1-5 ムーンサイド・ドリーム
まだ俺が小さかった頃。
小学生の中学年だっただろうか。
冬の池に落ちて溺れ死にかけたことがある。
なにも自ら飛び込んだわけじゃない。
稀に見る寒波が襲ったその日、友人たちと近所の池に出かけたところ、表面が凍って固まっていた。
目の前で箸が転がれば絶叫しながら折るような年頃の俺たち小学生男子は当然その上でスケートの真似事を始めた。
池の奥まで行ったあたりが薄氷だった。奥から流れ込む水の温度が高く、その近辺だけ表面の氷が溶けていたらしい。
俺の足は氷を踏み抜いて、ばりん。真冬の極寒の空気の中――暗くて深い水の底に落ちていった。
以来、それがトラウマとなり俺は泳げなくなった。
* * *
「そんな俺が、今こうして海辺に来ているわけだが」
時間は夜。西の空の低いところに半分の月が取り残されたように浮かんでいる。
場所は都内でも珍しく砂浜のある海岸だ。当然海開きなんてものはまだまだ先で、おまけにこんな時間になれば訪れる人もいない。俺ひとりの貸し切りだ。
「終わったんだ……ぜんぶ……なにもかも」
独り言ちた声は海風と砂音が混じりあった中に放り出されて、引いていく波の中に紛れて消えた。
心の拠り所であり青春であり〝人生のすべて〟であった偶像を失い。
心機一転し清らかな気持ちで臨もうとした社会人生活も失った。
(ついでに住む家も失った。猶予として与えられた一週間で社宅から出て行かなければならない)
「もう、どうにでもなってくれ」
そんな気持ちでこの海岸を選んだのには理由がある。
ここは月城なゆたのデビューシングル『ムーンサイド・ドリーム』のMV撮影場所だった。
画面に焼き付くくらいに再生したその海岸線から海に向かって――俺は駆け出した。
「うわああああああああああああああああ……!」
ふだん大声を出し慣れていないせいで、語尾は掠れてしまった。
思えば全力疾走したことなんていつぶりだろうか。砂は思ったよりも湿度を含んでいて固く、絡めとられることはなかった。
それでも、ざぶん、ざぶん。足元に波の水がかかると、湖の底に沈んだ時の記憶が蘇ってきて背筋が冷えた。
――だめだ。
気持ちの上では海に向かって駆け出していても、身体が。心が。
水波に囚われてしまうことを拒否していた。自然と歩は緩まって、膝元が浸かったくらいのところで完全に止まった。
「……っ」
海辺に焼き付けられたように在る【月城なゆた】の幻影に手を伸ばすが届かない。
白い砂浜から少しでも離れてしまうと、海と夜空の区別はほとんどつかなかった。
暗い闇の中に、俺を冷笑するかのように半分に欠けた月が浮かんでいる。
「はは……俺は何がしたいんだ」
そのままトボトボと波打ち際から帰還する。
浸かった革靴と水を吸ったスーツのズボンとで足取りは物理的に重い。
すこし離れた砂浜にどかんと腰を下ろして、そのまま大の字に寝っ転がった。
ずぶずぶの下半身と、水しぶきで湿った上半身に砂がべったりとまとわりつく。
おまけに海風が吹いて周囲の地面を巻きあげた。
砂が顔にかかって目に入る、口に入る、鼻に入る。
染みて涙が出る、ざりざりと歯と舌をやする、たまらずくしゃみをする。
そんな哀れな俺のことを、やっぱり月は空からあざ笑っていた。
「ほんとに、何やってんだ……」
革靴を脱いで中に入り込んだ海水と砂を落とす。
一応まわりを確認して人気のないことを確かめてからズボンを脱いで絞る。真新しいスーツに網目状の皺ができた。
露出した下半身――その太ももには傷跡がある。それを目にした俺は【あの時】のことを思い出さないわけにはいかなくなる。
空に浮かぶ月。
別世界の偶像。
会いに行けないアイドル――月城なゆた。
――そんな遠い存在であるキミに、一度だけラインを越えて近づいたことがある。
初めてのワンマンライブの時。
俺は最前に近い列でキミのことを応援していた。キミに向けて声を荒げ、ペンライトを捧げていた。
終盤に差し掛かったその瞬間。前方のセットが傾いてキミはバランスを崩し、ステージ下に落ちかけた。
反射的に。俺は腰元の高さの柵を薙ぎ倒してキミのことを救おうと前に飛び出した。
結果として。
彼女は下に落ちることはなく、どうにかステージ上で踏みとどまったのだけれど。
俺は客席の前線でちょっとした騒ぎを作り出してしまった。
状況は理解されているとはいえ、ファンのひとりが柵を倒してステージに近寄ってしまった形だ。
すぐさま警備員がやってきたけれど、キミはプロだ。
一瞬だけこちらに目をやってから、すぐにライブの続きへと戻った。
けれど。
一瞬。その刹那。
俺はステージ上のキミと目が合った。
心配そうな瞳で俺のことを見てくれた。認識してくれた。
思った以上に足から〝血〟が流れていることには、相当遅れてから気が付いた。
俺は警備員に肩を支えられる形で場外に出て、近くの病院で7針縫った。
――これはその時の傷だ。
「思えば……あの一瞬が忘れられなくて、俺はキミにさらに落ちていったんだ。もう戻ることができないところまで」
数秒にも満たない、ほんの刹那の視線の交錯。
それでも、その一瞬の出来事のことを。
もしかしたら――キミは覚えていて。
いつかのどこかで、キミとボクは出逢って、どうにかなるんじゃないかと。
そんな糸のように細い未来を。
都合の良い妄想を――俺は夢見ていなかったかといえば嘘になる。
「でも……やっぱり、そんなわけはなかった。月には手が届かない」
俺は実際に空に浮かぶ半月に向かって手を伸ばしてみる。
掌で掴む。開く。そこには月はない。砂だけがさらさらと指の隙間から零れ落ちていくだけだ。
そしてさらなる〝深み〟に落ちていけばいくほどに――月との距離は遠くなるばかりだ。
「……っ!」
〝推しの感情〟と〝恋愛感情〟は別だと俺は考えていた。
でも……今ならどうしようもなく分かる。
「俺は――月に恋して。月とどうにかなりたかったんだな……」
けれど実際は。
俺からしたらこの世にたったひとつの――自分のすべてを投げ出しても構わないと思えるほどに夢中になれた【月】だったけれど。
月からしてみれば、俺は空に浮かぶ無数の星の。たまたま近くにあった青い星の。茶色い大陸の。小さな島国の。海岸線に佇む。砂粒よりも小さな存在にしか過ぎない。
そんな俺のことを、月が見つけてくれるわけもないし。
あまつさえ一緒にどうにかなるなんてこと――それこそ天と地がひっくり返ったってあり得ないことだ。
近くに見えるのに――決して届くことのない存在。
月の傍で見た夢は、儚く散る運命にあった。
「そんなのは最初から、当たり前に決まったことだったんだ……」
そうして今。
光を失った小さな小さな存在――俺は。
こうして夜の海岸を訪ねて。
一体どこに向かおうとしているのか?
自分でも、分からなかった。