第10章 覚悟の夜 ~全部、預けるよ~
代償の疼きは、日ごとに強くなっていた。朝起きた瞬間から、頭の霧が濃くなる。
学校へ向かう道で、あかりの名前を一瞬忘れかけた。
慌てて左手首を握り、コンが耳元で囁く声にすがった。
「さき……思い出せ。あかりは青いリボンが好きだ」
「……うん、ありがとう」でも、夜になると、もっと深いものが薄れ始めた。さきは縁側に座り、膝を抱えていた。コンは巨大な姿でそばに横たわり、九つの尾をさきの周りに優しく巻きつけている。まるで、守るように。
「コン……今日、学校で先生の顔が、ぼんやりした。
あかりの声も、遠く感じた。
これ以上続いたら……私、本当に全部忘れちゃうかも」
コンは静かに息を吐いた。赤い瞳が、月明かりに濡れているように見えた。
「そうだな。
古の厄の残滓は、まだ完全に消えていない。
お前の感情を吸い取ることで、俺は強くなっている。
だが、お前は……弱くなっている」
さきはコンを見上げた。銀髪が風に揺れる。
「弱くなるのは、怖いよ。
でも……あんたが強くなって、みんなを守れるなら、それでいい」コンが体を震わせた。
「馬鹿なことを言うな。
お前が忘れたら、俺は……またひとりになる。
あやめの時と同じように」
さきはゆっくり立ち上がり、コンの大きな顔に両手を当てた。
赤い瞳を、真っ直ぐ見つめる。
「違うよ。
あやめさんは、代償で全部渡しちゃったから、忘れていったんだよね?
でも、私は違う。
私は、渡すのを……自分で選ぶ」
コンが目を丸くした。
「自分で……選ぶ?」
さきは頷いた。左手首の紋章を、強く握る。
「全部、預けるよ。
私の記憶も、感情も、全部コンにあげる。
でも、条件がある」コンは息を止めた。
「条件……?」
さきは微笑んだ。涙が一筋、頰を伝う。
「私が全部忘れても……あんたが、私の名前を呼んで。
『さき』って、何度でも呼んで。
そしたら、私はまた思い出せる。
あんたの声なら、絶対に」
コンは沈黙した。
やがて、低く、優しい声で答えた。
「……約束だ。
お前がどんなに薄れても、俺は呼ぶ。
何百年経っても、何千年経っても……『さき』と」
さきはコンに抱きついた。
九つの尾が、優しくさきを包み込む。
「ありがとう……コン。
大好きだよ」コンはさきの背中を、尾でそっと撫でた。
「……俺もだ。
相棒」
その瞬間、紋章が爆発的に光った。
赤い光が境内を埋め尽くし、さきの体から無数の光の粒がコンへと流れ込む。さきの瞳が、一瞬ぼんやりと曇る。
「……コン……?」
コンはすぐに、優しく囁いた。
「さき」さきははっと目を覚ました。
瞳に、光が戻る。
「……コン!」
二人は強く抱き合った。
光が徐々に収まり、境内は再び静かになる。さきはコンに寄りかかり、息を吐いた。
「まだ……大丈夫。
でも、もう少しで……限界かも」
コンは頷いた。
「なら、決着をつけよう。
古の厄の本体が、そろそろ動き出す気配だ。
次が、最後になる」さきは拳を握った。
「うん。
一緒に、終わらせよう。
私の記憶も、みんなの笑顔も……全部守って」
コンは九尾を広げ、夜空に向かって低く吼えた。
「そうだな。
俺たちの絆で、終わらせる」
月が、二人の影を長く伸ばした。
朱の鳥居の下で、最後の戦いへの覚悟が固まった。




