第2話 沈黙の通話
部屋の空気が、重く淀んでいた。
学習机の上のデジタル時計が、無機質な緑色の光で午後九時を刻んでいる。
僕はベッドに腰掛け、スマートフォンの画面をぼんやりと見つめていた。画面のバックライトが暗い部屋の中で唯一の光源となり、僕の顔を青白く照らし出している。
あれから数時間が経過していたが、公園での出来事は色褪せるどころか、時間の経過と共に鮮明さを増し、毒のように全身に回っていた。
『罰ゲームみたいなもん』
『軽いノリ』
由美の声が、脳内でリピート再生される。そのたびに、胸の奥底で何かが冷たく砕け散る音がした。
怒りではない。悲しみでもない。
ただ、ひたすらに虚しいのだ。
これまで僕が彼女に向けていた信頼、友情、そして微かな恋心。それら全てが、彼女にとっては「軽いノリ」で処理される程度のものだったという事実。
自分が大切にしていた宝石が、実はただの着色されたガラス玉だったと知らされたような、底知れぬ喪失感。
ブブブブ、ブブブブ。
不意にスマートフォンが震えた。
静寂を切り裂くバイブレーションの音に、心臓が跳ねる。
画面には『瀬戸由美』の文字。
着信画面に表示された彼女のアイコンは、去年の文化祭で二人で撮ったピースサインの写真だ。あの時の笑顔さえ、今では仮面のように見えてしまう。
僕はしばらく画面を見つめたまま、指を動かすことができなかった。
出たくない。声を聞きたくない。
けれど、このまま無視し続ければ、明日の朝、学校で顔を合わせた時にどう振る舞えばいいのか分からなくなる。
逃げるのは癪だ。
僕は深呼吸を一つして、通話ボタンをスワイプした。
「……もしもし」
努めて冷静に、感情を殺した声を出す。
「あ、健? やっと出た! 心配したんだよ、急にいなくなるから」
受話器の向こうから聞こえてきたのは、いつもと変わらない、明るく弾んだ由美の声だった。
その無邪気な響きが、僕の神経を逆撫でする。
彼女は気づいていない。僕が公園の裏手にいて、あの会話を聞いていたことを。
だからこそ、この「いつも通り」の演技ができるのだ。あるいは、彼女にとっては本当に「いつも通り」の日常の延長でしかないのかもしれない。
「花子とね、『健、お腹痛くなったのかな?』って話してたんだよ。大丈夫? 何か変なもの食べた?」
心配するような口調。
それすらも、今の僕には滑稽な芝居にしか聞こえなかった。
「……ああ、大丈夫だ」
「よかったぁ。じゃあさ、明日の朝なんだけど、数学のノート貸してくれるって話、忘れてないよね? 私、早めに学校行くからさ、教室で――」
「由美」
僕は彼女の言葉を遮った。
自分の声が、驚くほど冷たく響くのが分かった。
「え? 何?」
「今日の夕方、公園での話。全部聞いてたよ」
一瞬、電話の向こうの空気が凍りついたのが分かった。
息を呑む音。衣擦れの音さえ聞こえなくなるほどの沈黙。
その反応が、何よりの答えだった。
「え……き、聞いてたって……どこから?」
「『罰ゲームみたいなもん』って言ったところから、全部だ」
淡々と事実だけを告げる。
感情を交えれば、声が震えてしまいそうだったからだ。僕は工学部の学生のように、ただ観測された事実だけを並べることに集中した。
「あ、あれは……ちが、違うの! 健、聞いて! あれは花子がしつこく聞いてくるから、その、つい勢いで……!」
由美の声が裏返り、早口になる。
焦燥。動揺。
その慌てふためく様子が、さらに僕の心を冷めさせていく。
「勢いで言える程度のものだったんだな、俺たちの関係は」
「違う! そうじゃないの! ほんとに、ただの照れ隠しで……本心じゃないの!」
「本心じゃない?」
僕は鼻で笑った。自嘲的な、乾いた笑いだった。
「じゃあ、どっちが本心なんだ? 俺と一緒にいる時の笑顔か? それとも、裏で友人に語る『罰ゲーム』っていう評価か? 人間、とっさの時に出る言葉こそが本音だろ」
「健、お願い、信じて……! 私、そんなつもりじゃ……」
「もういいよ」
これ以上、言い訳を聞くのは耐えられなかった。
彼女が言葉を重ねれば重ねるほど、僕の中の「瀬戸由美」という存在が崩壊していく。
幼い頃から積み上げてきた思い出が、黒く塗りつぶされていく。
「健、待って、電話切らないで……!」
「絶交だ」
「え……?」
「もう関わらないでくれ。連絡もしてくるな。俺も、もう二度とお前とは話さない」
子供じみた言葉かもしれない。
「絶交」なんて、小学生が使うような言葉だ。
けれど、今の僕にはそれ以外の語彙が見つからなかった。
論理的な思考回路が売りの僕が、唯一導き出した結論。
エラーを起こしたプログラムを排除するように、バグの原因となった彼女を僕の世界から切り離す。それが、自己防衛のための唯一の手段だった。
「いやだ! 健、待って、お願いだから――」
彼女の悲痛な叫びを遮るように、僕は通話終了ボタンを押した。
プツン、という電子音と共に、世界は再び静寂に包まれた。
だが、これで終わりではない。
僕は震える指でスマートフォンの設定画面を開いた。
着信拒否設定。
MINEのブロックリスト。
SNSのフォロー解除。
一つ一つの操作をするたびに、指先が冷たくなっていくのを感じた。
画面上に表示される「ブロックしますか? この操作は相手には通知されません」という無機質な確認メッセージ。
僕は迷わず「はい」をタップし続けた。
数分後、僕のスマートフォンの中から、瀬戸由美という存在へのアクセス権は完全に消滅した。
デジタルな世界での絶縁。
それは現代において、物理的な距離以上に残酷で、決定的な別れを意味する。
僕はスマートフォンを机の上に放り投げ、ベッドに倒れ込んだ。
天井のシミを見つめながら、大きく息を吐き出す。
胸のつかえが取れることはなかった。むしろ、心の中にぽっかりと空いた穴から、冷たい風が吹き込んでくるようだった。
けれど、後悔はなかった。
裏切られる痛みを知るくらいなら、孤独を選ぶ方がずっとマシだ。
僕はそう自分に言い聞かせ、重い瞼を閉じた。
***
翌朝。
教室に入ると、重苦しい空気が僕を出迎えたような気がした。もちろん、それは僕の主観に過ぎない。クラスメイトたちはいつも通り騒ぎ、笑い、日常を謳歌している。
僕は誰とも目を合わせず、自分の席へと向かった。
鞄を置き、教科書を取り出す。
その一連の動作を機械的にこなしていると、教室の入り口が騒がしくなった。
背筋が凍るような感覚。
振り返らなくても分かる。彼女が来たのだ。
「……健!」
その声に、クラスのざわめきが一瞬だけ止まったように感じた。
僕は無視を決め込み、英単語帳に視線を落とす。
だが、足音はまっすぐに僕の方へ向かってくる。
「健、おはよう……」
机の横に立ち、おずおずと声をかけてきたのは、やはり由美だった。
視界の端に映る彼女の姿は、ひどいものだった。
いつも綺麗に整えられている髪は少し乱れ、目の下には化粧でも隠しきれないほどの濃い隈ができている。目は赤く充血し、昨晩泣き明かしたことは誰の目にも明らかだった。
僕は単語帳のページをめくる手を止めず、彼女を見ようともしなかった。
徹底的な無視。
それが、僕が昨晩決めたルールだ。
「ねえ、健。昨日のことなんだけど……」
由美の声が震えている。
周囲の生徒たちが、何事かとこちらをちらちらと見ている気配を感じる。
「痴話喧嘩か?」そんな囁き声も聞こえてくる。
普段なら恥ずかしくて耐えられない状況だが、今の僕の心は氷のように冷え切っていた。
「……健、聞いてる? 私、どうしても謝りたくて……」
由美の手が、僕の制服の袖を掴もうと伸びてきた。
その指先が触れようとした瞬間。
僕は反射的に、その手を払いのけていた。
パシッ。
乾いた音が、静まり返った教室に響く。
そこまで強く叩いたつもりはなかったが、拒絶の意思を示すには十分すぎる音量だった。
由美が小さく悲鳴を上げ、手を引っ込める。
僕はそこで初めて顔を上げ、彼女を直視した。
そこにいたのは、僕が知っている明るい幼馴染ではなかった。
怯え、傷つき、どうしていいか分からずに立ち尽くす、哀れな少女。
しかし、その姿を見ても、僕の心には同情のかけらも湧いてこなかった。
あるのは、冷徹なまでの他者としての認識だけ。
「触るな」
短く、低く告げる。
「健……?」
由美が信じられないものを見るような目で僕を見る。
彼女はまだ分かっていないのだ。
昨日の電話が、ただの一時的な感情の爆発ではなく、僕からの最終通告であったことを。
「昨日の電話で言ったはずだ。俺たちはもう絶交だ。話しかけるな」
「で、でも……あれは誤解で……私、健のこと傷つけるつもりなんて……」
「傷つけるつもりがないなら、あんな言葉は出ない」
僕は彼女の言葉を冷たく遮断した。
論理の矛盾を突く。それが一番、相手を黙らせる方法だと知っていたからだ。
「『罰ゲーム』なんだろ? 俺と付き合うことが。俺と関わることが。だったら、その罰ゲームから解放してやるよ。お前はもう自由だ。俺の顔色を伺う必要も、友人たちに見栄を張る必要もない」
「そんな言い方……!」
由美の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
ボロボロと、止まることなく頬を伝う涙。
普段の僕なら、彼女が泣いている姿を見れば、何をおいても駆け寄り、慰めただろう。
だが、今はその涙さえもが、自分を正当化するための手段のように見えてしまう。
「私はこんなに反省しているのに、許してくれない健が悪い」
そんな無言の主張が含まれているように感じられたのだ。
「泣けば許されると思ってるなら、大間違いだ」
僕はカバンを掴むと、席を立った。
朝のホームルームまではまだ時間がある。ここにこれ以上留まるのは苦痛だった。
「健! 行かないで!」
由美が背後から縋り付くように叫ぶ。
その声には、取り返しのつかない事態を引き起こしてしまったことへの恐怖が滲んでいた。
自分が安易に放った言葉が、世界を壊してしまったことへのパニック。
しかし、壊れたものはもう元には戻らない。
覆水盆に返らず。エントロピーは増大するのみ。
時間は逆行しない。
僕は足を止めず、教室を出た。
廊下ですれ違った松岡花子が、驚いた顔で僕を見ていた。
「え、ちょ、健? 由美、泣いてるの?」
彼女が慌てて教室に入っていく気配がしたが、それすらも今の僕には関係のないことだった。
花子も同罪だ。
彼女があんな質問をしなければ。彼女が他人の心に土足で踏み込まなければ。
いや、違う。
結局のところ、由美の中にそういう「軽さ」があったからこそ、あんな言葉が出たのだ。
誰のせいでもない。
僕が勝手に期待し、勝手に裏切られたと感じているだけなのかもしれない。
だとしても、もう無理だった。
一度ヒビの入ったプリズムは、もう二度と綺麗な虹を描くことはできない。
光を通せば、歪んだ像しか結ばないのだ。
僕は校舎の裏手にある、あまり人が来ない渡り廊下まで歩き、そこで壁にもたれかかった。
肺の中の空気を全て入れ替えるように、深く息を吐く。
手足が微かに震えていた。
怒りによるものか、それとも大切なものを自ら切り捨てたことによる喪失感からくるものか。
スマートフォンの画面を見る。
通知は一件もない。
当然だ。全てブロックしたのだから。
静寂。
それが今の僕が手に入れた、唯一の平穏だった。
教室からは遠く、始業のチャイムが聞こえてくる。
僕はまだ、教室に戻る気にはなれなかった。
「……これでいい」
自分に言い聞かせるように呟く。
これが正しい選択だ。
傷つくことから逃げるのは、生物として当然の生存本能だ。
僕は心を閉ざすためのシャッターを下ろした。
二度と、誰にもこじ開けられないように、重く、頑丈なシャッターを。
その日、僕は体調不良を理由に早退した。
家に帰る道すがら、見上げた空はどこまでも青く澄み渡っていたが、僕の目にはただ眩しすぎて、涙が滲むだけだった。
一方、教室に残された由美は、花子に肩を支えられながら、ただ泣き崩れていたという。
机に突っ伏し、嗚咽を漏らす彼女の姿を見て、クラスメイトたちは誰も声をかけられなかった。
「軽いノリ」でついた嘘が、どれほどの重さを持って自分に返ってくるのか。
その代償の大きさに気づいた時には、全てが手遅れだったのだ。
僕たちの時間は、ここで完全に停止した。
それぞれの痛みを抱えたまま、別々の軌道を描き始めるために。




