1-11 月城なゆた『を』辞めた理由、および爆弾提案
「月城さんは……どうしてアイドルを引退されたんですか?」
しいん。
場が静まり返った。月城さんはすこし驚いたように目をぱちくりさせている。
――しまった。やらかした。
緊張を誤魔化すために自然な会話を心がけようと思ったら、初手から赤五筒(しかもドラ)を切り出していくような【過激派質問】をぶつけてしまった。
「あっ、ご、ごめんなさい! いきなり変なこと聞いてしまって……忘れてください」
「いえ」彼女は視線を合わさずに首を振った。「気になりますよね」
気になりません、とはとてもじゃないが言えなかった。
これは俺が【元・月城なゆた推し】じゃなかったとしても真っ先に浮かぶ疑問だろう。
――芸能界の覇者は、なぜ人気絶頂のタイミングで唐突にアイドルを引退したのか。
しかし。
月城さんはふつうに答えてくれた。
「身体を悪くしてしまったんです」
「え?」
「激しい運動などを医師から禁止されてしまって……それにはダンスだけではなく、歌唱行為も含まれていて」
彼女は髪を片方の耳にかき上げた。
視線は机の上に揃えた指先に落としたままだ。
「そうなってしまったら――月城なゆたは月城なゆたではなくなってしまいます。だから引退を決意しました」
最後ははっきりと俺の目を見て言ってくれた。
ダンスと歌唱を奪われたら。
――月城なゆたが月城なゆたでなくなってしまう。
どこまでも徹底的に自分が【アイドル】であることを自覚しているからこそ出る言葉で、できる選択だ。俺はそう思った。
「それでも急な引退になってしまったのは……これまで私を応援してくださった方々に申し訳ない気持ちでいっぱいです。でも……そうするしかなかったんです。すくなくとも、その時の私の中では。そしてすべてが過ぎ去り今になってしまえば、私の中の月城なゆたは……もうここにはいません」
だからこそ。
彼女は自然体で微笑むことができたのだと思った。
月城なゆたはここにはいない。
――だからと言って、俺にとって彼女が元・人生を賭けた推しであり女神であることには変わりない。
すこしは心臓の鼓動は収まってきたが……それでも彼女の存在を身近に感じると、時折全身に雷が打たれたような衝撃が走る。
そんな時は決まって、例の【冬の凍った湖】のことを考える。平常心、平常心――。
「……すみません、答えにくいことを」
「いえ。いつかは話さなければいけないことですから。あ、那由って言います」
「え?」
「月城那由。本名です」
よろしくお願いします――と。
元・女神。
現・月城那由は。
ふたたびぺこんと律儀に頭を下げた。
「食べましょう。せっかくの素敵なお食事です」
「……はい」
ふたりで『いただきます』をして食を進める。
幸せ9割。不安1割。今の俺の脳内の比率だ。
ほとんどが【なゆた様】によって分泌された快楽物質のお陰で幸せを感じられているのだが……残りの1割の不安は、
「中本さんも大変でしたね……事情は江花さんから伺いました」
「あ……前の会社の」
そう。例の〝入社式が退社式事件〟のことだ。
俺がコスプロに来たキッカケは当然耳に入っていたのだろう。心配そうな表情を向けてくれた。なんと畏れ多い。全然もっと笑ってもらって構わないんですよ? 実はしかも貴女に捧げる【お布施】のために高賃金の会社に就職したんです。それがすべておじゃんになった――こんな俺のことをもっと憐れんでください。または蔑んで罵声の一つでも飛ばしてください――などと脳内の俺(ネガティブ担当)がブツブツ言っていたが、そのひとつでも口にすると俺のこの会社でのイメージに障りかねると思ったので、かぼちゃのスープと一緒にすべてごくりと飲み込んでおいた。
「ははは、笑い話ですよ」俺は続いてパック牛乳をストローで吸い上げながら言った。「人生こんなこともあります」
「……中本さんはお強いですね」
「まさか!」
月城さんの方がよっぽど強い。
そうでなければ、競争の激しい芸能界では生き残っていられなかったはずだ。
きっと俺には見せていない、数々の労苦があったであろうことが推察される。
「中本さん……なにか困っていることはありませんか?」しかし月城さんは胸の前に手を置いて、俺のことを心配してくれた。「江花さんから聞かれたかと思いますが、私、しばらくは中本さんの事務的な業務上での【トレーナー】になりましたので」
初耳だった。
おい晴海! ランチのことといい、あいつ俺に伝えてないことが多すぎるぞ! 今度貸しからひとつ削っとくからな‼
「とはいえ……私もまだ働き始めたばかりですが。ほとんど同期ですね」
月城なゆたと同期、という言葉が嬉しさのあまり俺の頭の中で暴れ回っていたのでどうにか時間をかけて宥めて静かにさせた。
「とはいえ、芸能界でいえばずっと先輩です」俺は生姜焼きに手を伸ばしながら言った。「色々教えてください。俺、なにも分かってないんで」
「そうですね……裏と表では随分と違う気がしますが、それでも力になれたらと思います。私も現役時代は、多くの皆さんに支えられてきました」
この場合の裏というのは〝スタッフ〟としての裏方を指すのであろう。
いずれにせよ言葉の節々から配慮する姿勢が伝わってきて、やっぱり月城さんにはとても好感が持てた。
「……あ、思い出した」俺は箸を空に掲げたまま静止した。
「どうかされましたか?」
「いえ、困ったことでひとつ。直近に問題を抱えていて……主に【住居】についてなんですが」
事前に聞いたところ、コスプロには社宅や社員寮の制度はないようだった。
そうなるとあと一週間以内に〝住む家〟を決めなければならない。
「前の会社の社宅に住む予定が……会社、あんなことになっちゃったんで。急いで次の家を探さなきゃいけないんですよ。今日も終わったら近くの賃貸業者回るつもりです」
今の俺にとっては非常に差し迫った問題ではあるが……。
いずれにせよ、これは月城さんに解決してもらう種類の困りごとではない。
「……そうですか」
月城さんはブリの照り焼きに箸を入れて持ち上げると、薄く形の良い口に運んできちんと咀嚼した。
そのあとに胚芽付きのご飯を食べてからお味噌汁をすする。
それらの所作のすべて――箸の握り方、お椀の持ち方ひとつとっても美しく、ついつい見惚れてしまう。
月城さんの【食事風景】を集めた映像集なんかがあったら、給料3か月分までなら出したいところだ。
「あ、あの……それでしたら、私、力になれるかもしれません」
彼女はそう言って箸を置いた。
力になれる? 俺の住宅事情に? 知り合いに不動産屋でもいるのだろうか。
「その……良かったら、なんですが」
彼女はあくまで自然体に。
ただただ困っている人を助けようという純粋な想いを瞳に滲ませて。
「――私の家に一緒に、住みませんか?」
あまりにも想像を絶する爆弾提案を投下してきた。
「……はい?」
俺は超高速で目をぱちくりと瞬かせる。
しかし月城さんは、あくまで淡々とした口調のままで補足してきた。
「あ、いえ。変な意味ではなく」
変な意味以外思い浮かばなかった。