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第4話 再会のキャンパス

大学キャンパスは、一年で最も騒がしく、そして熱気のある二日間を迎えていた。

学園祭。

普段は講義や研究に追われる学生たちが、ここぞとばかりにエネルギーを爆発させる祝祭の日。メインストリートには無数の模擬店が立ち並び、ソース焼きそばの焦げる匂いと、甘ったるいクレープの香りが混ざり合って漂っている。特設ステージからは、軽音サークルの演奏するベース音が腹に響くほどの音量で轟いていた。


「浅見先輩、そっちの配線どうですか? モニター映りそうですか?」


後輩の声に、僕は現実へと引き戻された。

僕は工学部の研究発表ブースの裏で、絡まったケーブルと格闘していた。ドライバーを片手に、無機質な機械の裏側を覗き込む。この冷たくて論理的な作業だけが、周囲の狂騒から僕を守る唯一の盾だった。


「ああ、今繋いだ。信号はきてるはずだ。確認してくれ」

「オッケーです! 映りました! さっすが先輩、手際いいっすねー!」


後輩の屈託のない称賛を、僕は曖昧な愛想笑いで受け流す。

手際がいいわけではない。ただ、余計なことを考えたくないだけだ。手を動かし、脳を回路図の構築に集中させていれば、過去の亡霊に苛まれることはない。

大学に入学してからの僕は、まさに「機械的」な学生生活を送っていた。

講義には欠かさず出席し、課題は期限内に提出する。サークルには所属せず、研究室に入り浸る。人付き合いは必要最低限。

「真面目」「優秀」という評価は得られたが、その実態は、人間関係という不確定要素を極限まで排除した、空虚なシステムの運用でしかなかった。


「先輩、もう昼休憩入ってくださいよ。朝からぶっ通しじゃないですか」

「いや、まだここが……」

「いいから行ってきてください! 顔色悪いっすよ。なんか美味いもんでも食って、エネルギー充填してきてください」


背中を押され、僕は渋々ブースを離れた。

外に出た瞬間、秋の冷たい風と共に、圧倒的な人の波が押し寄せてきた。

色とりどりのパーカーを着た学生たち、パンフレットを片手に歩く高校生、近所の家族連れ。誰もが笑顔で、誰もが「誰か」と一緒にいる。

その光景は、僕の網膜を焼き、胸の奥底に澱んでいる劣等感を刺激した。


(……くだらない)


心の中で毒づく。

楽しげな笑い声が、耳障りなノイズのように聞こえる。

僕は人混みを避けるように、キャンパスの端にある銀杏並木の方へと足を向けた。ここはメインストリートから離れており、比較的人通りが少ない。

黄色く色づいた銀杏の葉が、石畳の上に鮮やかな絨毯を作っていた。

足元でカサカサと乾いた音がする。その音を聞きながら、僕はベンチに腰を下ろし、コンビニで買った冷めたおにぎりを開封した。


あの夏の日から、もう二年が過ぎようとしていた。

高校を卒業し、地元を離れ、新しい生活を始めた。

連絡先も変え、SNSのアカウントも作り直した。過去を断ち切るための儀式はすべて完璧に行ったはずだった。

それなのに、ふとした瞬間に記憶がフラッシュバックする。

例えば、自販機でソーダ味のアイスを見かけた時。

例えば、夕暮れの空が茜色に染まる時。

そして、今のように、周囲が幸せそうな喧騒に包まれている時。


『罰ゲームみたいなもん』


呪いの言葉は、まだ解けていなかった。

僕はあの日以来、誰かを好きになることも、深く信頼することもできなくなっていた。

他人の笑顔の裏には、必ず計算や冷笑が隠されている。そう疑ってかかる癖がついてしまったのだ。

工学部の友人たちとは表面上うまくやっているが、決して心の内側には踏み込ませない。

「浅見は壁があるよな」

そう言われても、否定もしなかった。壁こそが、僕を守る要塞なのだから。


おにぎりを口に運び、味気ない咀嚼を繰り返す。

早く食べ終えて、あの薄暗い研究室に戻ろう。あそこには、裏切らない数値と、嘘をつかない機械たちが待っている。


そう思って立ち上がろうとした、その時だった。


風が強く吹き抜け、銀杏の葉が舞い上がった。

黄金色の吹雪の向こう側、数メートル先に、一人の女性が立っていた。

ベージュのトレンチコートに、落ち着いた色合いのマフラー。セミロングの髪が風になびいている。

彼女は誰かを探すように、左右を見渡していた。


僕は、時が止まるとはこのことだと知った。

心臓が、肋骨を内側から叩き割るような勢いで跳ね上がる。

全身の血液が逆流し、指先が急速に冷たくなっていく。

脳が「逃げろ」と警報を鳴らしているのに、足が地面に縫い付けられたように動かない。


見間違いだと思いたかった。

似ているだけの他人だと、論理的に結論づけたかった。

だが、僕の記憶回路は、その人物のデータを0.1秒で照合し、残酷なまでに正確な答えを弾き出していた。


立ち姿の重心の置き方。

髪を耳にかける仕草。

そして、その横顔のライン。


瀬戸由美。

僕の青春を彩り、そして粉々に粉砕した、かつての幼馴染。


彼女は変わっていた。

僕の記憶にある制服姿の少女ではない。

化粧っ気のなかった顔には、ナチュラルだが洗練されたメイクが施されている。

幼かった雰囲気は消え、どこか芯の強さを感じさせる大人の女性の空気を纏っていた。

不登校になり、海外へ行ったと聞いていた。

あの弱々しく泣き崩れていた姿しか想像していなかった僕にとって、今の彼女の凛とした佇まいは衝撃的だった。


なぜここにいる?

ここは僕の大学だ。彼女のいる場所ではないはずだ。

偶然か? いや、そんな確率、天文学的数字だ。

誰かに聞いたのか? 松岡か?

思考がパニックを起こし、オーバーヒートしそうになる。


その時、彼女の視線が、僕の方へと向いた。

目が合った。

雑踏のノイズが、一瞬で消え去った。世界には僕と彼女、二人しかいないような錯覚に陥る。

彼女の目が、驚きに見開かれる。

そして次の瞬間、その瞳に確かな意思の光が宿った。


彼女は逃げなかった。

目を逸らしもしなかった。

かつての彼女なら、気まずそうに俯いていただろう。あるいは、嘘の笑顔で誤魔化そうとしたかもしれない。

だが、今の彼女は、真っ直ぐに僕を見据えていた。


一歩。

彼女が僕の方へ踏み出した。


その動作が引き金となり、僕の身体の拘束が解けた。

逃げなければ。

会ってはいけない。

言葉を交わせば、僕が必死に保ってきた平衡感覚が崩れてしまう。

僕は弾かれたように背を向け、早足で歩き出した。


「健!」


背後から、懐かしくて、聞きたくなかった名前を呼ぶ声が響く。

鼓膜が震え、その振動が胸の古傷を直接撫でるような感覚。

僕は足を止めず、さらに速度を上げた。

人混みの中へ紛れ込もうとする。

模擬店のテントの裏、ステージの影、どこでもいい。彼女の視界から消え去りたい。


「待って! お願い、待って!」


足音が追いかけてくる。

ヒールの音ではない。スニーカーの、しっかりとした足音だ。

彼女は諦めない。

その事実に、僕は焦燥感と共に、奇妙な恐怖を覚えた。

かつての彼女は、僕が拒絶すればすぐに引き下がった。泣いて、縋って、それでもダメなら諦めた。

だが、今は違う。


人混みをかき分け、理学部棟の方へと続く小道に入ったところで、僕は腕を掴まれた。

強い力ではなかったが、振り払うのを躊躇わせるような、熱を持った手だった。


「……捕まえた」


息を切らした声が、すぐ耳元でした。

僕は観念して、ゆっくりと振り返る。

そこには、肩で息をしながらも、決して揺らぐことのない瞳で僕を見上げる由美がいた。

走ったせいで頬が紅潮し、乱れた髪が額に張り付いている。

それでも、彼女は美しかった。

認めたくないが、二年という月日は、彼女を驚くほど魅力的に変えていた。


「……離せ」


喉から絞り出した声は、自分でも驚くほど低く、震えていた。

僕は反射的に彼女の手を振り払おうとした。

だが、由美は手を離さなかった。むしろ、祈るように強く握りしめてきた。


「嫌だ。離したら、またいなくなっちゃうでしょ」

「俺はお前と話すことなんてない」

「私はあるの。ずっと、話したかった」

「迷惑だ。今さら何しに来たんだ」


できるだけ冷酷な言葉を選んで投げつける。

言葉のナイフで切りつければ、彼女は傷つき、手を離すだろう。そう計算しての行動だった。

しかし、由美は痛みに耐えるように一度だけ眉をひそめたが、決して退かなかった。


「迷惑でもいい。嫌われてるのも分かってる。それでも、どうしても健に会いたかったの」


彼女の声には、かつてのような「甘え」や「見栄」は一切なかった。

ただ純粋な、そして強固な意志だけがあった。


「私が日本にいなかった間、ボランティア先で色んなことがあったの。言葉も通じない、誰も私のことなんて知らない場所で、毎日必死に生きてた。……そこでね、何度も健のことを思い出したよ」


彼女は一息つき、僕の目を真っ直ぐに見つめた。


「辛い時も、寂しい時も、健に言われた言葉がずっと胸に刺さってた。『罰ゲーム』だって言った自分を、何千回も呪った。……でもね、だからこそ、私は変わらなきゃいけなかった。健に顔向けできないような自分じゃ、一生後悔すると思ったから」


彼女の言葉の一つ一つが、重みを持って僕の心に響く。

それは、上辺だけの謝罪ではない。

彼女が過ごした「空白の季節」の重さが、そこには込められていた。


「……だから、何だっていうんだ。お前が変わったからって、俺が受け入れるとでも思ってるのか?」

「ううん、思ってない。許してもらおうなんて、そんな虫のいいこと考えてない」


由美は首を横に振った。


「ただ、今の私の言葉で、ちゃんと伝えたかったの。あの日の嘘じゃなくて、本当の言葉を」


周囲の喧騒が、遠ざかっていくようだった。

学園祭の賑やかな音楽も、笑い声も、今の僕たちの間には届かない。

そこにあるのは、二年前に切れたはずの糸を、もう一度手繰り寄せようとする彼女の必死さと、それを恐れる僕の臆病さだけだった。


僕は彼女の手を見つめた。

僕の腕を掴むその手は、昔よりも少し日焼けしていて、節くれ立っているように見えた。

ボランティア活動での労働の証なのだろうか。

その手が、彼女がただ逃げていただけではなく、泥臭く生きてきたことを雄弁に物語っていた。


僕の中で、強固だったはずの壁に、亀裂が入る音がした。

論理や理屈では説明できない感情が、堰を切ったように溢れ出しそうになる。

彼女を知りたいと思ってしまった。

この二年間、彼女が何を見て、何を考え、どうやってここまで辿り着いたのか。

そして、なぜ今、僕の前に現れたのか。


「……分かった」


僕は小さく息を吐き出し、抵抗をやめた。全身の力が抜けていくのが分かる。


「場所を変えよう。ここは目立つ」


僕の言葉に、由美の顔がパッと輝いた。

それは、かつて僕が好きだった笑顔の面影を残しながらも、もっと深く、慈愛に満ちた表情だった。


「うん……!」


彼女の手が、ようやく僕の腕から離れた。

けれど、その温もりはまだ皮膚に残っていた。


僕は無言で歩き出した。

向かう先は、工学部の校舎の裏手。

普段は誰も立ち寄らない、非常階段の下にあるベンチだ。

そこなら、誰にも邪魔されずに話ができる。

いや、対峙できる。


隣を歩く由美の気配を感じながら、僕は自分の心臓の音がまだ静まらないのを感じていた。

これは恐怖なのか、それとも期待なのか。

今の僕にはまだ判別できなかった。

ただ一つ確かなことは、止まっていた時計の針が、錆びついた音を立てて、再び動き出したということだ。


秋の午後の日差しが、僕たちの影を長く伸ばしていた。

二つの影は、平行線を描きながら、それでも少しずつ近づいているようにも見えた。

僕たちは、まだ何も解決していない。

過去の傷も、ついた嘘も、消えたわけではない。

けれど、向き合うための土俵には、ようやく上がることができたのかもしれない。


「ねえ、健」


歩きながら、由美がぽつりと呟いた。


「今の健、ちょっと大人っぽくなったね。眼鏡、変えた?」

「……ああ、度数が合わなくなったからな」

「そっか。似合ってるよ」


その何気ない会話が、胸を締め付けるほど懐かしく、そして痛かった。

僕たちは、かつてこうやって並んで歩くのが当たり前だった。

失って初めて気づく、日常の尊さ。

それを取り戻すことができるのか、それとも、これは最後の別れのための儀式なのか。


答えはまだ、プリズムの向こう側にあって見えない。

僕たちは静かに、校舎の裏手へと消えていった。

学園祭の喧騒を、遠い世界に置き去りにして。

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