ハリネズミのジレンマ-1
【忘れない。忘れられない。忘れてやらない。】
ぼくは、所謂。理系脳ってやつなんだろう。
物事を噛み砕き、自分好みに作り変え、言語化する。
勉強でいったら、「できる」より「わかる」だろうか。
自分で理解したものは、忘れない。
理解するということのひとつだけ見てみれば、
レベルをあげるのなら、肉体で、五感で感じるのが良いのだろう。
自電車の漕ぎ方や水の上での泳ぎ方。
これらは手続き記憶といって、
からだで覚えた「動作や技能の記憶」 長期記憶の一つで中々忘れない。忘れられない。
これらが忘れられない例としてよく挙げられるのはそんな理由があったからなのだとここで少し納得してみる。
考えることは嫌いじゃない、自分の事なら尚更。
勉強をしなければならなかったぼくにとっては、モチベーションの保ち方。つまるところ自分がなぜやる気を出すのか?という「なぜ」を埋めていくことで、勉強の役に立つのではと思ったことがある。
結局。勉強が辛くて、めんどくさかった、ぼくの暇つぶしだったにすぎないのだけれど。
実際。よく考えるということは、自分の「なぜ」を解決することは、自分の信念を探し出すには良い方法だと思う。
ぼくにとっては、「当たり前を大切に。」
「友達のハードルを上げろ。」
あたりだろうか。
一つ目は、中高一貫校だったぼくにとってはできて当然ともとれる当たり前の信念。
6年間近くにいれば、自ずとその景色が普通に思えてくる。
簡単なことじゃ切れない絆があると思っていたから、逆に一度溝ができたら二度と埋まらない気がして、普通が、当たり前が変わるのが怖くて。
そのために、溝が入らないように、優しさを習慣化して習性化しようとして、仮初の本能にしようとした。
溝があったら、橋を作ればいいのに、渡り方を考えればいいのに。
一緒に溝に飛び込めばいいのに。
結局。ぼくは臆病者だっただけなのだろう。
万物には終わりがある。それは長期記憶でさえも。
終わりがあるものが、終わってしまうことに納得できなくて抗って。
逃げた。
前を向けなかった。
こうなったらこうしようを考えなかった。
溝だけならよかった。
後悔した。自分で決めてしまった道なのに。
失ったらいけないものだと「理解」していたはずなのに。
失敗は成功のもと。
成功者は皆失敗している。
ゲームではない人生にとって、失敗できるというのは大きな意味があるのだろう。
成功者よ。一度しかない機会を壊してしまったら、次に活かせるのはいつなのでしょうか?
ぼくは、ぼくは。考える。
この手の結論としては2種類あると思う。
失うのが怖いからこそ、大切にする。
終わりがあるなら、初めからなければいい。
僕は、多分…。もう。
だから、ハードルを上げた。
友達と友達じゃないやつ、曖昧なやつ。
ではなくて
友達とどうでもいいやつ。
ある程度関わりがあるやつから仲が少し良さそうに見えるやつ。
こいつらはぼくの、何者なのだろうか。
わからないものは怖いから、捨てた。
「好きの反対は無関心」
よく聞く小言。
大切を増やしすぎると、よく失って、壊れてしまう。
だから絞るために無関心を、どうでもいいを増やした。
大切なものの重みがよりわかるような気がして。
それすら失ったら空っぽになるのを「解って」。
今思えば、僕は友達の上位しか残していなかったのだと思う。
あいつも友達で良かったなって思うやつも多い。
もう新しい普通をつくるのは難しい。
景色が変わらないから、友達の作り方を忘れてしまったみたいだ。
それは、理解してなかったからか。理解しようとしなかったからか。
ぼくはまた、環境のせいにしてみた。
しただけだった。
書いてみるだけだったのです。