手を当てた。そこにはまだ、鈍い痛みが残っている。
「俺は、お前の言葉を聞いて、すぐに心を閉ざした。理由を聞こうともせず、話し合うこともしなかった。一方的に『裏切られた』と決めつけて、被害者ぶって、お前を切り捨てた」
僕は論理で武装していたつもりだった。
感情に振り回されない、合理的な判断をしたつもりだった。
だが、それは間違いだった。
「俺も怖かったんだ。お前に拒絶されるのが。だから、傷つく前に自分から関係を絶った。お前が『罰ゲーム』と言った瞬間に、俺のプライドが傷つくのを恐れて、お前という存在そのものを排除しようとした。……それは、お前を守ろうとしない、俺の弱さだ」
僕は初めて、自分の弱さを認めた。
工学部の研究室で、機械相手に閉じこもっていたのも、すべては人と向き合うことへの恐怖からだった。
「人間は嘘をつく」「機械は裏切らない」
そんな単純な理屈に逃げ込んで、自分を正当化していただけなのだ。
「お前が日本を離れて苦しんでいる間、俺は安全圏にいて、ただお前を恨むことで自分を保ってた。……ズルいのは俺の方だ」
「健……」
由美がまた泣き出しそうになる。
今度は悲しみの涙ではなく、何かが解けたような、安堵の涙に見えた。
西日が傾き、建物の影がさらに濃くなる。
その時、校舎の窓ガラスに反射した夕陽が、プリズムのように光を散乱させ、僕たちの間に虹色の光の帯を作った。
偶然の悪戯のような、美しい光景。
「夕景のプリズム、か」
僕はふと、そんな言葉を口にした。
「え?」
「光は見る角度によって色を変える。俺たちは、一つの側面しか見てなかったんだな」
由美の「嘘」という側面。
僕の「拒絶」という側面。
けれど、光を透過させ、時間をかけて屈折させてみれば、そこには「好意」や「恐怖」、「後悔」といった様々な色が混ざり合っていたのだ。
「……そうだね。私たち、不器用すぎたね」
由美が泣き笑いのような表情で言った。
「ああ。本当に、遠回りをした」
僕はポケットからハンカチを取り出し、彼女に差し出した。
由美はそれを受け取ると、乱暴に顔を拭いた。
その仕草が昔のままで、僕は思わず小さく笑ってしまった。
「笑わないでよ」
「悪い。でも、やっといつもの顔が見れた気がして」
僕の言葉に、由美もつられて笑った。
二年ぶりの、共犯者のような笑い。
その瞬間、僕たちの間にあった高く冷たい壁が、完全に崩れ去った気がした。
「ねえ、健」
由美がハンカチを握りしめたまま、僕を見つめる。
「私、帰ってきてよかった。健に会えてよかった」
「……俺もだ。お前が来てくれてよかった」
素直な言葉が、すんなりと口から出た。
かつてなら照れくさくて言えなかった言葉。
けれど、一度失った痛みを知っている今なら、その重みと共に伝えることができる。
「ありがとう、健」
「ああ」
二人の間に流れる空気は、もう冷たくも重くもなかった。
そこにあるのは、雨上がりの空のような、澄み切った静けさだけだ。
遠くから聞こえる学園祭の喧騒が、今度は心地よいBGMのように聞こえてくる。
「喉、渇かないか?」
僕は手すりにもたれかかりながら言った。
「うん、すごく渇いた。緊張して口の中カラカラ」
「そこの自販機で何か奢るよ。……ソーダ味のアイスはないけどな」
「もう! その話は蒸し返さないでってば!」
由美が頬を膨らませて怒る。
その反応を見て、僕は胸の奥が温かくなるのを感じた。
棘は抜けた。
傷跡は残るかもしれないが、それはもう痛むことはないだろう。
それは、僕たちが乗り越えた過去の証として、記憶の中に刻まれるだけだ。
僕は小銭を取り出し、自販機に投入した。
缶コーヒーと、ミルクティー。
ガコン、という音が二回響く。
「はい、ミルクティー」
「あ、覚えててくれたんだ。ありがとう」
温かい缶を受け取った由美の指先が、僕の指に触れた。
その温もりが、僕の心の芯まで染み渡っていく。
僕たちは並んでベンチに座り、缶を開けた。
プシュッという炭酸の抜ける音ではない、穏やかな開缶音。
夕暮れが、世界をオレンジ色に染め上げていく。
それは二年前のあの日のような、悲しい色ではなかった。
明日への希望を含んだ、温かく、優しい茜色だった。
「ねえ、花子に連絡してもいいかな?」
由美が空を見上げながら言った。
「ああ。きっと、泣いて喜ぶぞ。あいつもずっと気にしてたからな」
「うん……怒られるだろうなぁ」
「覚悟しとけよ。あいつの説教は長いぞ」
僕たちは顔を見合わせて、声を上げて笑った。
止まっていた時計の針が、確かなリズムを刻みながら、未来へと進み始めていた。
プリズムを通過した光は、もう単色ではない。
複雑で、美しく、そして鮮やかな色彩を帯びて、僕たちの新しい時間を照らし出していた。




