1-8 女神とデスクが隣になった
ひととおりの会社説明と事務所の方々への挨拶が終わった。
『才雅のデスクはこっちだよ~』と幼馴染に案内された席は月城さんの隣だった。
月城さん。
月城、なゆた。
一世を風靡した完全無欠のアイドルの頂点。
元・頂点。
現・会社員。
俺が人生を賭してハマりこんだアイドルは、引退後はこの事務所で働いているらしい。
(そんなこと、信じられるかよ……!)
頭の中で自問自答と自己不信を繰り返したが。
目の前に存在する【月城なゆた】本人という御本尊様が発する御威光の前においては。
(うわああああ、本当に隣におわするううううううう)
などとガクガク脳みそを揺らす以外ないのであった。
「……って、俺の席、ここ?」
「うん!」晴海がにっこり頷いた。
「つ、月城さんの、となり?」
「うんうんっ! 今、マネ部の島が空いてなくってね~しばらくここ使ってちょ~」
そのまま晴海は通路を挟んですぐ後ろのデスクに、すとんと座った。
ちなみにマネ部というのは『マネージメント部』――俺の配属先の部門だ。
どうやら俺は担当アイドルを受け持ち『マネージャー』として働くことになるらしい。
いや、今はそんなことよりも(それも俺にとってはかなりの大事なのだが)。
――月城なゆたとデスクが隣になった。
あれだけ手を伸ばしても届かなかった存在が。
俺にとっては月に宿る【女神】のようなお方が――〝隣の席〟だ。
そこには壁も宇宙間物質もなにもない。手を伸ばせば簡単に触れられる。しかし今おもむろに触れてしまったとしたら変質者扱いされて懲戒免職→さらに訴えられて豚箱行き、なんてことを防ぐために俺は全神経を払う必要があった。
すうううう。
ゆっくりと息を吸い込んで、さっきから破裂しそうな心の臓を落ち着かせていると。
「あ……ごめんなさい。私の隣しか空いていないようで」
女神が謝ってきた。
勘弁してください! 謝らなくちゃいけないのはこちらの方です、同じ空気を吸っててごめんなさい!
「い、いやっ! ぜ、ぜんぜん……よ、よろしく、お、お願いします」
全部の冒頭でどもった。
「わわ~才雅が緊張してるなんで珍しいね~」
そりゃ神を目の前にしたら誰だって緊張をする。
しかし……このままじゃマズイな。
俺はあくまでここでは〝アイドルには興味のない〟キャラクターで通さなければならない。
ちなみに座右の銘である『律儀・勤勉・目つき悪い』は、幼馴染である晴海が事務所中に言いふらしてくれたおかげで社会人生活にも引き継がれた。『マフィアのカリスマ気取ってる若手構成員みたいでちょっと近寄りづらい雰囲気だけど、中身はいい子だからよろしくです~』というアフターフォローまで晴海はしっかりしてくれて、事務所のみんなに温かく(?)迎え入れられた矢先のことだ。そこに『実はアイドルの、しかも【なゆた様】オタでした!』という追加情報が付与されると、なかなかに居心地が悪いことになる。
「い、いや……き、緊張は、し、していない」
思いっきり緊張していた。
――落ち着け。俺はアイドルには興味がないただの一般人だ。前の会社が入社当日に潰れて、たまたま拾ってもらった会社に忠誠を尽くすことを決めた、律儀で真面目な新社会人だ――
言い聞かせるようにしてから、頭の中であの時の記憶を引き出してやった。
すっかり凍っていると思っていた氷上を踏み抜いて、ひどく黒く冷たい池底へと沈んでいく時の光景だ。
全身の汗が一気に引いていく。呼吸が酷くゆっくりになる。心臓の脈が止まるかのように静かになる。頭の中がなにも考えられず真っ白になっていく。
荒療治ではあったが、それは幾分か荒ぶった感情を冷ましてくれた。
「………………」
俺はすっと自分のデスクに座って。
左隣の月城なゆた――これから【同僚】となる月城さんに向かって、きわめて平静をつとめて言った。
「あらためて――これから、よろしくお願いします。月城さん」
今度はちゃんと言い切れた。
「はい……お願いします。中本さん」
ぺこん、と女神は頭を下げた。