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第1話 夕暮れの境界線

夏の盛りを告げる蝉時雨が、鼓膜を震わせるほどの音量で降り注いでいた。

アスファルトから立ち昇る陽炎が、視界の端をゆらりと歪ませる。肌にまとわりつくような湿気と熱気は、不快指数を確実に押し上げていたが、それでも僕、浅見健あさみ たけるの足取りは決して重くはなかった。


隣を歩く瀬戸由美せと ゆみの存在が、この鬱陶しい暑さを日常の愛おしい一コマへと変換していたからかもしれない。


「ねえ、健。昨日の数学の課題、あれ絶対難易度間違ってるよね? 私、途中から呪文に見えてきたんだけど」


隣で由美が、いつものように少しオーバーな身振り手振りで愚痴をこぼす。

制服の袖を少し捲り上げ、額に滲んだ汗を手の甲で拭う仕草。さらさらとした黒髪が、熱を含んだ風になびいて頬にかかる。幼い頃から見慣れたその横顔だが、高校三年生になってからの彼女は、どこか大人びた雰囲気を纏うようになっていた。


「あれは公式の応用さえ分かってれば解けるよ。後でノート貸してやるから」

「ほんと!? さっすが健! 頼りになるぅー!」


由美がパンと両手を合わせ、拝むようなポーズをとる。その屈託のない笑顔を見ると、僕は胸の奥が小さくくすぐられるような感覚を覚えた。

幼馴染。腐れ縁。

周囲からはそう呼ばれ、僕自身もそう認識してきた。けれど、最近の僕は、無自覚ながらも彼女に対して強い独占欲を抱き始めていることに、薄々気づき始めていた。

誰にでも見せるその笑顔を、一番近くで見守れる権利は自分にあるのだという、根拠のない特権意識。工学部を目指す理系人間のくせに、この感情だけはどうしても論理的に因数分解できない。


「あ、そうだ。花子が公園で待ってるって。アイス奢ってくれるらしいよ」

「松岡が? 珍しいな。また何か企んでるんじゃないか」

「もう、素直じゃないなぁ。いいじゃん、タダなんだから行こうよ」


由美に腕を引かれ、僕は苦笑しながら歩調を合わせた。

僕たちの通う高校からほど近い、高台にある古びた公園。そこは、小学生の頃から僕たちの溜まり場のような場所だった。

この時の僕はまだ知らなかった。

その場所が、僕たちの関係を決定的に断絶させる「境界線」になることを。


***


公園に着くと、西日はすでに空を茜色に染め始めていた。

錆びついたジャングルジムや、ペンキの剥げたブランコが、夕陽を浴びて長い影を落としている。

ベンチには、すでに松岡花子が陣取っていた。彼女は僕たちの姿を認めると、大げさに手を振った。


「おーい! 遅いよ二人ともー! アイス溶けちゃうじゃん!」

「ごめんごめん、ちょっと職員室寄ってたから」


由美が駆け寄り、僕はゆっくりとその後を追う。花子は二人の共通の友人であり、クラスのムードメーカー的存在だ。いつも賑やかで、少しばかり噂好きで野次馬根性が強いところがあるが、悪気がないのは分かっていた。


「はいこれ、健の分。ソーダ味しかなかったけど」

「ああ、サンキュ」


手渡されたアイスキャンディーの冷たさが、火照った指先に心地よい。

三人はベンチに並んで腰掛け、他愛のない会話に花を咲かせた。進路の話、来週のテストの話、クラスの誰と誰が付き合い始めたという噂話。

とりとめもない会話だったが、僕にとっては心地よい時間だった。ずっとこのまま、変わらない関係が続いていくのだと、何の疑いもなく信じていた。


「あ、喉渇いちゃった。ちょっと自販機行ってくる」


アイスを食べ終えた花子が立ち上がる。

公園の入り口にある自販機までは少し距離がある。


「私も行く! 口の中甘ったるくなっちゃったし」

「え、じゃあ俺も……」

「健は荷物番しててよ。すぐ戻るから」


由美に制され、僕は腰を浮かせかけた体勢のまま苦笑した。


「はいはい、了解。変なもん買ってくんなよ」

「分かってるって!」


二人の背中が遠ざかっていく。

一人残された僕は、ベンチに深く背を預け、空を見上げた。

茜色から群青色へと、ゆっくりとグラデーションを変えていく空。一番星が頼りなげに瞬いている。

静寂が訪れるはずだったが、風に乗って二人の話し声が微かに聞こえてきた。公園の地形のせいか、あるいは風向きのせいか、入り口付近の会話が驚くほどクリアに耳に届くことがある。これは、この公園のちょっとした秘密であり、僕たち三人も昔から知っている現象だった。


ただ、二人はそのことを忘れているようだった。

あるいは、僕に聞こえても構わない話だと思っているのか。


僕はなんとなく、二人の会話に耳を傾けた。


「……でさ、あんた本当はどうなのよ?」


花子の声だ。少し意地悪そうな、それでいて核心を突くような響きが含まれている。


「え、何が?」


由美の声は、少し上擦っているように聞こえた。


「とぼけないでよ。健とのこと。ずっと一緒にいるじゃん。もう付き合っちゃえばいいのに」


心臓が、ドクリと大きく跳ねた。

予期せぬ話題に、僕は思わず息を呑む。盗み聞きをするつもりはなかったが、自分の名前が出た以上、耳を塞ぐことなどできるはずもなかった。

全身の神経が、耳の一点に集中する。

由美はどう答えるのだろうか。

期待と不安がない交ぜになり、喉の奥が張り付くように渇く。


数秒の沈黙があった。その沈黙が、僕には永遠のように長く感じられた。


「……ないない、それはないって」


由美の声が、乾いた笑いと共に響いた。

その否定の言葉に、僕は小さく肩を落とす。まあ、そうだろう。幼馴染というのはそういうものだ。照れ隠しかもしれないし、本当にそういう対象として見られていないのかもしれない。

けれど、会話はそこで終わらなかった。


「えー? でもさ、由美、健のこと見る目、絶対違うって。クラスのみんなも噂してるよ? 『あの二人はいつくっつくんだ』って」


花子は執拗に食い下がる。彼女の悪い癖だ。他人の色恋沙汰を面白がり、相手の本音を引き出そうとする野次馬根性。普段なら笑って流せるそれが、今日ばかりは鋭利な刃物のように感じられた。


「もう、花子ってばしつこいなぁ……」


由美が困惑しているのが、声のトーンだけで分かる。

僕は心の中で「もういい、話題を変えてくれ」と祈った。これ以上聞いていれば、自分が傷つく予感がしたからだ。

だが、追い詰められた人間は、時に思ってもみない防衛本能を発揮する。

その場の空気をやり過ごすためだけに、自分でも信じていない言葉を吐き出してしまうことがあるのだ。


「……だから、違うんだってば」


由美の声が、少し強くなった。焦りと、周囲に見栄を張りたいという思春期特有の虚勢が混じっていた。


「健と一緒にいるのは、なんていうか……ほら、腐れ縁っていうか、放っとけないだけだし」

「ふーん? 本当にそれだけ?」

「本当だって! 大体、あんな堅物、彼氏にしたら息詰まっちゃうよ」


ガツン、と頭を殴られたような衝撃が走る。

堅物。息が詰まる。

それは、僕が一番気にしている自分の欠点だった。真面目すぎると言われる性格。融通が利かないと言われる態度。それを、一番理解してくれているはずの由美に否定されたことが、ボディブローのように効いてくる。


しかし、決定的な一撃は、その次に放たれた。


「じゃあさ、もし健から告白されたらどうすんの?」


花子の問いかけに、由美は笑い飛ばすように、軽い口調でこう言い放ったのだ。


「まさか! もしそうなったら、それこそ罰ゲームみたいなもんじゃん。軽いノリで『ごめんなさい』って言うしかないかなぁ。あはは!」


世界から、音が消えた。

蝉の声も、風の音も、遠くを走る車の走行音も。すべてが遮断され、由美の言葉だけが頭の中で反響し続ける。


『罰ゲームみたいなもん』

『軽いノリ』


その言葉は、僕が彼女に向けていた信頼と、淡い恋心を、無残なまでに踏みにじった。

積み上げてきた十数年の歳月。

一緒に過ごした放課後。

共有した秘密や、数え切れないほどの笑顔。

そのすべてが、「罰ゲーム」という言葉一つで、安っぽい茶番劇へと書き換えられていくようだった。


体温が一気に下がるのを感じた。

指先が震え、握りしめていたアイスの棒が、ミシミシと悲鳴を上げる。

怒りではない。悲しみでもない。

もっと深く、暗く、冷たい感情。

それは「絶望」に近い何かだった。


僕は立ち上がった。

これ以上、ここにいることはできなかった。彼女たちの顔を見れば、自分が何をしてしまうか分からない。罵倒してしまうかもしれない。泣き出してしまうかもしれない。

あるいは、もっと酷い言葉で、彼女を傷つけ返してしまうかもしれない。


僕は、工学部志望の理系学生らしく、いつだって論理的に物事を考えてきたつもりだ。原因があり、結果がある。感情は制御すべきパラメータの一つに過ぎない。

だが、今の僕の中で暴れまわる感情は、どんな数式でも制御不能だった。


「……帰ろう」


誰に言うでもなく、呟いた声は掠れていた。

僕は荷物を掴むと、彼女たちがいる入り口とは反対側の、裏手の小道へと足を向けた。

逃げるように。

あるいは、汚らわしいものから遠ざかるように。


背後からは、まだ二人の笑い声が聞こえている。

由美の笑い声。あんなに好きだったその声が、今は鼓膜を突き刺す雑音にしか聞こえない。


彼女は知らないのだ。

自分がついた「軽い嘘」が、どれほどの重さで僕の心を圧し潰したのかを。

そして、その嘘が、僕たちの関係に決定的な亀裂を入れたことを。


僕は早足で公園を後にした。

夕日は完全に沈みかけ、あたりは急速に闇に包まれようとしていた。

僕の視界もまた、色を失い、モノクロームの世界へと閉ざされていく。


帰り道、僕はスマートフォンの画面をタップした。

連絡先リストに表示された『瀬戸由美』の名前。

いつもなら、一番上に履歴が残っているその名前を、僕は無表情で見つめた。

指が震える。

けれど、もう迷いはなかった。


彼女にとって僕との関係が「罰ゲーム」のような軽いものであるならば、僕がそのゲームから降りたところで、何の問題もないはずだ。

そう自分に言い聞かせなければ、心が壊れてしまいそうだった。


僕は静かに、彼女の通知をオフにした。

それは、僕なりのささやかな抵抗であり、世界から自分を守るためのバリケードの第一歩だった。


明日になれば、また顔を合わせることになる。

でも、もう今日までの僕ではない。

隣で笑っていた「健」は、今日の夕暮れと共に死んだのだ。


家に帰り着き、自室のベッドに倒れ込む。

天井を見上げても、まぶたの裏に焼き付いているのは、由美の笑顔と、あの残酷な言葉の対比だけだった。

胸の奥に、黒くて重い鉛のような塊が居座っている。

それは、裏切られたという事実そのものだった。


「……嘘つき」


暗い部屋の中で、その言葉だけが虚しく響いた。

僕たちの高校生活最後の夏は、こうして終わりを告げようとしていた。

夕景のプリズムが砕け散り、鋭利な破片となって、僕の心に深く突き刺さったまま。

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