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第10話「ちょうどいい距離」
朝、台所でおばあちゃんが味噌汁をかき混ぜている。
その音にまじって、古都音は、また――聞こえた。
『今日は、空気がやわらかいな』
低く、静かな声。
耳の奥というより、部屋の奥から、ぽつりと落ちてきたみたいな声。
古都音は一瞬、手を止める。
(……またや)
最近、こういうのが増えてきた。
大学だけやと思ってた。大樹とか、古い建物とか、古本屋の本とか。
でも、家の中でも、聞こえる。
古都音は、そっと視線を動かす。
仏壇。
今は朝のお参りが終わって、扉は閉まっている。
なのに、そこから――
『人がいる家は、落ち着く』
……完全に、仏さんや。
「……ばあちゃん」
「ん?」
おばあちゃんは、何事もない顔で味噌汁をよそう。
「仏壇ってさ……しゃべるもん?」
おばあちゃんは、一瞬だけ、ぴたりと手を止めた。
でもすぐに、ふっと笑う。
「急にどないしたん。朝から難しいこと言うて」
「いや、なんか……気のせいかもしれんけど」
古都音は、それ以上は言わなかった。
――言わんほうがええ気がした。
こういうとき、昔から直感が働く。
“今は踏み込まんほうがいい”っていう、あの感じ。
『この子は、聞こえる子やな』
仏壇の奥から、またひとりごと。
古都音は、思わずイヤホンを耳に突っ込んだ。
(ちゃうちゃうちゃう、今は朝やし!)
音楽を流すと、声は少し遠のく。
完全には消えへんけど、「聞こえてませんよ」っていう壁は、ちゃんとできる。
大学で気づいた、この対処法。
相槌うってしまうより、よっぽどマシや。
朝ごはんを食べながら、古都音はちらっとおばあちゃんを見る。
おばあちゃんは、いつも通り。
でも――どこか、知ってる顔や。
「なあ、ばあちゃん」
「なに?」
「この家ってさ、昔から……なんか、こういうの多い?」
おばあちゃんは箸を置いて、少し考えてから言った。
「多い、っていうか……まあ、古い家やしなぁ」
それだけ。
でも、その言い方は、“全部は言ってへん”感じやった。
食後、古都音は仏壇の前に座る。
手を合わせると、さっきより静かや。
『この距離感、ちょうどええ』
仏さんの声は、穏やかやった。
「……距離感、大事よな」
思わず小さく返すと、声はそれ以上何も言わなかった。
午後、縁側で洗濯物をたたんでいると、おばあちゃんがぽつりと言う。
「古都音」
「ん?」
「聞こえすぎるときは、無理せんでええ」
古都音の手が止まる。
「……ばあちゃん?」
「全部拾わんでええ。聞こえても、聞かんふりするんも、選択や」
古都音は、はっとする。
「……ばあちゃんも、聞こえるん?」
おばあちゃんは、少しだけ笑った。
「若いころはな。今はもう、付き合い方わかってるだけ」
それ以上、詳しい話はしなかった。
“使命”とか、“役目”とか、そんな言葉も出てこない。
ただ、
「自分で決めたらええ」
それだけやった。
夕方、古都音は庭を見ながら思う。
(聞こえるからって、どうするかは自分次第)
放っておけへん気持ちはある。
でも、踏み込みすぎたら危ないって感覚も、ちゃんとある。
それでええ。
仏壇のほうから、最後にひとりごと。
『選べる子は、強い』
古都音は、イヤホンを指で弾いて、にやっと笑った。
「せやな」
聞こえたけど、聞こえへんふり。
それもまた、自分で選んだ距離。
次回は3/27金曜日に更新予定です。




