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3/3

無能から欠点だらけの僕へ 前半

その日は、蒸し暑さがまとわりつく夕方だった。

外では蝉が鳴き始め、夏の喧騒が空気を震わせていた。


救急車のサイレンを響かせながら、母を乗せた車が山田病院へ滑り込む。

大きすぎず、小さすぎもしない、地方の総合病院。

けれどその瞬間、院内は戦場さながらの緊張に包まれていた。


東向きの病室。窓から差し込む光はすでに弱く、部屋は薄暗い。

電気をつけるか迷うような、そんな時間帯だった。

白衣の看護師たちが慌ただしく動き回り、母の悲鳴が鋭く響く。


「もうすぐですよ!」

「力んでください!」


掛け声と共に母の体が大きく震え――俺は、この世界に産み落とされた。


オギャー! オギャー!


肺が裂けそうな声で泣き叫ぶ。

その泣き声は病室中に響き渡り、自分でもうるさいと感じるほどだ。

光はまぶしく、消毒液の匂いが鼻を刺し、遠くで器具の音が響く。


どれも初めてのはずなのに――不思議と懐かしい。

覚えているわけじゃない。けれど、確かに知っている感覚のように思えた。


俺は――再びこの世界に生まれたのだ。


「ママでちゅよ〜」


看護師がそう言いながら、産声を上げたばかりの俺を母の前へ差し出す。

まるで、険しい山を登り切った登山家に「おめでとうございます」と山頂の証を見せるように。

それは母に「無事に産まれましたよ」と知らせる合図だった。


母はぐったりした体のまま、それでも俺を見てわずかに笑みを浮かべる。

その安堵の表情は、言葉にならないほど優しかった。


そして次の瞬間――目を閉じ、静かに枕へ頭を預ける。


……そうだ。俺は忘れていた。母がこんな表情を見せることを。


やがて母と俺は、病室へ運ばれた。

そこには、もうひとりの“登山家”が待っていた。


父だ。

俺たちの姿を見た瞬間、必死に堪えていた涙腺が決壊し、まるで産まれたばかりの赤子――そう、俺のように泣き喚いた。


「かえでぇ……! よく頑張ったなぁ、よく頑張った……ありがとう、ありがとう……ありがとぉ……」

父は母の手をぎゅっと握りしめ、言葉を絞り出す。


「もぉ〜やめてよ、みっともない……看護師さんたちが見てるんだからぁ……」

母は顔を赤らめ、恥ずかしそうに視線を逸らす。


けれど、その表情は照れながらも嬉しさに満ちていた。

泣きじゃくる父を見て、母はうっすらと、確かな喜びの笑みを浮かべていた。


――そうだ、忘れていた。

この二人は、こんなにも互いを想い合い、幸せに笑い合う夫婦だったということを。


……その瞬間だった。


いきなり視界が暗くなる。

まるで電源を落とされたスクリーンのように、光がすべて吸い込まれていった。


「なっ……!?」


気づけば体がふわりと浮き、底なしの奈落へと落ちていく感覚に襲われる。

足元――いや、遥か下方には無数の光の粒が浮かんでいた。

星のように輝きながら、俺を誘うように瞬いている。

その光はどんどん大きくなり、気づけば俺はその渦の中へ――。


眩い閃光のあと、ふっと景色が切り替わった。


そこは、田舎の田んぼ道。

夕焼けに染まる空の下、一面に広がる稲穂が金色に輝いている。

風が吹けば、穂が波のように揺れ、茜色と黄金が混じり合いながらきらめいた。


道の脇には、間隔をあけて街灯がポツン、ポツンと立っている。

まだ灯りはついていないが、その孤独な存在感が妙に胸に刺さった。

足元を見れば、固まりかけの泥が点々と転がり、乾いた地面に黒い跡を残している。


「……ん? 俺……赤ん坊だったはずだよな?」


思わず自分の体を見下ろす。

小さな手も足も、そこにはない。

代わりに――十五の頃の俺が、確かにそこに立っていた。


「ちょ、なんで……? なんで15歳の俺なんだよ……!」


混乱する俺をよそに、過去の身体は勝手に動き出す。

ドッ、ドッ、と足音だけがやけに重く響いた。

息苦しいほどの空気の重み。夕暮れの静けさに溶けるような湿った風。


俺は――感情を失ったように、ただその道を歩いていた。

いや、歩かされていたのかもしれない。


そして次の瞬間、全身にゾクリと震えが走る。

この景色……この空気の重み……忘れるはずがない。


そうだ。

この夜、俺は――幸せな家庭を引き裂く引き金を引いてしまったのだから。

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