2-5 ふたりのアイドル
「ってゆーことは……なゆたさんの中では、簡単にファンと触れ合うアイドルはアイドルじゃないってことですかあ?♥」
リリはにっこりと。
満面のアイドルの笑みを浮かべながら那由に向かって言った。
まさしく握手会でファンに対応する時の微笑みだ。
「……! 違います、そういうことじゃ……」
那由は慌てて否定する。
「そういうこと以外になにがあるんです?」
「私は……」那由は一瞬下唇を噛んで、真剣な想いを募らせて言う。「いろいろなアイドルの形があって良いと思っているんです。空に星がひとつだけでは寂しすぎます。色々な輝きがあってこそのアイドルだと思っていて――」
「自分が一番輝いたからこそ言える台詞にも聞こえますけどね」
「おい、リリ!」
「才雅は黙っててよ!」
リリはテーブルの上に手をついて、那由のことをじっと見つめながら続ける。
「アイドルは偶像。本当の自分を曝け出したら、イメージが壊れる――そんなの、リリにだってよ~く分かってますっ。分かった上で、みんなの理想のアイドルを演じてる。それもリリだって同じです。でも、あなたと違うのは――リリはその〝表側〟の仮面を被って、ちゃんとファンのみんなと触れ合ってるんです。確かに何かの拍子で〝イメージ〟は壊れてしまうかもしれません。それでもみんなと向き合ってるんですっ――なゆたさんみたいに、逃げ回ったりはしていませんっ」
「それは違うぞ、リリ!」
俺は思わず立ち上がり、叫ぶように言った。
リリは両方の頬を膨らませている。もはや意地になっているようだ。
風桜リリの目指すアイドル像と、月城なゆたが目指したアイドル像――その2つがあまりにもかけ離れ過ぎている。
誰の手にも届かない憧れを目指した【月城なゆた】と。
誰の手にも触れられる憧れを目指している【風桜リリ】。
そのふたつの道は、決して交わらない。
那由はそれを理解した上で、リリの道も尊重してくれているのに……リリにはそれが分からないでいる。いや、分かった上で意固地になっているのかもしれない。
「……はあああ」
俺は一度大きく息を吐いて、どうにかリリをおさめようと言葉を選ぶ。
口下手の那由が、まだ語り切れていないことを代わりに説明しようとつとめる。
「月城さんは逃げ回ったりなんかしていない。本人はむしろ少しくらいはファンとの触れ合いを増やしてもいいと思ってたくらいだ。そうだよな?」
那由に視線を向けると、彼女は遠慮がちに小さく頷いた。
「じゃあ、どうして……」
「事務所の方針だよ。あそこまで徹底的にファンとの接触を切り捨てて、完全に手の届かない幻想的なアイドル像を創り出そうとしたのは〝大人の事情〟が複雑に絡んでるんだ」
これは会社に入ってから聞いた情報だ。
所属事務所は単に仕事やスケジュールを管理するだけではない。
当然、所属アイドルのプロデュースにも深く関わっている。
「そんな事務所の方向性と、月城さん自身が憧れたアイドルとしての在り方――そして何より、彼女が持つ〝カリスマ性〟がうまくハマってくれたおかげで【月城なゆた】は完成した――ただそれだけだ。だから当然、月城さん自身もここまでに相応の苦労をしてきた。それは同じアイドルであるリリが一番よく分かってるんじゃないか?」
「…………」膨らませる頬が片方だけになった。どうやら1つ分の空気を抜くことには成功したようだ。
「そんなアイドルの労苦を身に染みて理解している月城さんが、他のアイドルのポリシーを否定するハズがないだろう」
「う~~~~~」
ぷしゅう、と。
リリはとうとう口の中の空気を全部吐いた。
「……ごめんなさい」
そして居心地の悪そうな声で、彼女は謝った。
「ついつい、頭がかあっとなっちゃって……なゆたさんのこと尊敬してるからこそ、いろいろ深くまで訊いちゃいましたっ。大丈夫です……なゆたさんがそんなんじゃないってこと、ちゃんと分かってます」
「いえ。私も、うまくお伝えすることができなかった部分もあり……ごめんなさい」
那由もぺこんと頭を下げた。『な、なゆたさんは、謝らないでください~』と焦りながらリリが両手を振る。
どうにか和解は成立したようだ。俺も安堵の息を吐いた。
「……ん?」
そこでスマホのバイブが鳴った。俺の上司にあたるチーフマネージャーからの着信だ。
急いで出る。端的に用件が話される。話し終わると躊躇なくぱっさりと通話を切られた。
「リリ、急だが夜の仕事の前にもう一本入った。予定より早いが、すぐに出なくちゃ間に合わない」
「……はーい。お仕事なら仕方ないですっ」
リリは簡単に荷物をまとめて、ソファから立ち上がった。
「珈琲、ご馳走様でした。この場合、才雅に言えばいいのか、なゆたさんに言えばいいのか分からないですけど」
『月城さんに言ってくれ』と言いながら、俺は自分とリリの飲んだカップを流し台に持って行った。
那由の分も一緒にと思ったが――彼女はそのカップの中に視線を落として何か思索にふけっているようだったのでそのままにしておいた。
「それじゃあ俺たちは行きますね」床に置いておいたリュックサックを背負って俺は言う。「月城さん。休みの日にリリのために時間を作ってくれてありがとうございました」
「ありがとうございましたー♥」とリリも続いた。もうそこに〝裏側〟は残っていない。徹底的にアイドルの風桜リリとして、彼女は深々と頭を下げた。
* * *
「おい、アドバイスをもらうだけって言っただろう」
アルファードのステアリングをいつもより強めに握りながら俺は後部座席のリリに言った。
次の現場は雑誌の取材だった。会場までは下道で20分もあれば到着するだろう。
「へえ。随分となゆたさんの肩を持つんだ」
裏側のリリが言った。最近のリリは俺に対して一切遠慮がない。
「それに……やけになゆたさんのことに詳しかったし。これじゃダレのマネージャーか分からないわね」
皮肉たっぷりにリリは言った。
「そういうことを言ってるんじゃない……あれは訊きすぎだ。月城さんにも失礼だろう」
「へえ、珍しい」
「え?」
「才雅が仕事の前にリリのこと怒るの、これがハジメテ」
「……!」
言われてみればそうだ。
俺は意識的に、仕事の前にリリの気持ちを落とすようなことは避けていた。
何か注意すべきことがあったとしても、それは一日の終わりに彼女を送り届ける時と決めていた。
すべては気持ちよく現場に入って仕事をこなしてもらうために。
「……すまん」
だめだ、俺も反省しないと。リリの言う通りだ。
俺は今、月城なゆたではなく【風桜リリ】の担当マネージャーなのだ。
彼女をアイドルとして輝かせるために、最大限注意を払わなければならない。
なのに――月城さんに関わることとなると、ついまわりが見えなくなってしまう。
――公私混同は絶対にしない。
【月城なゆた】と同僚になったからこそ。
同棲することになったからこそ。
疑似的な恋愛関係になったからこそ。
俺はそう決めたはずだったのに。
「すまん。俺が悪かった」
ふたたびリリに謝罪した。
リリは『ふん』と面白くなさそうに唇を尖らせた。
「謝罪は要らない。とにかく! リリを必ず総選挙で1位にすること」
「……わかってるさ」
「リリの言うことは?」
「〝絶対〟だ。そのために俺も反省して――精一杯。これまで以上に努力する」
リリは短く息を吐いて、次なる要求をついでに突き付けてきた。
「あと、ピエールエルメのマカロン」
「な⁉」俺は目を見開くが、今は彼女に逆らうことはできない。「……了解」
「20個入りのホールになってるやつ。今日中」
「どうにか用意する」
「……ん」
ちらりとミラーに目をやる。
後部座席のリリはどうやら機嫌を直してくれたようだ。
口元にはどこか満足そうな笑みを浮かべていた。
「ねえ、そういえばさ。才雅って家どこだっけ?」
窓枠に肘をつきながらリリが訊いてきた。
視線は外を流れていく景色に向いたままだ。
「ああ――」
正直に言いかけて言葉を飲み込む。
――俺たちがさっきまで居た港区のマンションだ。
などとは言えるハズがないので。
「……世田谷区の方だ」
前の社宅があった場所を答えておいた。
「ふうん」
つまらなさそうにリリが言った。視線はそのまま外に向いている。
一体彼女はどういう意図で俺の家の場所を訊いてきたのだろうか。
「あ、そういえば……才雅にひとつ言い忘れてた」
リリは今度はミラー越しにはっきりと俺の顔を見て。
言った。
「リリね――欲しいと思ったものは絶対に手に入れないと気が済まない性格なの♥」
リリの笑顔はちょうど〝裏〟と〝表〟の中間のような塩梅で――
なぜか俺の背筋はぞくりと冷えたのだった。