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セピア色の夢

作者: lucent

小さい頃、それもまだ恋すら知らないほど幼い少年の頃、僕はある夢を見た。僕は気づくと、見知らぬ駅に改札から入ろうとしているところで、僕の隣には女性がいる。その女性はトレンチコートを着ていて、どこか落ち着いた雰囲気を感じる。そしてその女性は、表情が凍ったように動かない。しかし、不思議なことにその表情が怖いとは思わなかった。彼女はきっと、表情が動かないのではない。動かないという表情をしているのだ。その顔は僕に、静かな野良猫を連想させた。彼女の雰囲気にはどこか大人のような空気ものを感じさせるところがある。まるで触れようとする者を爪で引っ掻いてしまそうな。

僕は彼女に声をかけることが出来なかった。僕はこの女性を知らない。出会った経緯も、そしてここに一緒にいる理由も何も分からない。立場の分からない大人に対する質問の仕方を僕は知らなかった。

無言のまま僕たちは改札を抜けて、駅のホームへと降りた。その途中、僕は何度か彼女の顔を見ていたと思うのだけれど、彼女と目は合ってもやはりその表情は変わらなかった。

ホームに着いて、僕は電車の時刻表を見る。夢の中だからか、僕は不思議と乗るべき電車が分かった。その時刻表によると、電車が来るまではまだしばらく時間があるようで、僕たち二人はホームで電車を待つことにした。

ホームで電車を待っている間も彼女の表情は変わらない。彼女はやはり野良猫の様だ。もしかしたら本当は声を奪われて、姿を変えられてしまった猫なのかもしれないと僕は思った。相変わらず動かない表情に、目だけは合う。猫だったらもしかしたら喧嘩の合図なのかもしれないが...。

目だけは合う?

彼女は、目が合うのだ。本当に表情がないのならば、目を合わせる必要すらない。しかし目だけは合うのだ。これはさっき思っていた「動かないという表情」の正体に違いない。そして、その目は、僕と合っているではないか。彼女を怖く思わないことにも合点がいった。その動かない表情を僕が許すことも、彼女は確信していたのだろう。彼女の表情には、僕を試すようなところがあり、そしてその表情には何か僕に対する確信のようなものがある。そう思った途端、彼女は目を逸らして、懐に手を入れる。そして彼女は懐から何か古い本を取りだして、僕の前に差し出した。彼女が僕に何かを確信しているのならば、僕にこれを受け取らない選択肢はなかった。本を受け取ったところで遠くから音がして電車が来るのが見えた。白い車体、どこか田舎を思わせるブレーキの音。この電車が僕が乗る電車だ、と思った。

電車に入りながら、手に取った本を少し眺めていた。それは文庫本で、厚みはそこそこだ。当時の僕は本を全く読まなかったので、その厚みが何ページくらいなのか、さっぱり検討がつかなかった。本をパラパラめくってみても不思議なところはない。もう一度確かめるように、表紙、裏表紙と本を眺めてみる。やはり何も不思議なところはない。背表紙もみてみようと思って少し手を捻ったところで、気がついた。彼女がいない。

電車内のどこを見回しても彼女がいないのだ。電車はまだドアが閉まってなかった。外を見ても、ホームにも彼女はいない。僕は焦った。なぜ自分が焦っているのかも分からず、焦った。そして焦っているうちにまたふと気づいた。手元にあったはずの本も忽然と姿を消していたのだ。

僕が乗った電車は、僕が普段使っている路線と接続しているらしく、その共通の駅で降りれば、乗り換えをして帰ることが出来そうだ。そう思った途端、焦りはなくなって、何かが腑に落ちたような納得が僕に湧いてきた。あまり周りを見ていなかったからか気づかなかったのだが電車の席は二三割程しか埋まっておらず、僕が座るには十分な数の座席があった。僕が乗ったドアの付近にはちようど誰も座っていない四人がけの座席があった。僕は、座ろうと思った。何故か、彼女の動かない表情がまだここにあるような気がして、座席を端に一つ開けて、その隣に僕は座った。

そして僕は、ぼんやりと目を覚ました。

不思議なことに、僕がその女性の顔を思い出そうとしても、どんな顔をしていて、どんな髪型で、どんな耳をしていたのか、そういうことは全く思い出せない。さらに僕の夢の記憶はセピア色をしていて、ほとんど詳細な色が思い出せないのだ。


僕は、その日から彼女の動かない表情が忘れられないでいた。クラスメイトの女の子の笑顔を見ては彼女の動かない表情を思い出し、知らない人の無表情をみても、彼女の動かない表情を思い出した。

それが恋だと気づくのに少年であった僕にはそれなりに長い時間がかかった。僕はその間に何人かの女性と交際をした。その中にはぱっと咲いた花のように笑顔が素敵な女性もいたし、品性のある知的な微笑みをする女性だっていた。僕は彼女たちをしっかり愛していたと思うし、むしろそれは世間的には十分すぎるほどだった。しかしどういったわけか、彼女たちとの仲は上手く続かなかった。僕は、夢の中の彼女の動かない表情が僕の中にきっとまだどこかに生きていてそれが彼女たちを拒絶したのだろうだとか、あるいは僕は彼女の動かない表情のようなものを纏っていて、僕は夢の中の彼女が僕に感じたであろう確信めいたものを彼女たちには感じられないのだろうと思った。そして僕は、この世の中に生きている限りあの確信のようなものは二度と得られないと思った。それは夢の中の彼女が僕以外には理解されないであろうという確信であり、僕の言葉にできない優越感や特別感のようなものであった。

僕は、僕が彼女になったのだと思った。彼女の表情は僕にしか分からない。そして僕が彼女に感じるような確信は、彼女にしか分からない。心細い一本の線。僕らを繋いだ、たった一度きりの夢。こういう気分が僕に恋を自覚させた。

しかし、それは同時に絶望の始まりでもあった。僕は、到底叶うはずもない恋をしている。彼女との繋がりは、夢というたった一本の線だけだ。その一本の線すら、僕には確かめる術がない。第一、僕は彼女の顔を正確に覚えていない。耳の形も、髪型すらも覚えていないのだ。覚えているのはセピア色に包まれた、彼女の動かない表情だけ。僕は僕がとてつもなく孤独だと思った。彼女の動かない表情が、見えない根っこのように、僕をどこかから動けなくしていた。そういう気がした。

僕の中にある彼女の表情が消えるどころか、膨らんでいくような気がした。僕はどうにか彼女に会えないか考えた。僕と彼女を繋ぐのは夢であったから、もう一度夢を見られないかと思った。しかし、夢を自由自在に引き起こす能力なんか、僕は持っていない。夢でも会えない。到底、現実の世界で彼女が探せるとは思えない。僕はこういう事ばかり考えるものだから、寝る前によく泣いていた。僕の母は、僕のこういう様子を見て心配していたけど、僕はそれをうまく説明することは出来なかった。

考え方を僕は変えることにした。彼女は僕に何を求めていたのだろう?ということだ。彼女は僕が彼女の表情を理解することを確信していた。ある意味、彼女は僕が彼女に恋をすることを分かっていたのではないだろうか?そこでふと思い当たる。彼女は僕に本を渡した。彼女は確かに本を渡したのだ。あの行為は決してなにか無駄なものではない。そう僕は思った。そして僕は後悔をした。僕はあの本の表紙や裏表紙を見たり、質量感を確かめたりはしていたが、背表紙を確認したり、内容をしっかり読んでいなかったのだ。僕は本を滅多に読まないから、あの本が何ページくらいなのか、検討もつかないのだ。文庫本、それなりの質量感。それだけの情報で何ができるだろう?

幸いと言っていいのか分からないが、僕は孤独だった。僕には幸い時間がある。というかむしろ持て余している。僕は沢山本を読もうと思った。それから僕はずっと文庫本を読んだ。

その間、色々な女性に会ったし、恋のようなものもした。しかし、どうしても彼女の動かない表情のように惹かれる表情は一つもなかった。


二年くらいした頃には、僕は彼女の表情を忘れてしまっていて、ただ文庫本を読む習慣だけが身に染みて残っていた。

僕はその頃には高校生になっていて、孤独と付き合う術も、ある程度は学んでいた。僕はの高校は、家からはしばらく離れているので電車で通っていた。家から最寄り駅までは十分くらいで、電車は乗り換えを含んで三十分ほど乗る。学校の最寄り駅から学校まではすぐで、電車を降りてから五分くらいで教室に着く。高校生になっても僕は何も変わらなかった。電車で本を読んで、学校でも本を読んで、家に帰ってからも本を読んだ。貪るように。

部活にも入らなかった。ただ本を読んでいたかったのだ。学校が終われば直ぐに帰って、家で本を読んだ。本は僕の家の近くに大きな本屋があるので、そこで買っていた。しかし、どの本も彼女から受け取った本とは違った。

その頃僕は彼女のことを忘れかけていた。あの動かない表情を強く思って夜に泣いて母を困惑させることもなくなっていた。それでも、僕は心のどこかで彼女を求めていたのだと思う。そう出なければ本を読み続ける理由が分からなかった。

きっと、彼女は僕の心の中で、あの落ち着いた雰囲気を守ったまま、そこにずっといたのだろう。だから、その冬の学校の最寄り駅であのトレンチコートを遠くに見かけた時、僕の心は締め付けられるように苦しくなった。遠くに、それも角を曲がるところだったので、本当に一瞬だけしか見えなかったのに、僕はあのトレンチコートが彼女であるとが分かった。僕は目を疑った。その一瞬がまずかった。トレンチコートはその角のどこにも見つからなくなっていた。しかしそれでも直ぐにその角へ向かって僕は走った。そして僕はそうか、この駅があの夢の駅だったのかと思った。なぜ気づかなかったのだろう?冬になるまで何度も通ったはずの駅の道を走る。人にぶつかりそうになりながら、苦しくて涙がこぼれそうになるのを堪えながら走る。僕は、孤独に苦しんでいたんだとその時自覚した。ずっと会いたかったんだ、彼女に。そして、聞きたかった。彼女が、僕に恋をしているのかと。

角を曲がる。すると遠くにトレンチコートの背中が見える。遠くに見える彼女の身長は思ったより高くなかった。あの夢を見たのは僕がまだ小さかった頃だから、背の高さを正しく見ることが出来なかったのだろう。彼女の大人らしさも、もしかしたらそういうことなのかもしれない、と思った。髪型はロングヘアだった。遠くからもその綺麗な髪が分かる。

涙が、視界を滲ませる。堪えていた涙は、耐えきれずに僕の頬を伝う。僕は走る。彼女まであと三四十メートルというところだろうか。彼女は突然立ちどまり、こちらを振り返る。彼女の顔が僕を捉えようとする。彼女は僕に何を語るのだろう?そう思うと僕の足は固まっていた。

彼女が僕に目を合わせる。あの時と何も変わらないあの表情で。その目の奥には確かに僕を捉えて、静かに何かを語るかのように。

僕は涙が止まらなかった。きっと彼女は僕の酷い顔を見ただろう。それでも彼女の表情は動かない。

彼女は目を合わせたまま、体を左に向ける。僕から見て左だ。そのまま彼女は近くの建物に体が吸い込まれるように入っていく。あっ、と思って僕はその建物に向かってかけていく。建物につくまでに涙は拭っておいた。もしかしたら彼女は僕の涙が見えなかったかもしれない。せめて彼女と顔を合わせて、初めてその声をきくまでしっかりとした顔をしていたいと思った。

建物にはドアがあった。彼女はどうやって入ったのだろう。もしかしてそれは見間違えで、彼女は近くの路地にでも入ってしまったのではないか?そうも思った。しかし、僕はその建物に入った。その建物は、本屋だったのだ。

本屋はあまり広くない。床も綺麗ではないし、本はところどころ埃をかぶっている。本屋の中に彼女は──いない。息を切らして店に入ってきた高校生を不審に思ったのか、店の店主と思われる五六十くらいのおじさんが僕をちらりと見る。僕は落胆した。彼女をまた見失ってしまった。あの一瞬、角で彼女を見かけた時に止まらなかったら。彼女が振り返っても全力で走って向かえば。そういった後悔から、僕はがっくりとして、近くにある柱に手をかけて項垂れる。項垂れて下を向いた僕の視界に、「文庫化!」と書かれたコーナーが目につく。そのコーナーの端っこにある、とある本が目につく。

『后が夢のあと』

この本が僕を惹いて離さなかった。

これはきっと、夢の中のあの本だ。そう思った。

きっと夢の中で彼女は僕に本を読んで欲しいと言うことを示唆していた。そして、この本屋で彼女の渡した本を僕が見つけることを確信していた。彼女は、そこまで確信していた。その理解は、彼女が僕に恋をしていると僕に確かめさせた。

彼女は僕に何かを伝えようとしている。

そのためにこの本を、文庫本という言葉で僕と結びつけた。

僕は、あぁと言った。僕は心から彼女に求められている。そう思うと、これまでの孤独が報われたような気がして、言葉が零れたのだ。店主は訝しんでもう一度ちらりとこちらを見る。涙を流しながら文庫本を買おうとする高校生に、店主はどういう顔をしていただろうか。僕はそれからのその本屋の記憶があまりはっきりしない。

電車の中で僕は、夢の中のことを思い出した。僕の使っている電車の車両は確かに白かった。しかしその車両は最近廃止されて、僕が高校生になる頃にはあの田舎を想起させるブレーキ音は聞こえない。

電車は夢の中と違い、八割程の座席が埋まっている。四人用の座席は片方の端が人で埋まっていた。僕は、もう片方の端に一つ席を空けて座った。彼女の無表情を噛み締めるように。


家に帰って本を眺めてみる。厚みは大したことない。せいぜい三百ページくらいだ。

本の内容はありきたりなもので、ある時代の后が天皇と幸せな生活を送るある日、夢を見て、その中の男に恋をするというものだ。彼女は夢のなかの逢瀬に期待をするも、夢になかなか男は現れない。そのうち彼女は家来をして夢を操るという物の怪を捉えさせ、その力を利用しようとする。しかし、彼女は物の怪の瘴気に冒され、色々なものを失っていく。彼女は声を奪われ、感情を奪われた。しかし彼女は心の奥底に彼に対する恋心を隠していて、物の怪の瘴気はそれを奪わなかった。さらに逢瀬を重ねていき、最後に彼女は夢から永遠に覚めなくなるというものだ。

出版されたのはその年の冬で、僕が夢を見てからちょうど二年経った頃だった。僕が夢を見たあの日、まだ本は文庫版ではなく単行本として出版されていたらしい。通りでこの本が見つからないわけだ。

そして彼女はきっと、僕に同じ運命を辿らないで欲しいと思って、最後の逢瀬と警告に来たのだろう。彼女が僕を好きだという推量は事実となった。

きっと、もう二度と彼女には会えないだろう。それはもはや拭いようのない事実だった。これ以上僕は彼女を求めてはいけない。そして、彼女ももう僕を求めることはできない。彼女はなんていったって、何百年も前に亡くなってしまっているのだ。それが本の中の出来事であれ。だが、今の僕にはこれだけで十分だった。彼女が僕を好きだ。それでも僕はひたすら泣いた。何時間も泣いた。泣き疲れて、いつ間に寝てしまったのだろうか、ふと目が覚めた。

今日から僕は一人の人間として、普通に生きていく。そう思うと寂しい気もした。しかしそれは彼女の望むところではないだろう。だから、僕は彼女の表情のことをもう思わなかった。しかし、彼女のことをもう忘れないように、あの本を何度も読んだ。その度に温かい気持ちになった。孤独はきっと、彼女があの路地裏にでも捨ててしまったのだろう。

それからよく僕は、もうセピア色でなくなった電車の四人がけの座席の端に座る。


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