2-10 私たちだけの秘密ですね
何度だって言う。
月城さんは俺にとって、人生を変えてくれた憧れの存在であり偶像だ。手の届かない月だ。恋焦がれる妄想だ。
今だって俺の目の前には彼女の【幻影】がありありと浮かんでいる。
ちょうどベッドに横になるような形で。自らの右腕を枕にして。俺の顔を覗き込むように視線を合わせてくれている。
ぱちくり。瞬きをした。そのたびに風が巻き起こるような長いまつ毛だ。
良い香りが漂ってくる。もはや俺の妄想は3Dを越えて、嗅覚にまで影響を及ぼす4Dスタイルにまで進化を遂げている。
けれど――俺は知っている。
あくまでも幻影は幻影で、妄想は妄想だ。
彼女に触れようと手を伸ばせば、きっと彼女は消えてしまう。夢の世界はどこまでも儚い。
微睡の中、こうして実際に手を伸ばしてみれば――
――むにゅっ。
(伸ばしてみれ、ば……?)
「ふふっ」
掌に柔らかな感覚があったと同時に。
目の前の月城なゆたの【幻影】が、微笑んだ。
「……え?」
慌てて俺は掴んでいた彼女の二の腕をはなす。
「おはようございます、才雅さん」
白い小鳥のさえずりのような彼女の声も。
朝の陽ざしを受けて淡く輝く微笑みも。
肌の『むにゅう』というなめらかな感触も。
仄かに香る甘い香りも。
「夢じゃ……ない?」
はい、と目の前の月城那由は頷いた。
「夢じゃありませんよ。現実です。それとも――まだ夢を見ていたかったですか?」
「あ、いや――」
信じられない。だけど。
夢じゃなくてよかった――と俺は心底思った。
俺はどこまでも現実的に、那由と添い寝で一夜を過ごしていたらしい。
「名残惜しいですが、そろそろ朝ごはんの用意をしてきますね」
よいしょです、と那由はベッドから降りた。
ポケットからヘアゴムを取り出して口に咥え、長い黒髪を頭上でまとめて縛った。
部屋から出て行く途中でふと足を止めて、振り返り、
「あ……そういえば」
いまだ夢心地でぼうっとしていた俺に向かって、那由は悪戯な微笑みを向けた。
「才雅さんの寝顔、とても可愛らしかったですよ」
俺の顔が朝からストゼロをキメたような色になった。
* * *
社会人には朝の通勤というものがある。
いつもであれば俺は那由よりも早い時間に、マンションの地下駐車場からアルファードを発車させるのだが。
今日はリリの現場仕事はオフだったため、オフィスでデスク仕事を終わらせるべく、那由と一緒に電車通勤をすることにした。
ふたりで部屋を出て、エレベーターに乗ってマンションの外へ。
住宅街を抜けて坂を下って並木通りに沿って駅までの道を歩く。歩く。歩く。
「こうして朝ふたりで出社するのは初めてですね」
「はい、なかなか新鮮なものですね」
「…………」
那由はそこでふと立ち止まって、背中に鞄と腕を回して。
何か言いたげに俺の顔を覗き込んできた。
「……どうしました?」
「あ、またです。敬語」
「敬語? ……あ」
「契約違反ですよ?」那由は顔の隣に人差し指を立てて、少しだけ頬を膨らませた。「才雅さんは先輩の彼氏さんなんですから。いつもどおり、堂々としていてください」
「はい――じゃなくて! ……わかった。なるべく普段通りにする」
「……江花さんといるときみたいに」
「うん? 最後、何か言ったか?」
「いいえっ。なんでもありません」
ふふふ、と那由はいつもの調子で微笑んでふたたび歩き始めた。
歩幅は俺よりも小さい。ふだん通りのペースで歩いてしまうと、彼女を急かすことになってしまう。
そういえば今日は彼女はヒールを履いている。もっとゆっくりの方がいいだろうか?
(……ふうむ。やはり俺は恋愛経験豊富などではない)
カノジョと一緒に歩くだけでも一苦労だ、と俺はなんだかむず痒い気分になった。
* * *
「……あ」
駅の改札をくぐり抜けようととしたところで、那由が足を止めて振り返った。
「む、どうかしたか? ……な、那由。忘れ物か?」
俺はなるべくぎこちなさを出さないように気を付けながら、ため口で訊いた。
呼び方も『なゆた様』から『月城さん』、『月城さん』から『那由』へと変わった――これは俺にとって文字通り世界が塗り替わるほどの大きな変化だ。慣れるのにもきっと時間がかかることだろう。
那由は顎に指の関節を当てて、小首をかしげながら言った。
「いえ。ふと思ったのですが……こういう時は、同じ電車に乗らない方が良いのでしょうか」
意味することは二三拍遅れて理解できた。
それは例えばオフィス・ラブで一夜を共にしたあとや、隠れて同棲していることがまわりにバレないよう電車を一本か二本ズラして出社する例のあれだ。今回のケースはまさしく後者にあたるだろう。
「そう、だな……じゃあ、那由は今からホームに来る電車に乗る。俺がいくつかあとの電車で出社する――これでいいか?」
那由は満足そうに頷いた。「はい。そうすることにいたしましょう」
俺は改札に入らず、近くの柱にもたれかかって那由を見送ることにした。
那由は駅のホームへと向かう階段を上がる前に、一度だけこちらを振り向いて、口元に笑みを浮かべ――俺に軽く手を振ってくれた。
腕組みをしていた俺も簡単に手をあげてそれに応える。
(ああもう、なんという尊さだ)
という〝心の声〟が漏れていなかったか、慌てて周囲を見渡す。どうやら大丈夫だったらしい。
出勤・出社前のこの時間帯の人々は皆あくせくとしている。たとえ駅で【目つきの悪い男】がブツブツ何やら呟いていたところで、あまり気にされないのかもしれない。警察に通報されないようにだけ気をつけたいところだ。
「……む?」
電車を2本分遅らせて、そろそろホームに向かおうとしたらスマホが鳴った。
那由からのLINEだ。
『――私たちだけの秘密ですね』
そんな文章のあとに、照れてる兎のスタンプが押されていた。
「……ったく」
俺はたまらず零れそうになる微笑みを押し殺して下唇を噛む。『改札前でイキったマフィアの若手みたいな怪しい人が朝っぱらから不敵な笑みを浮かべています』と通報されてはたまらない。『たぶん何かしらの犯行計画を練っているんだと思います。事情聴取をお願いします』などと言われても、俺は元・推し、現・カノジョの尊さに悶えていただけだ。
しかし表情は腕で覆って隠すことはできても、心に轟々と湧き上がる感情まで抑え込むことはできない。
俺の指先は迷った末に『そうだな』と4文字分をフリックして、タップ。
那由に向けてシンプルな、だけど俺にとっては重みのある同意の言葉を贈って。
――この瞬間の感情を冷凍保存して、いつでも取り出せるようにできればいいのに。
そんなことを想った。




