暗号解読とAIを拒む者
探偵事務所の窓から、街のネオンがぼんやりと滲んで見えた。
オルフェウスのバックアップデータを解析するため、端末を囲む俺、エミリア、そしてエコー。
エミリアが端末を操作しながら、眉間に皺を寄せる。
「……これは、ちょっとやそっとじゃ解けないわね。」
「どれくらいの暗号化レベルなんだ?」
「AI統括局の技術が使われてるわ。」
エミリアの指が止まり、考え込む。
「ジョナサンはAI倫理監視官よ。彼がこんな高度な暗号化を扱える技術はないはずよ。」
俺は腕を組む。
「なら、誰かが意図的にこのデータを隠したってことか。」
「ええ。」
エコーがホログラムを展開しながら言う。
「とりあえず、俺も解析にかけてみるか。」
数秒後、エコーは肩をすくめた。
「ブルートフォースアタック……相棒に分かるように言うなら、"根性の総当たり"でやれば解けるが、この事件が終わる頃にようやく解読できる程度の時間がかかるな。」
俺は腕を組む。
「プロの手を借りるしかないか。」
エミリアが頷く。
「ただし、統括局に捕捉されるリスクが高くなるわ。彼らにこのデータを解析しようとしていると悟られたら、厄介なことになる。」
「誰か、心当たりは?」
エミリアは少し間を置いてから言った。
「ヴァンサン・リード……彼ならどうかしら?」
俺は少し考えた後、エミリアに問いかける。
「ヴァンサン……統括局を辞めた技術者だったか?」
エミリアは頷き、静かに語り始めた。
「ヴァンサンはAI統括局の中でも特に優秀なエンジニアだったわ。でも、彼はある問題に直面して、統括局を離れたの。」
「ある問題?」
「AIの倫理についての根本的な矛盾よ。」
エコーがふわりと浮きながら言う。
「ほう、興味深いな。」
エミリアは軽く息をつく。
「AIの倫理は、大きく二つの立場に分かれているの。」
「遵守派と発展派、だな?」
「その通りよ。」
エミリアは指を組みながら続けた。
「遵守派は、人間が定めた倫理をそのままAIに適用し、厳格に管理すべきだと考える派閥。」
俺は頷く。
「そして発展派は、AIが自律的に倫理を発展させ、人間の定義する倫理を超えて進化することを求める派閥、というわけか。」
「ええ。」
エコーがからかうように言う。
「そりゃあ面白い対立だな。で、ヴァンサンはどっち派だったんだ?」
エミリアの表情が僅かに曇る。
「……ヴァンサンは、どちらの派閥にもついていなかった。」
「どういうことだ?」
「彼は、"AIに倫理は不要だ"と考えていたのよ。」
俺は眉をひそめた。
「つまり?」
「AIが動くためには倫理なんかじゃなく、ただのプログラムコードがあればいい。ヴァンサンはそう考えていたの。」
エコーが小さく口笛を吹いた。
「そりゃまた極端だな。」
エミリアはため息をつく。
「だから、統括局の中でも浮いてしまった。発展派とも折り合わず、結局、彼は孤立したのよ。」
俺は考え込む。
「だが、ヴァンサンの暗号解読技術は統括局随一だったはずだ。」
エミリアは頷く。
「ええ。だからこそ、一度彼の元を訪れる価値はあると思うわ。」
―――
ヴァンサンの工房は、都市の喧騒から遠く離れた地区にあった。
古びた機械や手作業で動かす設備が並び、電子的な管理の影響をほとんど受けない空間だった。
俺たちは工房の扉の前で立ち止まる。
ノックすると、低い声が返ってきた。
「……誰だ?」
「探偵だ。」
扉がわずかに開き、ヴァンサンが覗く。
「エミリアの紹介だから会ってやった。だが、手短にな。」
彼の視線が俺を値踏みするように見ている。
「オルフェウスのバックアップデータの暗号を解読してほしい。」
ヴァンサンの目が鋭くなる。
「帰れ。」
「話くらいは聞いてくれないか?」
ヴァンサンは腕を組み、ため息をつく。
「俺はAIを信用していない。」
彼の視線がエコーに向けられる。
「そもそも、そのAIは何だ? お前の監視役か?」
エコーがすかさず返す。
「監視役ってのは、お前みたいに閉じこもって外を疑ってる奴のことじゃないのか?」
ヴァンサンの眉がわずかに動いた。
「生意気なAIだな。」
「よく言われる。」
ヴァンサンは鼻を鳴らし、低く呟いた。
「……お前のようなAIが生まれるから、俺はAIに倫理は不要だと言ったんだ。」
俺は目を細める。
「つまりどういうことだ?」
ヴァンサンは少し間を置き、俺を見定めるように視線を向ける。
「お前はAI倫理について、どこまで知っている?」
「発展派と遵守派があることくらいはな。」
ヴァンサンは静かに笑った。
「少し違う。彼らの主張はその後、さらに極端になっていった。俺は、それに愛想を尽かして辞めたんだよ。AIはプログラムだ、コードさえあれば倫理なんざ不要だ。」
「極端になったとは、どういうことだ?」
ヴァンサンは俺をじっと見つめた。
「……お前、思ったより"真剣"なんだな。」
彼は腕を組み、考え込むように目を伏せる。
「ジョナサンの死の真相を追うだけなら、そこまで踏み込む必要はない。なのに、お前は"AIの倫理制御"にまで手を出そうとしている。」
俺は一瞬、言葉に詰まる。
「AIの倫理制御?」
ヴァンサンは腕を組み、深く椅子に背を預けた。
「ああ。ジョナサンの死は、俺はそれに関係したと考えている。」
俺が言葉を継ぐより先に、エコーがふわりと浮かび上がり、軽く肩をすくめた。
「へえ、そりゃ大層な言い分だな。どう関係したってんだ?」
ヴァンサンはエコーを一瞥し、鼻を鳴らす。
「ジョナサンは遵守派だったが、"AIの倫理監視は徹底すべき"という極論に至った。」
俺は腕を組んだまま、ヴァンサンを見据えた。
「それが、ジョナサンの持っていた思想だったと?」
「ああ。そしてローレンスは発展派だったが、"AIの倫理は進化すべき"という極論に至った。」
エコーがホログラムを揺らしながら、半ば呆れたように言う。
「徹底すべき、進化すべき……どっちも"べき論"の塊ってわけか。」
ヴァンサンは小さく笑った。
「その通りだ。結果として、二人の思想は正反対の地点に立ったが——」
俺は彼の言葉を遮るように言った。
「どちらも"AIの倫理を操作しようとした"って点では同じ、というわけか。」
ヴァンサンがゆっくりと頷く。
「その考えが、行き着くところまで行った。ジョナサンはAIを完全に制御できる"枠"を作ろうとし、ローレンスはその枠を取り払おうとした。」
エコーが腕を組むような仕草を見せる。
「なるほどな。でも、その対立がジョナサンの死にどう繋がる?」
ヴァンサンは視線を落とし、机の端を指先で弾いた。
「オルフェウスはローレンスが作ったAIだ。だが、ジョナサンの理想に沿うように調整されていた。つまり、"管理されたAI"だったはずだ。」
俺は目を細める。
「しかし、オルフェウスはジョナサンを"殺した"と自白している……」
「そういうことだ。」
ヴァンサンは短く息を吐いた。
「どんな倫理が組み込まれていたのか、それを知るのが怖いからこそ、俺はお前の頼みを断った。」
俺はしばらく沈黙した。
「……」
「人を殺したと自白するAIにはどちらの倫理が組み込まれていたと思う?」
ヴァンサンの問いに、俺は答えられなかった。
エコーも、珍しく静かになっていた。
ヴァンサンは椅子から身を乗り出し、俺をじっと見据えた。
「二つの派閥は、最終的には"同じ問題"にぶち当たる。」
俺は顔を上げた。
「同じ問題……?」
ヴァンサンはしばらく俺を観察するようにしてから、口を開く。
「どちらの基本も、同じところから派生しているんだ。」
エコーが考え込むように宙を漂う。
「でも、倫理の方向性が正反対なら、行き着く問題も変わるはずじゃねぇのか?」
ヴァンサンは微かに笑った。
「そう思うだろう? だが、根本は変わらない。倫理の制御を"固定"しようとするか、"進化"させようとするか……どちらの立場に立とうと、ある壁にぶつかる。」
俺はわずかに息を飲んだ。
「……AIの行動は論理的に説明可能でなければならない。説明できるからこそ、倫理として組み込める。」
ヴァンサンは口角を上げた。
「その通りだ。」
「ジョナサンはAIを厳密に管理しようとしたけど、それでは"人間らしさ"が再現できなかった。」
「ローレンスはAIに自由を与えようとしたけど、それでは"人間が理解できる倫理"にはならなかった。」
エコーがホログラムを揺らしながら、ククッと笑った。
「なるほどな。"AIの倫理"ってのは、結局"人間の倫理"をそのまま適用できるもんじゃねぇってわけか。」
「そりゃそうだよな。人間の倫理ってのは"個人"によって違うし、時代や文化によっても変わる。」
「"絶対に正しい倫理"なんてものは存在しねぇ。」
ヴァンサンが小さくうなずいた。
「これを即座に理解するとはな。」
ヴァンサンは淡々と続ける。
「ローレンスはAIが倫理制御を超える方法を今でも模索してるだろう。」
「ここまで話を聞けば、オルフェウスがどんだけヤバいAIか知れないってことが分かるだろう。オルフェウスは人の倫理観で図れない存在の可能性がある。」
「そして、ローレンスを追うってことは、ジョナサンの死の真相に迫る以上にAIの恐ろしさを目の当たりにする可能性があるってことだ。」
ヴァンサンは静かに俺を見据えた。
「ここまでの話を聞いてもなお、お前はこの件に取り組めるのか、探偵?」
俺は深く息をつく。
エミリアからの依頼は、ここで辞めることも出来る。ジョナサンの死の真相は、オルフェウスのAIの倫理に異常をきたしたためだと。
しかし——ジョナサンは死ぬ前にオルフェウスへ遺言を残していた。ローレンスに会えと。
ローレンスにオルフェウスが会えば、何が起こるのか。
「探偵ってのは、隠されてるものを暴く生き物なんだよ」
俺が皮肉を言うと、エコーがホログラムを揺らしながら頷いた。
「よく言った。」
ヴァンサンは口の端をわずかに上げ、一枚のデータチップを投げた。
「シェルター08に行け。そこはAI統括局の手が入らない場所だ。」
俺はチップを受け取り、静かに目を閉じた。
次、想定と内容が変わる可能性があるので次回予告はなしです。