1-3 月を失った俺のラプソディー
「ちょっと~、才雅~だいじょうぶ~?」
「おおう……ワインでも焼酎でも……持ってきやがれい……ヒクッ」
「わ~ぜんぜんダメみたいだ~……!」
飲み会帰り。
俺は幼馴染の晴海に介抱されながら家路についていた。
「てかてか! ウチじゃなくて才雅が潰れるなんて珍しいね~ハジメテ見たよ~」
――月城なゆたの芸能界引退。
飲み会の最中に、そんな〝俺の世界の崩壊〟としても過言でない衝撃的なニュースを知った俺はしばらく呆然とし、その後ふらふらと座敷内を彷徨い出すと、残っていたアルコールをピッチャーごと飲み干して回ったらしい。その後も意識自体はあったようだが……記憶が飛んでいる。気が付けばこうして晴海の肩を借りて夜道を歩いていた。空にはどんよりとしたぶあつい雲がかかっていて、月はどこにも見えない。
「なんでいきなりあんなことしたのさ? やっぱり飲み足りなかった~?」
「……なんでも、ない……ヒクッ」
肩に回された晴海の腕から、彼女のぬくもりが伝わってくる。
アルコールによるものだろうか、彼女の肌は火照ってしっとりと汗ばんでいる。
……うう、情けない。いくらショックだったからって、何やらかしてるんだよ、俺。
「ほらほら~才雅の新しいお家ついたよ~! 自分で住所言ってたけど、ここで合ってる~?」
合っていた。
記憶は失っているが、その間もどうやらまともではあったらしい。
俺は鞄から鍵を探し出して手に取ってがちゃり、扉のノブを捻った。
「……うん?」
「え?」
玄関に進もうとして足を止めた。
……なんか晴海がふつうに中に入ろうとしてきたんだが。
「なんでお前も俺の家に帰る気満々なんだよ」
「これから飲み直すのかな~と思って」晴海は悪気ゼロの笑顔で言った。
「一度潰れた俺にさらに追い打ちかける気か⁉」
「才雅、もともとお酒は強いし今も結構元気になってきたし。飲み足りないかなあと思って、えへへ~」
「えへへ~じゃない! 飲み足りてないのはお前だけだろうが……」
一瞬、別に飲み直すのも良いかと思いかけたが慌てて首を振った。
こいつを今の〝俺の部屋〟に入れるわけにはいかない。そこには海よりも深く山よりも高い理由がある。
「じゃあ、ここで……さんきゅな」
「ふえふえ?」
「可愛く首を傾げても無駄だ」俺は溜息を吐いてから告げる。「お礼は今度、あらためてする――助かった」
「お礼⁉ やたやた~! どこのお店にしよっかなあ」
彼女はどこかで一杯奢ってもらう気満々だったが、冷静に考えたらこれまでの人生においては【潰れた晴海】を俺が送って帰ったことの方が100倍多い。
それにこいつに酒を奢ることになったら絶対に〝一杯〟で済むわけがない。下手すると店の在庫全部飲み干す可能性だってある。〝池の水全部抜く〟ならぬ〝店の酒全部飲む〟――そんな酒女神に酒を奢れるほど今の俺の金銭に余裕はない。しかし――
「……ほれ」
「ふえ?」
俺は財布から札を取り出して晴海に手渡してやった。
「タクシー代。すぐそこの大通りで捕まるはずだ」
「え~! いいよいいよ、気にしないでよ~まだ終電あるし」
「心配なんだよ……俺といる時に限界近くまで飲むお前はどこで何をしでかすか分からないしな」
俺は溜息を吐きながら言う。
これは自分の情けなさに対する嘆息だ。
「一度は〝潰れても送る〟と送迎隊長を任命されたんだ。その約束を反故にしちまった分は、埋め合わせさせてくれ」
「才雅――えへへ~やっぱり優しいね~」
晴海は受け取った札を何故か胸元に挟んだ。『ここだったら落とさないし忘れないかな~って』と爽やかな笑顔を浮かべているがやめてくれ! 完全にそういう店で渡したチップみたいになる!
「……ったく、もう」
「んじゃんじゃ才雅、またね~! ちゃんとウチがいる時しか、あんな無茶しちゃだめだよ~」
「それは俺の台詞だ……気をつけて帰れよ」
こっくり。
晴海は大きく頷いてから、ふと胸の前でもじもじと指を絡ませてきた。
「ねえねえ、才雅!」
「うん?」
「えとえと、その……やっぱりやーめた! なんでもないよ~!」
「……なんだよ、それ」
俺はふたたび溜息を吐く。
今度のはちゃんと、晴海の思わせぶりな態度に対しての嘆息だ。
「今言っても、ふたりとも覚えてなさそうだしね~えへへ~」
彼女は何やら小さく呟いてから。
片方の手を目の上にかざして、ぴしっと敬礼のポーズをしてきた。
「これにて任務完了でありますっ」
俺はこほんと咳払いをひとつして、「ご苦労だった。褒賞は後に与える」
「はは~ありがたき幸せ~」
なんか時代劇が混ざってきたが、晴海はくるりと反転してふらふらとした足取りで去っていった。あれは酩酊レベルでいうと8くらいだな。
あと〝2〟分を飲むと段階が〝泥酔〟にスケイルアップする。その時は……ここまで送ってもらってなんだが俺自身がアイツを家まで送り届けるつもりでいた。
……が、今の感じなら大丈夫だろう。一応はエレベーターに乗り込むところまで見送ってから(最後にも、またこっちを振り向いて笑顔でふりふりと手を振ってくれた)、俺は玄関へと入った。靴を脱いで上着を廊下に放り出すと、ちゃぽん。その先で何か水音が立った。
「水……あいつ、買ってくれてたのか」
上着のポケットにペットボトルの水が入っていた。付せんには可愛らしい文字で『今度どっちが強いか飲み比べしようね~』と書かれている。そこは仮にもいったんは酔いつぶれた俺に対する心配の言葉じゃないのかよ! と脳内で突っ込みを入れつつ、ありがたく蓋を開けて水を飲んだ。
* * *
1Kの廊下を進んで突き当りのドアを開けて右側の壁にあるスイッチを押す。
ぱっと一瞬で天井のLED灯がついて、部屋の全貌を露わにした。
俺が晴海を中に入れたくなかった理由。
――それはどこをどう見渡しても【月城なゆた】一色に染まったこの部屋だ。
ポスターにタペストリー、ライブTシャツにタオル、ランダムチェキにアクリルスタンド、キーホルダー、写真集……。
――アイドルなんてくだらない。友達でも知り合いでもなんでもない人を追っかけて何が楽しいんだ。
いつかの晴海との飲みの席(もちろん、俺がまだアイドルにハマる前だ)で、そう豪語していた俺の部屋がこの有り様なんて、彼女に向ける顔がない。
だけど俺はその〝楽しさ〟を知ってしまった。友達でも知り合いでもなんでもない――届くことのない世界にいる人間を追いかける楽しさを。
彼女が放つ光に身を委ねる快楽を。どうしようもない美しさに触れる喜びを。それらの成長を俺自身の目で見届ける感動を。
俺は、知ってしまった。
だけど。
俺が追いかけていたそんな存在は、もうどこにもいない。
彼女は引退しアイドルで在ることをやめてしまった。
俺は手を伸ばす先の〝月〟を失った。
真っ暗闇の空だけが目前に広がっている。
――俺はこれから、どうすればいいんだろう。
気づくと俺はベッドにもたどり着けず、そのまま床に突っ伏して寝てしまった。
――月城なゆたという、失われしアイドルの肖像に囲まれて。
* * *
翌日。
俺は部屋のグッズをすべて片づけた。