2-7 一緒にお風呂に入りましょうか
俺はどうやら【月城なゆた】との〝契約〟を甘く見ていたようだ。
――いつかくる〝本番〟のために、恋愛の練習相手になってくれませんか?
それはつまり、疑似的にではあるが互いに彼氏彼女の関係になるということで。
俺は喜びを噛みしめながらそれに了承した。しかし――
『それでは早速、一緒にお風呂に入りましょう――』
などと。
お付き合い初日から那由の方からぶちかましてくるなんて、完全に想定外だった。
恋愛物語に憧れる月城なゆたにとっての彼氏彼女の関係。
それは『耳をすませば』の雫と聖司君のように爽やかな青い春を遥かに凌駕する領域にあったらしい。
「そんなに叫ばれて……どうか、されましたか?」
はい、どうかしました、とは言えなかった。
「私……変なことを言ってしまいましたでしょうか……?」
あ、もしかしたら言ってるかもです、とも言えなかった。
「た、多分ですけど!」俺は外れかけた顎をどうにか戻して伝える。「い、一緒にお風呂に入ったりは……付き合って一日目ですることじゃないと! ……思います」
あ、いや……そもそも付き合う前に既に同棲して時間も経ってるのからいいのか⁉
だめだ。世間一般の〝お付き合い〟とひどく倒錯した順序を経ているせいで、余計に正解が分からん……!
「そ、そうだったのですね……!」
しかし。
那由はなんだか感心したかのように瞳の奥を輝かせた。
「私は実際の恋愛経験に乏しいもので……漫画や映画の中ですと、こういうこともしていたので。てっきり現実の恋愛もそういうものなのだと……すみません」
なるほど、と俺は思った。
ふたりの彼氏彼女の関係――つまりは月城さんとの【疑似恋愛】の中でひとつ、大きな見落としがあったことに俺は今更ながら気づいた。
目の前の月城なゆたという少女は、アイドル時代に〝恋愛禁止〟だった反動もあり過度に恋愛に憧れており。
さらに重度の〝恋愛物語中毒者〟でもあったのだった。
つまり、10代をアイドルとして過ごし、実際の恋愛を体験してきていない彼女にとっては。
ドラマや漫画、映画など【創作物】の中に存在する――
時に過剰に甘々で。
時に過剰にほろ苦く。
時に過剰にどろどろな。
溶けてしまいそうな恋愛こそが基準だと捉えている節があるらしい。
(これは、非常に――マズイ)
俺は脳内で焦り始めた。
その物語と現実の違いを埋めようにも。
「……さすがは恋愛経験が豊富な才雅さんです」
そう言って尊敬の目を向けてくる那由には申し訳ないほどに。
俺の実際の恋愛経験は――『幼稚園の頃に幼馴染と、友達の延長線上ですこしお付き合いの真似事をした』程度にしか存在しないのだった。
「はは……お役に立てて、光栄です」
しかし今更。
目の前できらきらと瞳を輝かせる那由に向かって。
その事実を打ち明けるワケにはいかなさそうだった。
「それではお風呂――先にいただいてきますね」
「は、ハイッ! どうぞ……です」
当然、この場合。
那由が入った後の残り湯を俺が堪能することになるわけだが。
それでも〝一緒に入る〟よりは【月城なゆた推し】の面々に恨みは少なくて済みそうだった。
* * *
こうして我々は別々にお風呂に入った(強調しておく。俺は〝一緒に入る〟という甘い誘いには乗らず誘惑に耐え切ったのだ!)。
『才雅さん、早いですね。カラスの行水、でしょうか』
俺の風呂の時間の短さを那由にそう揶揄された。『はは、そうですかね。いつもこれくらいです』と誤魔化してはみたが……実は俺は同棲することになって以来、理性が崩壊することを防ぐため、湯舟には浸からずにシャワーだけで済ませることにしているのだった。
――【月城なゆた】を包み込んだ残り湯に入る勇気は、今の俺にはまだ存在しない。
同じマンションで同棲をして。
あまつさえ〝疑似恋愛〟をしているとはいえ、俺の心はこんなにも純粋で弱虫なのである。
目の前に吊るされた林檎にほいほい食いつくほどの勇気も器量も、現段階の俺は持ち合わせていない。
なのに。
『お付き合い初日を記念して……一緒にお風呂に入りましょう』
などと。
恋に憧れる〝恋愛物語中毒者〟である那由は、そんな急進的な提案をぶちかましてきたのだった。
まったく。
昨今のラブストーリーはジェットコースターが過ぎるぜ。
創作の中の展開をそのまま現実世界に持ち込まれたら、まともな精神じゃ持つわけがない。ましてや、その相手は俺が人生を賭けて尽くすことを決めた元・推しアイドルだ。
というわけで。
俺の精神状態は、いつ崩壊するか分からない危機的な状態にあるのだった。
「……ふううううううむ」
俺はたっぷりと溜息をついて眉間に皺を寄せる。
つまりはこの、常に危険な吊り橋を渡っているかのような状況こそが。
月城なゆたと〝疑似恋愛〟をするという本当のところの意味であったらしい。
――どうか俺の心臓が最後まで持ってくれますように。
俺はいるかどうかも分からないラブコメの神にそう祈った。