第9章 薄れゆく記憶の端っこ ~君の名前だけは~
朝の神社。さきは鏡の前に立っていた。銀色の髪を梳きながら、ふと手を止めた。
左手首の紋章が、昨日より少し濃く赤く光っている。
「……ん?」
頭の奥で、何かが欠けている気がした。
学校の教室の配置、友達の名前、昨日食べたお昼ご飯……細かいことが、霧のようにぼやける。コンが小型の姿で鏡台の上にちょこんと座り、赤い瞳でさきを見上げた。
「また疼いているな」さきは無理に笑顔を作った。
「大丈夫。ちょっと眠いだけかも」コンは尻尾をぴたりと止めた。
「嘘は下手だぞ、さき。
昨夜の戦いで、お前は古の厄の『核』を握り潰した。
その代償は……お前の『記憶の端っこ』を、俺に吸い取った」
さきは鏡の中の自分を見つめた。
瞳が、少しだけ曇っているように見える。
「……あかりの好きな色、何だっけ?
昨日、文化祭の時に話してたのに……思い出せない」
コンは静かに言った。
「青だ。
海のような、澄んだ青」
さきは胸を押さえた。
温かいものが、じわりと広がる。
「ありがとう……コン」コンは小さく跳び上がり、さきの肩に乗った。
ふわふわの毛並みが、頰に触れる。
「俺がお前の記憶を預かっている間は、忘れはしない。
だが……これ以上代償を重ねると、お前は俺のことをさえ、ぼんやりと思い出すだけになるかもしれない」さきはコンを抱きしめた。
「そんなの、嫌だ。
あんたの名前、絶対に忘れない。
コン……私の相棒」
コンは赤い瞳を細めて、静かに頷いた。
「なら、今日一日……思い出せ。
学校で、友達と、笑って。
それが、お前の記憶を繋ぎ止める力になる」
学校へ向かう道中。あかりがいつものように駆け寄ってきた。
「さきちゃーん! おはよー!
ねえ、修学旅行の班決め、どうする?
私、さきちゃんと一緒がいいな~」
さきは一瞬、言葉に詰まった。
あかりの笑顔が、鮮やかすぎて胸が痛い。
「……うん、一緒がいい。
あかりと、みんなと……たくさん思い出作りたい」
あかりが目を輝かせた。
「やった! 絶対楽しいよ!」
授業中、さきはノートを取ろうとして手を止めた。
鉛筆の先が、震えている。コンが机の下で小さな声で囁いた。
「思い出せ。
あかりの青いリボン、昨日文化祭で付けてたやつ」
さきは深呼吸した。
青いリボンが、頭に浮かぶ。
「……ありがとう、コン」
放課後、神社に戻ったさきは、縁側に座ってコンを抱いた。
「今日、一日……みんなの顔、ちゃんと覚えてた。
あかりの笑い方とか、先生の声とか……全部」
コンは尻尾を優しくさきの手に絡めた。
「よくやった。
お前の意志が、代償を押し返している」
さきは空を見上げた。
夕陽が、朱の鳥居を赤く染める。
「でも……いつか、本当に忘れちゃう日が来るのかな」コンは体を膨張させ、巨大な九尾の姿に戻った。
さきを背中に乗せ、ゆっくり境内を歩き始める。
「来るかもしれない。
だが、その時も俺はここにいる。
お前の記憶が薄れても、俺がお前の名前を呼ぶ。
『さき』と、何度でも」
さきはコンの背中で、涙をこぼした。
「コン……大好き」コンは振り返らず、静かに答えた。
「……俺もだ。
相棒」
夜風が、鳥居の鈴を優しく鳴らした。
二人の影が、重なり合うように長く伸びる。記憶は薄れても、絆は決して消えない。
さきは、そう信じ始めた。




