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第3話 空白の季節

夏が過ぎ去り、季節が秋へと移ろう頃、教室の空気は目に見えて変化していた。

窓から吹き込む風には乾いた冷たさが混じり、校庭の桜の木々は鮮やかな緑色を失い、赤茶けた枯れ葉を地面に落とし始めていた。

僕、浅見健の隣の席。そこはかつて、騒がしいほどの活気と、甘やかな制汗スプレーの香りが漂っていた場所だった。

しかし今、そこは静寂というよりも、底知れぬ空洞のような空白に支配されている。


「……休みか」


ホームルームが始まる直前、担任が名簿を見ながら短く呟いた。

瀬戸由美が学校に来なくなってから、今日でちょうど一週間が経つ。

最初は体調不良という連絡だった。だが、二日、三日と欠席が続くにつれ、クラスメイトたちの間には奇妙な緊張感が漂い始めた。

原因を知っているのは、僕と、松岡花子だけだ。

そして、その原因を作ったのが僕であるという事実も、花子は知っている。


僕は担任の言葉を聞き流し、手元の参考書に視線を落とした。

数式の羅列。論理的な記号の連なり。

それらを見ている時だけが、心の平穏を保てる唯一の時間だった。感情という不確定要素を排除し、答えが明確に定義された世界。そこには「裏切り」も「嘘」も存在しない。

ただ、入力された値に対して正しい出力が返ってくるだけだ。


「健」


昼休み、購買へ向かおうと席を立った僕の背中に、鋭い声が投げかけられた。

振り返らなくても分かる。松岡花子だ。

この一週間、彼女は何度も僕に接触を試みてきたが、僕はそれをのらりくらりと躱し続けてきた。だが、今日は逃がさないという強い意志を感じる。


「ちょっと、面貸してよ」


花子の目は真剣だった。いつものおちゃらけた雰囲気は微塵もない。

教室の空気が一瞬で凍りつくのを感じながら、僕は無言で頷き、彼女の後をついて廊下に出た。


***


連れて行かれたのは、人気の少ない特別教室棟の階段踊り場だった。

窓の外には、鉛色の雲が垂れ込めている。まるで今の僕たちの心情を映し出しているかのようだった。


「由美のこと、知ってるでしょ」


花子は単刀直入に切り出した。

腕を組み、僕を睨みつけるように見上げている。


「……一週間休んでることは知ってる。朝のホームルームで先生が言ってるからな」

「そういうこと聞いてるんじゃないの! 理由のことよ!」


花子の声が反響し、階段の上下に響き渡る。

僕はため息をつき、階段の手すりに寄りかかった。


「体調不良だろ? 俺には関係ない」

「関係ないわけないじゃない! あんたがあんな冷たい態度とるから、由美、精神的に参っちゃったんだよ!」


花子が激昂する。その目には涙が滲んでいた。

彼女にとっても、親友が不登校になるというのは耐え難い事態なのだろう。しかも、そのきっかけを作ったのが自分に投げかけた質問だったと自覚しているはずだ。

だが、その罪悪感を僕への怒りに転嫁しているようにも見えた。


「自業自得だ」


僕は冷たく言い放った。

心の奥底で何かがきしむ音がしたが、それを無視して言葉を続ける。


「あいつが自分の口で言ったんだ。『罰ゲーム』だってな。俺との関係を軽いノリで否定したのは由美だ。俺はただ、その言葉通りにしてやっただけだ」

「だからって……! 謝ったじゃない! 由美、ずっと泣いてたんだよ? あんたに拒絶された翌日も、その次の日も、学校に来てからもずっと……!」

「泣けば許されるのか?」


僕の言葉に、花子が息を呑む。


「感情的になって泣いて謝れば、ついた嘘がなかったことになるのか? 言葉っていうのは一度口に出したら取り消せないんだよ。それは物理法則と同じだ。不可逆なんだ」


僕は理屈で武装し、自分を守る壁をさらに高く積み上げた。

そうしなければ、崩れ落ちてしまいそうだったからだ。

由美が傷ついていることは知っていた。教室で僕が無視を決め込むたびに、彼女の顔色が蒼白になっていくのも、痩せていくのも、横目で見ていた。

だが、それを認めてしまえば、僕が抱えている「裏切られた」という被害者意識が揺らいでしまう。

自分が被害者で居続けるためには、彼女を加害者の位置に固定し続けなければならない。

それは歪んだ自己防衛だったが、今の僕にはそれしか術がなかった。


「あんた……本当に変わっちゃったね」


花子が軽蔑の眼差しを向けてくる。


「健はもっと優しいやつだと思ってた。不器用だけど、由美のこと一番に考えてくれるやつだって。でも、違ったんだね」

「ああ、違ったんだろ。俺は冷酷で、融通の利かない堅物だからな。由美もそう言ってたし、お前もそう思うなら、それが正解なんだろうよ」


自嘲気味に笑うと、花子は悔しそうに唇を噛み締め、何かを言いかけたが、そのまま踵を返した。

階段を駆け下りていく足音が遠ざかる。

残された僕は、窓ガラスに映る自分の顔を見つめた。

そこには、自分でもぞっとするほど無表情な男が映っていた。


「……これでいい」


自分に言い聞かせる。

これで完全に終わった。

花子とも決裂したことで、由美との接点は完全に断たれた。

もう、彼女の情報が入ってくることもないだろう。

僕は教室に戻り、午後の授業の準備を始めた。

胸に空いた穴を、英単語や歴史の年号で埋めるように。


***


季節はさらに進み、冬が訪れた。

受験生にとって、冬は孤独な季節だ。

センター試験(共通テスト)が近づき、クラス全体がピリピリとした空気に包まれる。

由美の席は、空席のままだった。

彼女の机の上には、いつの間にかプリントの山が積み上げられていたが、ある日を境にそれも撤去され、完全に主のいない場所となった。


噂は流れていた。

「精神的に不安定になって入院したらしい」

「いや、転校するらしいぞ」

無責任な憶測が飛び交う中、僕は耳を塞ぎ、自分の世界に閉じこもっていた。

スマートフォンの連絡先リストからはとっくに彼女の名前を消していたが、ふとした瞬間に指が画面の上を彷徨うことがあった。

無意識に、あの明るい声を探している自分に気づくたび、僕は激しい自己嫌悪に襲われた。


あれほど拒絶したのに。

あれほど傷つけられたのに。

それでも、十数年という歳月が培った習慣は、そう簡単に消え去ってはくれなかった。

夕暮れのチャイムが鳴ると、「帰ろう」と声をかけられるのを待ってしまう。

面白い問題を見つけると、「これ、由美ならどう解くかな」と考えてしまう。

そのたびに、現実という冷たい壁にぶつかり、彼女がもういないことを思い知らされるのだ。


ある雪の日。

放課後の進路指導室から出てきた僕は、廊下で担任と花子が話しているのを偶然耳にしてしまった。

聞くつもりはなかった。だが、「退学」という単語が耳に入った瞬間、足が縫い付けられたように動かなくなった。


「……そうですか。やっぱり、辞めちゃうんですね」


花子の沈んだ声が聞こえる。


「ああ。ご両親とも話し合ったんだが、今の環境を変えたいという本人の希望が強くてな。海外のボランティア団体のプログラムに参加するそうだ」

「海外……ですか」

「日本を離れて、自分を見つめ直したいそうだ。思い切った決断だが、今の彼女にはそれが必要なのかもしれないな」


海外。

ボランティア。

由美が?

僕の知っている由美は、虫一匹殺せないような臆病なところがあり、海外旅行なんて「言葉が通じないから怖い」と敬遠していたはずだ。

それが、日本を離れる?

しかも、高校卒業を待たずに?


衝撃が大きすぎて、思考が追いつかない。

彼女をそこまで追い詰めたのは、紛れもなく僕だ。

「絶交だ」という一言が、彼女から居場所を奪い、逃げるように海を越えさせることになったのだ。


「……健」


いつの間にか、花子が僕の存在に気づいていた。

担任が去った後の廊下で、僕たちは対峙する。

数ヶ月ぶりに目を合わせた花子は、以前のような怒りの表情ではなく、どこか諦めたような、静かな瞳をしていた。


「聞いたんでしょ」


僕は無言で頷くことしかできなかった。


「来週、発つって。手続きはもう終わってるから、学校にはもう来ないよ」

「……そうか」

「最後に一言くらい、なんか言いたいことないの? 今ならまだ間に合うよ」


花子の問いかけは、挑発ではなく、純粋な提案だった。

最後の情け、とも言えるかもしれない。

僕は喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。

「行くな」と言えば、彼女は留まるだろうか?

いや、今さらそんなことを言う資格は僕にはない。

それに、もし会ってしまえば、僕が必死に保ってきた「正義」が崩壊してしまう。

彼女の顔を見れば、許してしまうかもしれない。

許してしまえば、あの日の絶望も、この数ヶ月の苦しみも、すべてが無駄になってしまう。


「……ないよ。あいつが決めたことだろ」


絞り出した声は、ひどく掠れていた。


「そっか。……やっぱり、あんたは頑固だね」


花子は寂しそうに微笑んだ。


「でも、伝えておくね。『元気でね』って健が言ってたことにしておく」

「余計なことするな」

「いいじゃん、最後くらい。綺麗な思い出にしてあげさせてよ。それが私の、せめてもの罪滅ぼしだから」


花子はそう言い残して去っていった。

僕はその場に立ち尽くし、窓の外に降りしきる雪を見つめた。

白い雪が、世界を覆い隠していく。

僕たちの思い出も、あの夏の日の痛みも、すべてを白く塗りつぶしてくれればいいのに。

そう願わずにはいられなかった。


***


三月。卒業式。

体育館は、春の冷たい空気と、式典特有の厳粛な雰囲気に包まれていた。

紅白の幕。演台に飾られた花。在校生のざわめき。

すべてが予定調和の中で進んでいく。

名前を呼ばれ、卒業証書を受け取る。

その一連の流れ作業の中で、ひとつだけ欠けているピースがあった。


「瀬戸由美」


担任がその名前を読み上げることはなかった。

名簿からも、彼女の名前は削除されていたからだ。

クラスメイトたちの列の中に、彼女の姿はない。

当然だ。彼女は今頃、地球の裏側で、僕の知らない空を見上げているはずなのだから。


式の最中、僕は何度も空席を探してしまった。

隣に座っているはずだった幼馴染。

一緒に卒業証書を持ち、校門の前で写真を撮るはずだった相手。

「ボタンちょうだいよ」なんて、ふざけて言ってくるはずだった笑顔。

そのすべてが、幻となって消えていた。


「卒業生、起立」


号令に合わせて立ち上がる。

パイプ椅子の冷たい感触が、指先に残る。

蛍の光が流れる中、僕は初めて、強烈な「喪失感」を自覚した。


怒りはもう消えていた。

意地も、プライドも、どうでもよくなっていた。

ただ、寂しかった。

どうしようもなく、寂しかった。


正義感の裏に隠して、見ないふりをしてきた感情。

「裏切られたから切り捨てた」という論理で蓋をしてきた、心の叫び。

それが今、ダムが決壊したように溢れ出してくる。


(俺は、何を守りたかったんだ?)


自分のプライドか?

傷つかないための安全圏か?

その代償として失ったものの大きさに、僕は足が震えるのを止められなかった。

隣に彼女がいないという事実が、これからの人生、ずっと続いていくのだという絶望感。


式が終わり、教室に戻って最後のホームルームが行われた。

黒板には、色とりどりのチョークで寄せ書きが書かれている。

みんなが笑い合い、連絡先を交換し、別れを惜しんでいる。

その喧騒の中で、僕だけが色を失ったモノクロームの世界にいた。

まるで、宇宙空間に放り出されたような孤独。


誰かが僕の肩を叩いた。

振り返ると、男子生徒の一人だった。


「おーい、健。打ち上げ行くよな?」

「……いや、俺はパスだ。ちょっと用事がある」


嘘をついて、僕は逃げるように教室を出た。

この明るい場所にいる資格はないと思った。

由美を追い出し、一人で平然と卒業していく自分が許せなかった。


校門を出ると、春の風が強く吹いていた。

桜の蕾はまだ固く、開花には程遠い。

僕は空を見上げた。

この空は、遠い異国の空と繋がっているのだろうか。

彼女は今、どんな表情で、どんな景色を見ているのだろうか。


「……ごめん」


誰もいない通学路で、僕は初めて言葉にした。

誰に対する謝罪なのか、自分でも分からなかった。

由美に対してか、自分自身に対してか、それとも壊れてしまった「僕たち」という関係に対してか。


風が僕の声をさらっていく。

返事は、どこからも聞こえない。

スマートフォンを取り出しても、そこには何の通知も来ていない。

ブロックしたままの彼女のアカウント。

解除することはできなかった。

今さら解除して、何を送ればいい?

「卒業おめでとう」?

「元気か」?

どんな言葉も、今の僕には空々しく思えた。


僕はスマートフォンをポケットにしまい、歩き出した。

行く当てはなかったが、立ち止まっていることだけはできなかった。

胸の中にある巨大な空洞。

それを抱えたまま、僕は大人への一歩を踏み出すことになる。

空白の季節は終わらない。

彼女がいないという現実が続く限り、僕の中の時計は、あの夕暮れの公園で止まったままなのだから。


遠くで、飛行機雲が一筋、空を切り裂いていくのが見えた。

あれに乗れば、彼女の元へ行けるのだろうか。

そんな非現実的な思考を振り払い、僕は工学部のキャンパスがある街へと向かう電車に乗るために、駅へと急いだ。

逃げるように。

あるいは、何かを探すように。


車窓を流れる景色は、涙で滲んでよく見えなかった。

こうして、僕たちの高校生活は、永遠の断絶と共に幕を閉じた。

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