第1章 契約の夜 ~面倒くさい神様~
雨が、鳥居の朱を濡らしていた。神宮寺さきは傘も差さず、境内を歩いていた。銀色の長い髪が雨に重く張り付き、赤いオフショルダーのワンピースが肌に冷たく貼りつく。都会の喧騒から逃げてきたはずなのに、こんな山奥の古い稲荷神社に辿り着くとは思わなかった。
「おばあちゃんの遺言なんて、冗談でしょ……」
スマホの画面を睨みながら、さきは独り言を呟く。大学受験に失敗し、バイトもクビになり、親とも大喧嘩して家出同然でここに来た。継ぐべきは「ただのボロ神社」だとばかり思っていたのに。境内奥の小さな祠に近づくと、風が急に強くなった。木々がざわめき、石灯籠の火が揺れる。
いや、火なんて灯っていないはずだ。
「……また来たか、人間」
低く、響く声がした。さきは足を止めた。祠の前に、巨大な影が立ち上がっていた。白い毛並み。九つの尾。体長は優に10メートルを超える狐。その赤い瞳が、闇の中で妖しく光っている。牙を剥き出しにした口元からは、熱い息が漏れていた。さきは後ずさり、スマホを構えた。フラッシュが光るが、影は消えない。
「え、何これ……CG? ドッキリ? いや、待って、リアルすぎるんだけど!?」
巨大な狐――コンは、ゆっくり首を下げてさきの顔を覗き込んだ。
「お前が……次の『契約者』か」
「契約者って何!? 私、神社継ぐ気なんてないから! おばあちゃんの勘違いでしょ!」
コンは静かに答えた。
「勘違いではない。血が呼んでいる。お前の祖先は、代々この社を守ってきた。そして今、お前がその役目を負う番だ」
九つの尾がゆっくり揺れる。空気が重くなり、雨音さえ遠のいた。さきは苛立ちを隠さず、声を張り上げた。
「は? 私、ただ逃げてきただけなんだけど!? 神様とか狐とか、信じてないし!」
「信じなくとも、現実は変わらん」コンが一歩踏み出す。地面が震え、鳥居の鈴が鳴り響いた。
「この土地に『厄』が集まり始めている。お前が契約を拒めば、この村は……いや、日本すら飲み込まれるかもしれない」
「……はあ? 脅し?」
「脅しではない。事実だ」赤い目が細くなる。
「さあ、決めろ。人間。このコンと契約するか、それとも……全てを失うか」
雨に打たれながら、さきはコンを見上げた。恐怖と苛立ちと、少しの――ほんの少しの好奇心が、胸の中で混ざり合っていた。深呼吸して、さきは指を突きつけた。
「……わかった。契約する。でも条件がある」コンがわずかに目を丸くする。
「私を『巫女』とか呼ばないで。使役とかも嫌。あんたはただの……『便利な狐』でいいよね?」
「……便利な……狐?」コンが珍しく動揺したように見えた。
「そう。私の言うこと聞いて、トラブル解決してくれたら、それでいい。報酬は……まあ、毎日おいしいお稲荷さんあげるからさ」
沈黙の後、コンは低く笑った。牙が光る。
「ふん……生意気な小娘だ。面白い」九つの尾が一斉に広がり、赤い光が爆発した。
「よかろう。契約成立だ、神宮寺 さき」
光がさきの左手首を包む。赤い狐の紋章が浮かび上がり、雨が一瞬で止んだ。月明かりが二人を照らす。さきは左手首を見て、呆然とした。
「……マジで契約しちゃった……」
コンは体を縮め、小型狐の姿に変わった。ふわふわの白い毛並み、赤い瞳はそのまま。軽やかに跳び上がり、さきの肩に乗る。
「これからよろしくな、相棒」尻尾をぴょんぴょん振る姿が、さっきの威圧感とは別物だった。さきは肩の重さにびっくりして叫んだ。
「相棒って……! ちょっと待って、 重い!」
コンは耳をぴくぴく動かしながら、くすくすと笑った。
「軽いだろ?」
「軽くないわよ!」二人は鳥居の下を歩き始めた。遠くで村の灯りが揺れている。さきはため息をつきながら、肩の小さな狐を見下ろした。
「……最悪。明日から学校と神社の両立とか、絶対無理なんだけど」コンは赤い目を細めて、楽しげに答えた。「心配するな。俺が守ってやる」
「守るって……あんたが一番のトラブルメーカーじゃん!」雨上がりの夜風が、朱の鳥居を優しく撫でた。これが、神宮寺さきと九尾の神・コンの、長い長い物語の始まりだった。




