3-2 今日はうちに帰ります
「お……おはよう、ゴザイマス」
オフィスに到着した俺のカタコトの挨拶に。
「おはようございます――中本さん」
既に出社していた那由が、当たり前のように返してくれた。
彼女は机に座って、ノートパソコンの画面を何やら熱心に眺め、時折思い出したかのようにキーボードをタイプしている。
いつもの会社のいつもの風景だ。
「つ、月城さん……!」
俺は隣である自分の席に座って。
思い切って、彼女に声をかけてみた。
「……なにか?」
那由はどこか困ったような声色で俺に言った。
「ああ、いやっ! ……なん、でも」
話しかけてみたはいいものの……〝あんなこと〟があった次の日に、どんな言葉をかければいいのか。
俺には適切な台詞が思いつかなかった。
「やっはー! 才雅!」
そこに我が幼馴染で同僚の江花晴海がやってきた。
場に満ちていた冷たい空気を吹き飛ばすかのような、晴れ晴れとした笑顔を浮かべている。
「あれあれ? どしたの~、才雅? 目も真っ赤だし、ひどい顔してるよ~」
晴海は自分の目を指で広げるようにして言った。
「む。――き、気にしないでくれ。もともとこういう顔だ」
「そかそか、確かに~」と晴海は無邪気に笑った。「あ、なゆたちゃん! これ、【忘れ物】~」
「え?」
その流れのまま、彼女は隣の那由にあっけらかんと話しかけた。
手には兎のモチーフが象られた髪留めがある。
「昨日はウチで〝お泊りデート〟したんだもんね~。えへへ~羨ましいでしょ~」
俺の肩を肘でつつきながら晴海は言った。
「お泊り、デート?」
「うんっ。楽しかったね~」
「そ、そうですね……」
那由は悪戯が見つかった子どものようなばつの悪い表情を浮かべた。
身体は晴海の方を向いているが、視線は膝の上でゆらゆらと揺れている。
「あ、良かったら今日も来ちゃう~? ウチは大々々歓迎だよ~」
晴海の提案に。
「あ、いえ――」
那由は膝の上の拳をきゅっと握って答えた。
「今日は……自分のうちに帰ります」
* * *
「「………………」」
マンションのリビングには気まずい沈黙が流れていた。
壁にかかった時計だけがかっちんこっちんと無常に時を刻んでいる。
俺が夜遅くに帰宅すると、今日はきちんと那由はマンションの中にいて、リビングのソファに座っていた。『た……ただいま』とは言ってみたが――那由は気まずそうに一瞬視線を交わしただけで、そのあと自らの足元を見つめて黙り込んでしまった。それ以上かける言葉も見つからず、俺はひとまず自分の部屋に戻ろうとしたが――
――今こそ、行動して関係性を変えなければならない。
そう思い直して、粘度の高い液体のように重たい空気に満ちたリビングの中を、一歩ずつかき分けるように進んで。
那由からすこし離れたソファに腰を下ろした。
「「………………」」
そして、沈黙。
気まずさがふたりの間にある壁をどこまでも高くしていく。
リビングの天井灯は点いていなかった。廊下とキッチンの灯りだけが点いていて、ソファの周囲をどこかの路地裏のように薄暗く照らしている。
開け放されたカーテンの先の窓からも月明りが差し込んでいたが……いずれにせよ、ふたりの間のわだかまりを溶かすには随分とひ弱だった。
そんな気まずさを打開すべく、
「「あ、あのっ!」」
どちらかともなく声を発した。
「あ」「あ」
ふたりの声が合わさった。
「すみません、どうぞ……」
「いや、那由の方こそ……先に」
「いえ、才雅さんの方から」
才雅さん、と名前を呼んでくれたことで俺はいくぶんか安堵した。
すくなくとも夜の灯りよりは明確に、この場に満ちた重たい空気を溶かしてくれた。
「分かった。それじゃあ、俺から先に」
こほん、とひとつ咳をして。
「俺は那由に、伝えなくちゃいけないことがある」
俺は意を決し、昨日から自分の中に溜まっていたすべての靄を絞り出すように言った。
「……してないんだ!」
かちん。
ちょうど壁時計の長針が動いた。
「……え?」
那由は俺の方を見て目を二三度ぱちくりとさせた。
俺は続ける。
「唇には、触れてない。だから――キスは! してないんだっ……!」
息を途切れ途切れにさせながら――俺は言い切った。
ごくり。空気を飲み込むと、乾いた喉を通り抜けてひりひりと痛んだ。
そうだ。していない。
俺はリリに口を寄せようとして、直前で思いとどまった。
「………………」
俺は那由に、そこまでに至った経緯を簡単に説明した。
初めてのお酒を誰かと一緒に飲みたかったリリに、俺が付き合ったこと。
俺と那由が【一緒にいる写真】を撮られていたこと。
そして。
リリが自分の中の理想のアイドル像に近付くために――キスを要求してきたこと。
『これは仕事なんだ』と危うく納得させられそうになったが……そんなわけがない。
明らかにマネージャーの業務範囲を超え過ぎている。
アルコールで揺れる思考をどうにかまとめなおし、『やはりキスなんてできない』とリリを説得しようとしたところで――
那由がやってきたこと。
背後から見ていた那由からすれば。
そりゃあもう〝キス〟をしているようにしか見えなかったかもしれないが。
「それが、私に伝えたかったことですか……?」那由は小さな声で言った。
「ああ、ぜんぶ誤解なんだ。それでも、実際に――〝浮気に思われかねない〟状況を作り出したのは俺の責任だ」
だから――俺は謝った。
「ごめんなさい! もう、二度としませんっっっ‼」
手をつき膝をつき足をつき頭をつき。
見事なまでの五体投地を俺は行った。
――俺は那由と結んだ〝恋愛契約〟に対する認識が甘かった。
実際、思いとどまり未遂に終わったとしても。
俺は【那由以外】のだれかと〝唇を触れさせようとする雰囲気〟を醸し出してはならなかったのだ。
――なぜなら、それが【恋愛】というものだから。
それが特定のダレカと〝彼氏彼女〟の関係になるということだから。
練習だからなんて関係ない。
相手を不安にさせたり、嫌な想いにさせる可能性のある行為は――例えどんな形であれ、するべきではなかった。
俺は反省の意を全身から滲ませながら、目の前の那由に謝った。




