2-17 ここでキスして
「ねえ、才雅。リリと今ここでキスして」
窓から差し込む夕日で真っ赤に染まる部屋の中心で。
俺はそんな命令を担当アイドルからくだされていた。
「はああああ⁉ なにを言ってるんだ‼」
「リリ――本気だから」
ぐっ、と彼女は瞳に力をこめて言う。
「今のままじゃダメなのっ! 今のままのリリじゃ――総選挙で圧倒的な1位を取ることはできないの。伝説のアイドル・月城なゆたを越えることはできないの――だからね、リリはここから次のステージに行く必要があるのよ」
「そのために必要なリスクってのが……キス、なのか……?」
こくり。
リリは下唇を軽く噛んで頷く。
「リリが理想とする【風桜リリ】はね? ファンのみんなのことを〝ドキドキ〟させなきゃいけないの。それがリリの理想のアイドル活動なの。なのに――最近、リリ、心の底からドキドキしたことってなくて……わるいことをしてみたかったのも、それが理由」
俺は中途半端に両手をあげたまま動けないでいる。
橙色の空気にリリの砂糖のように甘い香りが混じって届く。
「それでね、実際に才雅と一緒にこっそりお酒を飲んでみて。イケナイはじめての飲み会をして。リリ、それだけでも結構ドキドキしたんだよ……?」
上目遣いでリリが言う。
窓辺から吹いた風が卓上をさらい、缶に刺さっていたストローを揺らせてかたかたと音がなった。
「才雅は……? ドキドキ、しなかった?」
「……‼」
そんなもの、と俺は思う。
仕事上の担当アイドルとはいえ、制服姿の美目秀麗な少女に迫られて。
間接キッスまがいのこともして。
(ドキドキしないわけが、ないだろうが……‼)
正直に言えば、今この瞬間こそが最高潮だ。『那由という存在がありながら』と不貞を指摘されるかもしれないが。それでも、これまでのリリとのアレコレに対して、いち成人男性である俺がひとつも胸を高鳴らせるなというのは無理な話だ。
それに――この一連のリリとの流れは、俺にとって〝仕事〟の一環でもある。
リリが俺にお願いをする。叶えられる。喜ぶ。仕事もうまくこなしてくれる。
ふむ。
やはりどこまでもシンプルで合理的な循環だ。
「ねえ、才雅――キス、して?」
リリは熟れた果実のような赤に照らされる部屋の中で、俺との距離をゆっくりと縮めてくる。
ツインテールがふらりと儚げに揺れる。まるで夕焼けの中に溶けていく幻みたいだ、と俺は思った。
それでもリリは確かにそこに存在している。
夢ではなく現実としてこの場所に立ち、俺にキスを迫っている。
「そ、……そんなことっ!」
俺はようやく声を絞り出すことができた。
「できるわけが、ないだろう……!」
例え相手からの要望だろうが、そんなに簡単にキスなんてできるわけがない。
第一、口と口に関して言えば――幼年期の晴海とだってしたことはなく、俺にとって正真正銘のハジメテなのだ。
「ねえ。はやくぅ――」
それでも。
急かしてくるリリ。
後ずさる俺。
「だだだだだだめだ!」俺はテンパりながら首を振る。「だ、だいたいだな! こういうのは好きな人どうしじゃないと――」
リリはそこで。
悔しそうに唇をきゅっと噛み締めて言った。
「ばーか! ……あたしが誰にでもこんなお願いするわけないじゃん……才雅だからこそ、だよ? ……あたしだって、ハジメテなんだから」
リリはもじもじと胸の前で手を絡ませている。
その仕草を見ているこっちの方が恥ずかしくなってしまい、俺は視線を天井にそらした。
「……っ‼」
「ねえ。なゆたさんとはしたの?」
「は?」
「キス。――したの?」
「ま、まだ、だ……」
何を正直に答えてるんだ、俺は。
だめだ。この劇的で異常な状況を前にして。
さっきから頭がまともに回っていない。
「ふうん。じゃあ、なゆたさんよりもリリの方が先なんだ」
「だっ、だから! リリともしないって、言ってる、だろ……」
俺の言葉尻は情けなく床へと落ちていく。
「だめよ。ふたりでするんだもの――わるいこと。リリはそう決めたの。だって、リリの言うことは――」
絶対。
だとしても。
「……こ、今回ばかりは駄目だ!」
リリはぷくう、と今まで一番大きく頬を膨らませて。
言った。
「してくれなかったら――仕事、やめる」
「……はあ⁉」
「現場にももう行かない。今入ってる仕事もぜんぶキャンセルする。それだけじゃない。才雅となゆたさんのこと――ぜんぶ会社にバラしてから、やめてやる」
「そんな無茶苦茶な……!」
「言ったでしょ? ――リリ、本気だから」
その声はひどく冷たく、夏に豪雨をもたらす灰色の雲のように重たいものだった。
「~~~~~っ……!」
まともに取り合っちゃだめだ。頭では分かってるが、やはり思考はぐるぐると落ち着かない。アルコールのせいもきっとあるだろう。
同じ場所を行ったり来たりして、ひとつの結論も出せないでいる。いろんなことが同時に起こり過ぎている。
俺はどうすればいい?
何をすれば正解だ?
一体どうしたら――
「ねえ……はやく」
夕日を背にしてリリは立っている。距離はもう俺のすぐ目の前だ。
那由や晴海と比べるとささやかに膨らむ胸の前で手を組んで。
俺の顔を見上げるようにして、くいと顎を上げて――
彼女はその瞳を、閉じた。
(そうだ……これは仕事なんだ)
そんな考えが一瞬、俺の頭をよぎった。
リリの性格は俺が一番よく分かっている。彼女はやると決めたらとことん最後までやり抜く鋼鉄の意志を持つ少女だ。
もしもここで『キスをしなかったこと』が原因で仕事を辞められてしまえば、会社にとっても大きな損失だろう。
しかも、那由との写真をバラされれば――きっと俺はもう会社に居られなくなるし。
なにより、那由との同棲生活がそれっきりで終わってしまう。そんな確かな予感があった。
――あたしね、欲しいと思ったものは絶対に手に入れないと気が済まない性格なの♥
記憶の中でリリが不敵に微笑む。
リリが俺にお願いをする。叶えられる。喜ぶ。仕事もうまくこなしてくれる。
(そうだ。いつもの仕事の一環だ。なにも恐れることはないじゃないか――)
俺は震える身体を無理やり押さえつけながら。
1センチずつ。1ミリずつ。
リリに向かって近づいていく。
「……んっ」
両の手でリリの肩を取ると、彼女はぴくんと震えて艶やかな声を出した。
目はまだ閉じられている。その唇は、新しい季節の訪れを待つ花の蕾のように仄かに開きかけている。
「――リ、リリ」
(これは仕事だ。これは仕事だ――)
俺は何度も自分に言い聞かせて。
脳内に余分な考えが浮かんでこないようにして。
ごくり。
空気の塊と一緒に、様々な想いを飲み込んでから。
――目の前のリリに、口を寄せた。
その瞬間。
がちゃり。
「あ……すみません」
扉が開いて。
「電気がつけっぱなしになっていると思ったのですが――」
そこから入ってきたのは――
スーツ姿の【那由】だった。
「……え?」
俺の全身からすべての血の気が引いていく。
パニックになったように一瞬で頭の中が真っ白に弾けた。
(――見ら、れた⁉)
那由の猫のような瞳は当然、俺たちの情事の決定的な瞬間を捉えて。
大きく、大きく。
見開かれていた。
「し、失礼――しましたっ」
開け放した扉を閉めるのも忘れて。
那由はその場から走り去っていった。
「な、那由! 違う、これは――ぬわっ!」
俺も慌てて駆け出そうとしたが。
途中で機材のコードに足を引っかけて転んでしまった。
「い、ててて……くそっ!」
床を思い切り叩くが、すべてを帳消しにしてくれるような都合の良い乾いた音は出ず、ただただ拳を痛めただけだった。
(よりによって、なんで那由に――)
未だに全身から引いた血は戻ってこない。心臓の鼓動だけがゆっくりと脈を打っている。
まるであの冬の夕暮れに、薄氷の下に落ちてしまった時のようだ。
――何も考えられない。
すべてが極寒の黒い水の中に放り出されて、俺にはどうすることもできない。
苦しい。息ができない。俺の意識はとこしえに広がる闇に向かって――沈んでいった。
「あーあ、見つかっちゃった」
その脇で。
事件を巻き起こした張本人である風桜リリは。
頬を夕焼け以上に紅く染めて、どこか昂揚とした面持ちで言うのだった。
「――すっごくドキドキしたね、マネージャーさんっ♥」
窓の外で、太陽が落ちた。
* * *
――リリちゃんは彼氏さんとかはいないの~?
テレビの中で陽気な司会者が風桜リリに向かって質問をした。
『いませんよ~! なんてったって、アイドルは恋愛禁止ですもん♥』
リリは慣れた様子で答える。
いつもの調子で答える。
自然に作られた笑顔で答える。
――それでも、気になる人とかはいるんじゃないの~っ?
『も~っ。いないですようっ! だって、リリがい~~~っちばん好きなのは――ファンのみんなのことですからっ♥』
歓声。拍手。笑い声。
――アイドルの鏡だねえ! でも、恋愛に興味があったりはしない?
『これっぽっちも♥ だって、今のリリには――絶対に叶えたい夢があるんですっ。それを叶えるまでは、恋愛はお休みですっ』
リリは人差し指を空に立てながら、完璧なウインクをひとつした。
――それじゃあ最後に、テレビの前のファンの皆さんに一言!
『はいっ! いつもリリのこと見てくれてありがとうっ。総選挙1位目指してがんばりまあす♥ 応援、よろしくお願いしますねっ――以上、みんなの風桜リリでしたっ♥』
ここまでお読みいただきありがとうございます!
よろしければページ下部よりブックマーク、★での評価などもぜひ――
(今後の執筆の励みにさせていただきます)




