1-7 月が俺に落ちてきた
スーツのズボンはおしゃかになった。
正確には海水を吸って一晩放置したのと力任せに絞ったことにより、クリーニングに出さないと修復不可能な状態になってしまったのだった。『ラフな格好でいいよ~』と晴海から言われていたのが救いだった。チノパンに上着は白シャツとジャケットという一応はオフィスカジュアルな格好をして俺は晴海の勤め先へと向かうことにした。
「ここがウチの会社が入ってるビルだよ~」
晴海とは駅前で待ち合わせをした。
歩いて5分ほど行ったところにある綺麗な大型ビルを指して彼女は言った。
「ここの1フロアを借りてるの~」
1階の受付で入館証を手配してもらい、電子式のゲートをくぐって、慣れた様子の晴海のあとについていった。
(小さな会社と言っていたが……セキュリティやオフィスの綺麗さは、働く予定だったコンサル会社と変わらないレベルだな……)
エレベーターは12階で止まった。降りた先で飛び込んできた企業のロゴマークと名前に――俺は見覚えがあった。
「……え?」
背筋に冷や汗が伝う。目には力が入ってしまう。きっといつもより三白眼が強調され、いっそう近寄りがたいオーラを放っていることだろう。
だが安心して欲しい。俺は決して何かに対して怒っているわけではなく……焦っているだけなのだ。
(いや、そんな……まさかな)
冷や汗がだらだらとシャツの内側を湿らせていく。
ひとまず深呼吸。何かの勘違いではないかと入念に周囲を確認をする。
しかし目の前を歩く晴海は、その見覚えがありすぎるロゴの入った壁に挟まれた廊下を、鼻歌を歌いながらすんすんと進んでいく。
「「あ、おはようございます‼」」
廊下の向こうから元気な声が響いた。
甲高く可愛らしいフレッシュな挨拶だ。歩いてきたのは4人組の女の子だった。
サングラスや帽子、マスクで表情を隠しているが――明確に一般人でないオーラが漏れ出ていた。
(うそ、だろ……⁉)
その4人組にも見覚えがある。
テレビやSNSでよく見かける、最近出てきたアイドルユニットの御面々だ。
(つうことは、やっぱりまさか――)
彼女たちの元気な挨拶に対して、晴海はひとつの動揺も見せることなくいつもの感じで『おはよ~』と手をひらひらさせながら返していた。後ろをついていた俺も慌てて会釈だけする。『おはようございますー!』と彼女たちはしっかり俺にも挨拶を飛ばしてきた。「……オ、オハザマス」と呟いたがおそらくもごもごとしていて相手には伝わっていないような気がした。
「到着~ここがウチらのオフィスだよ~」
ばーん、と手を広げながら晴海は言った。
入口の壁にはさっきと同じロゴと『株式会社コスモス・プロダクション』の文字があった。
「えへへ~才雅はそういうのに詳しくないから知らないかもだけど、ウチは【芸能プロダクション】なんだ~」
知っている。とてもよく。当然だ。
だってこの『コスプロ』は――あの【月城なゆた】が所属していた事務所なのだから。
「気になってたのはね……前に才雅、あんまりアイドルとかそうゆうの興味ないって言ってたから、ええと、その~……」
晴海が指先を胸の前で絡めた。
――アイドルなんてくだらない。友達でも知り合いでもなんでもない人を追っかけて何が楽しいんだ。
いつかの飲みの席で晴海にそう豪語したことを思い出す。
――ごめんなさい! めっちゃ楽しかったです! 人生観が変わるくらいには‼
……なんてことは、もちろん今ここでは言えなかった。
晴海は続ける。
「でもでも! 知らない、ってことの方が武器になることも多いし。特にこの業界だと、見た目だけはきらきらしてるから憧れだけで入ってきたり、ファンであることを隠して入社してきたりもあるんだけど……現実の仕事とのギャップですぐ辞めちゃう、って人も多いんだ~。だから……その点、才雅なら大丈夫かなあって思って……どう、かな?」
うむ、とか、ああ、とか。
多分曖昧に返事をして頷いたのだと思う。あまり記憶が定かでなくなるほどに、俺の思考は混乱している。
俺なら大丈夫って――いや、まさしく俺自身が〝(元)アイドルファン〟なんだが大丈夫か⁉
いずれにせよ、そのことはどうにか晴海を含め会社の人には隠し通す必要がありそうだ。
「ほんと⁉ よかった~『やっぱりやめる』って言われたらどうしようかと思った~」
ふやふや~、と晴海は安堵して胸をなでおろしている。
一方、俺の胸は心臓の鼓動ではち切れそうになっている。
そして。
朝起きたら北海道と九州の位置が入れ替わっていたかのような混乱の最中にある俺のことを。
さらなる〝混沌〟の中に突き落とす出来事が――このあと、起きる。
「わわ~、ごめん! 大丈夫だった⁉」
どん。
オフィスに背を向けて身振り手振りしていた晴海に〝ダレカ〟がぶつかった。
ばさり。
そのダレカが手にしていた書類が床に散らばる。
眼鏡をかけたスーツ姿の女性だった。
「……はい、大丈夫です。こちらこそごめんなさい、私の不注意で」
俺たちは拾うのを手伝った。
『ごめんねごめんね~』と謝りながらも晴海は続ける。
「あ、そだそだ、ちょうどよかった! ねえねえ。アイドルに詳しくない才雅でも、月城なゆたちゃんは知ってる~?」
どくり。その名前が出てきたことで俺の心臓はさらに跳ね上がった。
こくり。続いてまた曖昧に頷いてやる。
「よかった~! ウチはもともと月城なゆたちゃんの所属事務所だったんだ~」
晴海は満足そうに微笑んで。
続く言葉で、メガトン級の爆弾発言をぶっ放してきたのだった。
「そしてコチラが――その月城なゆたちゃん」
「……へ?」
俺は書類を拾っていた手をぴたりと止めた。
晴海が『コチラ』と手で示した方向にいる女性に目を向ける。
あらためて目を向ける。しっかりと目を向ける。
そうしたらもう――俺の目は間違うはずがない。
「………………」
グレーのジャケットに腰元からまっすぐ膝元に落ちるスカートスーツ。
黒い縁取りの眼鏡をかけ、化粧っ気はいつもより薄めだったけれど。
その眼鏡の奥にある、すべてを吸い込んでしまいそうな幻想的な瞳を。
海と同じ色のインナーカラーが入った、見事なまでの黒髪を。
人が踏み入れない渓谷にしんしんと積もった白雪のような柔肌を。
何万回と見てきた彼女の象徴を。
俺が見間違えるはずがない。
目の前の彼女は、どうしたって間違いなく――【月城なゆた】だった。
「……はじめまして。月城です」彼女は何万回と聞いた声で言った。
「アイドルを引退したあとね、ウチと一緒に事務のお仕事で働き始めたんだ~。あ、こっちは中本才雅! ウチの幼馴染で、今日から働くことになったんだよ~。さっきも言った通りあんまりアイドルには興味がないらしいんだけど……仕事はきっと! ……たぶん? えへへ。ばっちりできるヤツだから、なゆたちゃんも仲良くしてあげてね~」
「はい。よろしくお願いします――中本さん」
「――っ⁉」
名前を呼ばれて全身の冷や汗は吹き飛び、呼吸が刹那止まるかと思った。
わなわなと激しく震える唇と喉から、どうにか自然な挨拶を絞り出す。
「ハッ! ハジメマシテ……月城、さん」
4月2日。
世界が終焉した翌日。
――その日、月が俺のところに落ちてきた。
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