2-6 俺とキミの『お付き合い記念日』
「……ただいま」
帰宅した俺はドアノブを回し、玄関に入って小さく呟く。
(言ってはみたものの……那由は寝てる時間だろうな)
予定ではもう少し早く帰れる予定だったのだが……最後の撮影がかなり押してしまった。
リリを送り届けて、結局俺が帰宅したのは深夜1時を回っていた。
ちなみに日中にあった例のリリによる【質問攻め】の件は、那由にLINEで謝っておいた。
『そんなこと、お気になさらずに(汗をかく兎のスタンプ)』
『事務所の皆さんは風桜さんのことを色々と噂されていますが……ただ一生懸命でアイドルへの想いが強い子なんだと思いました』
『すくなくとも、私には悪い方には映りませんでしたよ』
『また私にできることがあれば仰ってください』
噂、というのは例の〝マネージャー潰し〟のことだ。
お陰様で俺はリリの御眼鏡にかなったらしいが……前任者たちの苦労は文字通り身に染みて理解できる。
『いずれにせよ――才雅さんがついていれば大丈夫ですよ(ほっとした様子の兎のスタンプ)』
そんな那由の期待に応えるためにも。
風桜リリという【わがままなお姫様】の夢を叶えてやらないとな――と俺はあらためて決意した。
「……うん? 電気が、ついてる?」
廊下を進むとリビングの電気が未だ灯っていた。
消し忘れだろうか、と思ってそこに向かうと――
「あ……おかえりなさい」
那由が起きてソファに座っていた。
ストライプ柄のもこもこした部屋着で女の子座りをし、本を読んでいる。
「ただいま……まだ起きてたのか」
「はい。せっかくなので、待っていました」
「せっかく?」
俺はなんのことかと首を捻る。
すると那由は本を閉じて、どこかもじもじと身体を揺り動かしながら言った。
「は、はいっ……せっかくの、お付き合いを始めて最初の夜ですから」
「……!」
なんとまあ。
この少女は。目の前の月は。女神は。
――疑似とはいえ〝付き合いたて記念日〟のことをしっかり尊んでくれていたらしい。
同時に俺の中に罪悪感が込み上げてきた。
仕事は確かに忙しかったが、俺だって昨日の夜に起きた【夢みたいな現実】を心から喜んで。
その時の記憶を胸に抱え、今日という一日を乗り切ってきた。
なのに『那由はきっと寝てる時間だろうな』と勝手に決めつけて、挙句の果てに『せっかく』の意味も咄嗟に分からないなんて。
疑似だからなんて関係ない。
俺は――〝彼氏〟失格だ。
「す、すまん……!」
那由は慌てたように、「あ、いえ、どうして才雅さんが謝るんですか?」
「てっきり那由はもう寝てると思ってた。いや……嬉しかったんだ。リビングに入って。俺が帰宅するのを待っててくれて……ただでさえ、今日は色々あって疲れてただろうに」
「そんなの……気にしないでください」
ふと机の上の本が目に入った。『耳をすませば』だ。映画の原作になった漫画の方。聖司君がヴァイオリン職人じゃなくて画家を目指す世界線だ。
「それでは、時間も遅いことですし……早速入りましょうか」
「――うん?」
ぼうっとしていた頭を軽く振るって那由へと視線を移す。
「入る? どこにだ?」
彼女は何やらそそくさとソファから立ち上がった。
そして優し気な表情のまま、両手の掌を胸の前で合わせて。
「入ると言えば決まっています」
お付き合いたての彼氏彼女には。
少々刺激の強すぎる提案をしてきたのだった。
「一緒に――お風呂に入りましょう」
「……へ?」
頭の中で流れていた『カントリーロード』の演奏が乱れる。
しかしそれは、これから勃発する事件のまだ序章に過ぎなかった。
「はいいいいいいいいいいい⁉」
思わず絶叫する俺は、このあと嫌というほど思い知ることになる。
「そんなに驚かれて……私、何か変なことを言ってしまいましたでしょうか……?」
恋愛初心者で。
恋愛禁止令から解放され。
恋愛物語に憧れてきた彼女――
月城なゆたの【恋愛観念】は。
――いささかブレーキがぶっ壊れていたということを。