祖母が守った墓という名の森を継ぐ
しいなここみ様主催『純文学ってなんだ?企画』参加作品です。
祖母はいつもそこにいた。
森の麓の一軒家。
森への入口。
家の脇には森へと真っ直ぐ続く道がある。
森なんだからどこからでも入れそうなものなのに、なぜかそこからしか入ってはいけないと感じる森への門。
「あたしはね。墓守りなんだよ」
祖母はよくそんな話をした。
私は正直、祖母が怖かった。
特別、孫に対して優しいわけでも怖いわけでもなかったけど、私はずっと祖母が少し怖いなと思っていた。
森の話。
お墓の話。
神様の話。
鬼の話。
人ならざる者の話。
いないはずの者の、ないはずのモノの話。
祖母はそんな話をよくしてくれた。
というより、祖母が語っていたのを私がただ聴いていただけのようにも思う。
とはいえ、幼い頃からそんな空恐ろしいような話ばかりされたら、子供心に怖いと思ってもおかしくはないだろう。
でも、私はそれでも祖母の家に通うのをやめなかった。
祖母の語る話に耳をふさぐことはしなかった。
怖がりながらも、心の中ではどこかもっと聴きたいという気持ちがあったように思う。
今思うと、それは畏怖だったのだと思う。
畏れというものを、私は祖母を通じて学んでいたのだと思う。
高校に通う頃には、私にとってソレは近くて遠い、怖くて親しい、隣人であって最果ての他人。
そんな存在になっていた。
私にとっての祖母がそうであるように。
「ねえねえおばあちゃん。なんでこの森は森なのに、おばあちゃんは墓守りなの?」
「それはね。この森全部がお墓みたいなものだからだね」
「でもこの森にはお墓なんてないよ?」
「ないさ。そんなものは遺してくれてない。
この森を守るということが、ここがお墓であるということなのさ。ここにあった証。ここであった証。ここがお墓だということを失わないために、あたしらはこの森を守り続けるんだ」
「んー、よくわかんない」
「そうだね。あんたがもしも、もしもこの森の墓守りをいつの日にか継ぐことになることがあれば、そのときは受け渡す者として、その全てを話そうかね」
「そっかー」
森のことは墓守りしかその全てを知らないらしい。
そして、それを継ぐ者にしかそれは教えることはないらしい。
でも、祖母はそれを誰かに受け渡す前に、この世を去った。
「どうするんだ! 墓守りをまだ受け渡してないぞ!」
「継ぐ者がまだいないのに墓守りが亡くなることなんてなかったのに!」
「どうするのよ! 誰かが森を継がなきゃいけないわ!」
「お、俺は仕事もあるし……」
「わ、私も、子供の面倒とか、いろいろあるし……」
「俺も……」
「私も……」
祖母の死後、親戚一同大わらわだった。
祖母のあとを、墓守りを、森を継ぐ者がいなかったからだ。
本来は自然と、森を継ぐ者が出るのだという。
そうして先代から墓守りの全てを受け継ぎ、やがてお役目を終えたとばかりに先代は穏やかに息を引き取るのだとか。
祖母が墓守りを継ぐ者が現れる前に逝ってしまったのには、何か理由があるのだろうか。
「ど、どうする? あそこは国も『分かってる』から売ることなんて出来ないぞ」
「そ、そんなことしたらどんなバチが当たるか!」
「国も我々に持っていてほしいから税もものすごく安いんだぞ!」
「だ、誰かが……誰かがやらなきゃ!」
「……私がやるよ」
「!!!」
「……」
自分で言って驚いた。
気付いたら口をついて出ていた。
まるで私じゃない私がそれを言ったみたいだった。
「ど、どうする?」
「で、でも、まだ高校生よ?」
「だ、だからこそ、時間はあるとも言える、ぞ」
「たしかに。それに、小さい頃からよく話を聞いていたようだし……」
「な、なにより、本人がやると言っているんだ」
「そ、そうね……」
皆は喜んだ。
もちろん、外面では心配していたけれど。
ちなみに同席していた両親も同じ反応だった。
祖母の直系ということで旗色も悪かったのだろう。
とにかく自分でさえなければ、という思いはこの場にいる全員が抱いていたように思う。
かくして、私は齢17にして祖母が守ってきた森への永久就職が決まったのだ。
一応、名目は土地の権利者にして管理人らしい。
森には山菜やキノコなどの山の幸に加え、一部珍しい植物もあるらしく、意外と来訪者は多いとのことだ。
私はそれらの一括窓口。
ようは受付のおばさんをやれってことらしい。
ごく稀に無断で森に入って、勝手に食材や植物を持ち去ろうとする人もいるみたいだけど、そういう人は放っておいていいらしい。
本当に滅多にいないし、いたとしても森から出られず、いつの間にかいなくなるから問題ないらしい。
「……なんか久しぶり」
祖母が住んでいた森の麓の一軒家。
古いのに古びた感じがしない。
祖母がマメに手入れしていたからだろう。
この家のすぐ近くには駐在所がある。
こんな田舎には珍しく、駐在さんが交代で一日中いてくれる。だから高校生の一人暮らしでも大丈夫だろうとのことらしい。
そもそも、墓守りにどうこうしようなんて輩はこの町には誰一人いないと挨拶したときに駐在さんが言っていた。
それでもちょいちょい様子は見に来てくれるみたいだから安心だ。
彼らが本当に心配しているのが何なのかは分からないが。
「ふう……」
家に荷物を置き、久しぶりに森に入ってみる。
祖母の容体が急変してからは来ていなかった。
墓守りの許可がなければ家族であっても森には入れないから。
「……変わらないな」
久しぶり、とは言っても一ヶ月も経っていないのだから当たり前ではあるのだけれど。
世の中の変化の早さとは違って、この森はずっと変わらない。
私が幼い頃からずっとその姿を変えない。
『変わらないことを守るのが墓守りの仕事だね』
祖母が言っていた言葉を改めて理解する。
変わらない、というのは言葉にするよりずっと難しい。
現役の女子高生として生きている私にはそれがよく分かる。
すぐに流行るしすぐに廃る。
昨日覚えた言葉が今日にはもう古いと言われることもままある。
時代の変化は早すぎる。
高校生のうちからそんなふうに感じていて、いったい大人になったらどうなってしまうのだろうと困惑することもある。
そんなときはよく森に来た。
祖母に話を聞いた。
『この森は変わらないよ。
変わらないようにしてくれたんだ。
だから私らはそれを変えないように守ってかないといけないんだ』
なぜだか、祖母のそんな話を聞くと安心できた。
変わらずにいてくれるもの。いつでもそこに在ってくれるもの。
それは、やはり人に安心を与えてくれるのだろう。
『でもね、それだけじゃ駄目なんだ。
安心だけじゃ、人はすぐに駄目になっちまう。
畏れがないと。
安心は時に牙を剥く。
畏れがあるから安心できる。
人ってのは、そういうふうにできてんだ』
『ふーん。めんどくさいね』
『ああそうだね。
面倒なんだ。面倒な生き物だから、いろいろ考えるんだ。本当に存在するかどうかも分からないものに畏れと希望を持つんだ。
この森もおんなじようなもんだよ。
面倒な人間のために用意してくださった畏れと安心の名残り。
だからお墓で、だから墓守りなんだ』
たぶん、祖母の話は半分も理解できてなかったと思う。
それでも、なぜか祖母の話はもっとたくさん聞きたかった。
聞き逃しちゃいけない気がした。
伝えなきゃいけないと思った。
「……最初っから、私を次の墓守りにするつもりだったのかな」
思えば、祖母がこんなにいろいろな話をしている姿は、他の親族がいるときには見なかった。
寡黙で物静かで威厳があって。
きっと、私以外の親族が祖母に抱くイメージはそんな感じ。
『おばあちゃんは、あなたには本当によくお話してくれるわね』
いつだったか、母がそう言ったのを覚えている。
祖母は、じつの娘である母にもあまり語らなかったのだ。
両親は、祖母が私に墓守りを継がせる気なのだと分かっていたのだろう。
祖母の死後、私が予定通りにそこに収まることになったから両親は安心した様子だったのだと今は思う。
「……静か」
森はやっぱり変わらずここに在った。
不変の墓。
静謐。
永遠の森。
そんな言葉がよく似合う気がした。
たまに手付かずの原始とか、手を加えてはならない聖域とかって言う人もいるけど、私はそれはちょっと違うと思う。
だって祖母は人の来訪を喜んだから。
ちゃんと受付を通せば、山菜や植物の採取に協力的だったから。
変わらないことを守るのは、変えてはいけないと禁じることではないのだそうだ。
『家だってね。人が住んで空気を通さないと死ぬんだよ。
この森はもうお墓だけど、それでもやっぱり人が訪れて新たな空気を届けてやるのも大事なんだ。
そして、この森の空気をその人たちが外に持っていくこともまた大事。
畏れは忘れられたら消えちまうからね。
これもまた、変わらないを守る墓守りの仕事さ』
「……」
森はやっぱり静かだ。
これから私が守っていく森。
畏れていく墓。
昼間なのに、明るくて暗い。
木漏れ日が、森に入る光を変わらないようにしてくれている。
「……」
ふと振り返る。
枝のあいだ。
根の隙間。
虚の黒。
切り株の上。
何もないそこに。
誰もいないそこに。
私たちは何を見るのか。
何を畏れるのか。
変わらないそれに、何を思うのか。
なんで安心するのか。
なんで畏れるのか。
なんで、それが必要なのか。
祖母から全てを継いでいない私には、すぐにその答えを出すことができない。
でも、ヒントはたくさんもらった。
たくさん話を聞いた。
考えよう。これから。
時間はある。
こうして森に佇みながら。
祖母のいた家でお茶を飲みながら。
いろんな人と話しながら。
ゆっくり。ゆっくり考えて答えを出そう。
答えなんてあるか分からないけれど。
答えを出すことが正しいのかも分からないけれど。
それでもいつか、私の中でそれが形を帯びてきたのなら、私もまた、次の誰かに話をしよう。
たくさんたくさん、話をしよう。
今は私の番だから。
次の番に引き継ぐために。
今は私が、この森の墓守りだから。