1-16 貴方が新しいマネージャーさんですかっ?♥
「当然のことながら一睡もできなかったな……」
『コスモス・プロダクション』のオフィスが入っているビルの前で。
俺はひどく疲弊した声で呟いた。
ガラス張りのビルを反射して、俺の頭上から降り注ぐ日差しが徹夜明けの目に刺さる。
月城さんは別場所に直行するらしく、一足先にマンションを出て行った。出かける際に『お構いもできずに……』と恐縮そうな声で言ったが、まったくお構いなくで大丈夫だ。むしろすでに構い過ぎているくらいである。
俺は『ままままったくお気になさらず』とどもりながら彼女を送り出した。『戸締り、ちゃんとしときますんで』
* * *
「やは~! 才雅! げんき~?」
ビルの入口でぼうっと立ち尽くしていたら、ぱしん、と背中を叩かれた。
元気印の幼馴染、現同僚の江花晴海だった。
「……おう、晴海か」
「うわ~! すっごいクマ! 朝まで飲んでたの~? ウチも誘ってよ~」
唇を尖らせる晴海に何か言い返そうと思ったが……その気力も残っていなかった。
昨日という〝ジェットコースター・デイ〟で俺は肉体・精神ともにひどく摩耗をしていた。これ以上晴海にエネルギーを持っていかれたら、それこそ擦り切れて破れてしまう。
「そだそだ!」晴海が手を叩いて無邪気な声を出した。「早速だけど、才雅の担当してもらう【アイドルの子】が決まったんだよ~」
「お? そうなのか」死んだ魚のような瞳のままで俺は言った。
「けどけど……えとえと~その~……」
晴海はいつもの〝何か言いたげな様子〟で胸の前で指先を絡ませている。
「……ま、実際に紹介してからにしよっかな~、えへへ~。ひとまずは出社しよ~!」
ぱんぱん、と何かをなすりつけるかのように晴海は俺の背中をはたいて、ビルの中へと入って行った。
* * *
「風桜リリですっ! よろしくお願いします♥」
とろっとろに甘ったるい声で彼女は言った。
「貴方がリリの新しいマネージャーさんですねっ! って! そのクマ、大丈夫ですかあっ……⁉」
風桜リリ。
俺でも知っている。月城なゆたを頂点とした『第七世代アイドル』の次にあたる『第八世代』として彗星のごとく業界に現れた期待の新人アイドルだ。
ちょっぴり〝作ったような〟キャラクターだが、人当たりも愛想もよく、歌唱やダンスの能力も高い。
「だ、大丈夫っす。中本です。この業界、まだ入ったばかりの新米で、迷惑かけることもあるかもすけど……一生懸命やるんで。えっと、風桜さん」
「リリでいいですよう♥ 敬語もなしでっ! ――リリは永遠の17歳なのでっ」
ぴこぴこ、と頭の横でツインテールが黒色のリボンと一緒に揺れた。
身長は月城さんよりも低く、鮮やかなピンクに染まった髪色にチャーミングな八重歯。
つり目がちですこし尖った印象も受けるが、フェミニンなメイクと釣り合いが取れていた。
髪色より薄めの赤を基調にした服装で、フリルや飾りが可愛らしく配置されている。
いわゆる『量産型』と世間で言われるファッションに近いが、彼女が着こなすとそんな類型をもすべて吹き飛ばし【風桜リリ】のためのデザインであると思わせるだけの個性があった。
例えば原宿の竹下通りの人混みに紛れていたとしても、一瞬で見つけ出せるほどに飛びぬけた美少女だ。
(すごくしっかりした子だな。当然ながら見た目も可愛いし――初めてで不安だったが、この子とならしっかりやっていけそうだ)
俺はほっと安堵の息を零した。
「あれ? ……今日は、なゆたさんはいらっしゃらないんですか?」
風桜さん――リリがきょろきょろと周囲を見渡して言った。
当然、オフィスで【月城なゆた】が働いていることは彼女も知っているらしい。
「あ、外で打ち合わせがあるらしくて。午後から出社するらしいす」
「ふうん」リリはどこか残念そうに片頬を膨らました。「詳しいんですねっ」
「まあ一応……隣の席なんで」
一緒に住んでるんで、とは当然言わなかった。
「なゆたさんは、リリの憧れなんですっ。アイドルオールスター総選挙で【1位】になること――リリの絶対的な夢を、なゆたさんは2回も成し遂げたんです――だから、リリの中でなゆたさんは絶対的な存在で、尊敬するアイドルさんなんですよう♥」
リリは両手を胸の前で組んで目を煌めかせた。
どうやら彼女には【総選挙1位】という夢があるらしい。
「だから、新しいマネージャーさんっ♥ リリと一緒に二人三脚で頑張っていきましょうねっ」
「あ、ああ。よろしくお願いしま――」
言葉の途中で彼女は、なかば無理やり取るようにして俺の手を握ってきた。
「だーかーらっ! 敬語はナシで大丈夫ですよっ、ねっ?♥」
「……っ!」
彼女の白くて小さな手が俺の野暮ったい手を包み込む。
最初はひやりとしたが、やがてその接触部が熱をもっていった。
瞳は躊躇することなくまっすぐに俺を覗いてくる。これがいわゆる『握手会』というヤツなのだろうか。
月城なゆたはそういった類のファンサービスを行っていなかったため、体験するのはこれが〝初〟になる。いわば握手会童貞を担当アイドルに奪われたような形だ。
――しまった、こんなことなら手汗を拭いておけばよかった。つうか、今この瞬間も吹き出てないか? 大丈夫か⁉
などと脳内でぐるぐると思考が巡り、動悸が激しくなる。
しかし目の前のリリは、これがプロ精神なのだろうか――そんなことは一切気にしないような素振りで、むしろぎゅっと握る手に力を込めてきた。
「よろしくでーす♥」
そして最後のトドメと言わんばかりに、にこり。
ただただ百点満点の笑顔を浮かべてきた。
――ああ。これが世間一般的なつよいアイドルか、と俺は思った。
* * *
「リリちゃんには……気をつけてね~」
風桜リリが去っていったあと。
オフィスの天井に向けて呟くような声で、珍しく晴海が警告してきた。
「え?」俺は信じられずに聞き返す。
「あの子、ウチの事務所じゃ〝マネ潰し〟で有名なんだよね~。実は才雅で7人目なんだ~えへへ」
えへへ、じゃなさそうな情報だった。
「リリ……風桜さんが? あんなに人もよさそうなのに……信じられないな」
「うんうん。みんな最初はそうやって言うんだけど~……ま、そのうち分かるよ~」
だからウチ、リリちゃんが才雅の担当になるの反対したんだけどね~と晴海は頬をかきながら付け足した。
(ふうむ。しかし――)
すくなくとも俺の目からは世間一般で言う【理想的なアイドル】の姿に見える。
逆を言えば――彼女はまだ俺に〝表側〟しか見せていない、ということだろうか。
彼女という星の裏側がどうなっているのか、まだ俺には皆目見当がつかない。
「もしもお仕事辞めたくなったらウチに教えてね。退職処理してあげる~」
あっけらかんと晴海は笑った。
ははは。と俺は片頬を上げて、溜息を吐いた。
――どうやらマネージャー仕事も楽ではなさそうだった。