カーティスの悲恋
カーティス家は古の昔から、代々王国の『闇』を司っている。魔物が跋扈するこの世界では、人は生きていくにはあまりにも弱く儚い。人々を憂いた神々が基本属性から成り立つ結界を創成し、人のための国を造ったと伝えられているのがここスラティナ王国だ。
神話とまで言われるこの話のどこまでが本当の事なのか分からないが、結界を維持するために『光』の結びと『闇』の解きが必要なのは間違いなかった。そのため『光』を司る者を王家として奉り、スラティナとしてこの国を表から率いていくようになったと我が家の歴史書で記されていた。そして、カーティスもまた、結界維持のために脈々とその血を受け継いできたのだが、我々の役目はそれだけではなかった。その属性が示す通り、王国における裏も一手に引き受けていたのだ──
カーティス家では、己の果たすべくその役目について、幼い頃より叩き込まれる。
自分の感情を押し殺し、1000のためには100を躊躇いなく切り捨てる。そうして闇を司り王国を陰ながら支えていく。
そのためには、例え女子どもであろうとも容赦なく処罰した。
顔色一つ変えずに犯罪者を取り締まり処罰と処刑を担う。
情報を入手するため時には手荒い方法も使う。
──結果、いつの頃からか、カーティスはその苛烈さと残忍さで王国中に名を馳せていくようになった。
嫡男として生を受けた僕もまた、例外なくカーティスとしての教育を幼少の頃より受けていた。
学園を卒業し生え抜きのエリートで構成される近衛隊として抜擢されたが、カーティスの名とこの見た目により、常に畏怖の眼差しで周囲から見られていた。
僕の髪の色は、カーティスの闇を象徴するかの如くこの王国では見ることのない漆黒であった。
カーティスの血筋の中には、稀にこうした髪の色を持つ者が生まれるらしい。
闇の祝福を受けているのか、そうした子は例外なく強い闇属性の魔力を有しており、僕も強い闇属性だけでなく膨大な魔力量を有していた。
こうした事から、カーティスの嫡男として結界の維持を行いつつも、近衛隊として同じく結界の維持のために結界領域に赴く王族の警護の任を担う事となった。
護衛対象となったのは、学園を卒業したばかりの第二王女リュミエール様であった。
初めて彼女に出逢った時の事は、今でもハッキリと覚えている。
「初めまして、貴方が『黒闇のフォンセ』ね……ふぅん」
近衛隊の漆黒の隊服とこの漆黒の髪色から、陰で『黒闇のフォンセ』と呼ばれ恐れられていた事は知っていたが、初対面で更に面と向かってその綽名で呼んだのは、彼女が最初で最後だった。
マジマジと僕の顔を見つめていたと思ったら、次の瞬間、咲き誇るような笑みを浮かべた。
「あ、私はリュミエール・アルマ・スラティナです! 一応第二王女してます」
「……存じあげております」
「あ、そうだよね〜。堅苦しいのは嫌だから、私の事はリュミィって呼んでね。あと、敬語もやめてね!」
「……善処いたします……」
「あははは、それ早速堅苦しいでしょ〜」
「……わ、分かった……」
第二王女という身分を感じさせない屈託のない笑顔でそう言うと、再び僕の顔をじっと覗き込んだ。
透けるような金色の髪の毛と同じ、金の睫毛が縁取る蒼色の瞳に見つめられ、何故か落ち着かない気持ちになった。
「……フォンセは、顔もだけど、瞳も凄く綺麗ね……その髪と隊服で、まるで夜空に浮かぶ満月みたい……」
「……そう、ですか……」
美しい顔をうっとりさせた彼女は、僕の瞳を見つめ続けた。
誰もが僕をなるべく避けようとしている中、こんな風に話しかけられたのも、そして綺麗と言われたのも何もかも初めてだった。
「これから、よろしくお願いね。フォンセ」
「……よろしく……リュミエール、殿下……」
楽しそうに細められた蒼色の瞳と暫くの間視線が絡み合っていたが、ふわりと微笑んだ彼女は礼儀正しくお辞儀をした。
その時から彼女の護衛として、結界維持のために東西南北の各拠点に配置されている砦を巡る旅に出るようになった。
彼女の事を『リュミエール殿下』と呼ぶといつも怒り出すので、気が付けば『リュミィ』と呼ぶようになっていた。
僕が彼女の名を呼ぶといつも、澄んだ大きな蒼い目を細めてとても嬉しそうな表情を浮かべた。
その顔を見ると、何故だか胸が苦しくなるようなそんな気持ちになった。
こんな想いを誰かに抱くことは、初めての経験だった。
幼い頃から自分の感情を抑えるように訓練されている僕が、彼女のあの透明な声で名前を呼ばれる度に、心が揺さぶられた。
「ねぇねぇ、フォンセ……ほら、見て見て!」
結界領域にある砦周辺は王国の僻地にあたるため、移動手段は殆どが馬だった。
王女であるにも関わらず、リュミィは馬の扱いに非常に長けていた。
僕の名を呼んだリュミィは、愛おしそうに撫でていた愛馬の鬣をスルスルと編んでいくと得意げな顔を向けた。
この時の彼女の可愛い顔を思い出すと、切なさで胸が締め付けられる思いに駆られる。
「へへ〜、上手でしょ! 可愛い〜」
「……上手だと思う」
馬もリュミィに撫でられるのが気持ちいいのか、とても大人しくしていた。
「もうすぐ北の結界領域に入るね〜。今日中には砦に着くかな?」
リュミィは王族であるにも関わらず、供を多く連れて行くのを好まないため、大抵の場合随行者は最少人数だった。
あまり堅苦しいのは好きではないからと、他の者を置いて休憩と称してこの時は丘まで僕と2人で来ていた。
「リュミィは光魔法以外はあまり上手じゃないから、絶対に傍から離れないように」
「分かってるよ〜。フォンセは心配性だなぁ。ま、『黒闇のフォンセ』が傍にいるんだから、何の問題もないでしょ?」
ニンマリと笑いながら、僕の瞳を覗き込むように見上げてきた。
誰もがこの髪色を忌避し、そしてカーティスの名から恐れ近寄ろうとしないにも関わらず、彼女はその全てを通り越して僕との距離を縮めてきていた。
感情をほとんど表に出さない僕にも、リュミィは一度も怯んだ事など無かった。
「あ! 凄いよ! ほら、鳥たちがあんなに沢山飛んでる……!」
見上げた空には鳥の群れが北の山脈に向かって飛んでおり、一つの黒い塊のようになっているその姿は圧巻の一言だった。
「いっぱい、いるね〜……! 凄いな〜。いいなぁ……飛んでみたい……」
「……リュミィも、飛んでみる?」
「えっ!?」
リュミィの腰に手を回すと、風魔法を行使してその身体を少しだけ浮かせた。
魔法理論的には不可能ではないと思っていた僕は、以前から独自の理論展開を構築したり実験をしたりしていた。誰かを抱えての飛行は初めてだったがそこまで地上から離れなければ問題ないし、試してみるいい機会だと思いながら彼女を抱えた。
「……え、え、わわわっ! す、凄い、私浮いてるよ〜!!」
「……うん。案外この理論展開上手にいけたなぁ」
魔法の実験を行うのに丁度いいから、と自分自信を納得させていたが、ただ単に彼女の喜ぶ顔が見たかったからあんな事をしたのだと、今ではキチンと理解している。
「さすがフォンセだね! 凄いよ! 色々な属性使えるし、本当に凄いね〜! ふふふ、空、飛んじゃったよ〜!」
「……光属性だけは、あまり得意じゃないんだけどね……」
地上に降りてからも、リュミィはその瞳をキラキラと輝かせながら、子どものように無邪気にはしゃいでいた。
その姿を見た時、胸の中から感じたことのない抑えきれない感情が込み上げてきたのを覚えている。
「さぁ、リュミィ。休憩は終わりだ。もう行こう」
「は〜い!」
再び馬に乗った僕たちは、結界領域にある砦を目指した。
馬に乗る彼女の横顔に夕陽が差し込み、透けるような金髪が陽の光を反射して眩しいくらいに煌めいていた。
世界と一体になったようなその姿は、幻想的なまでに美しかった。
陳腐な表現だと思うけど、彼女に出逢ってから僕の世界は鮮やかに色付きはじめ、その輝きを知った僕の胸は切なさに締め付けられたのだ。
彼女はこの世界をこよなく愛していて、彼女との旅はいつも光輝いていた。
全ての生き物を、そしてこの国の自然を、彼女はとても大好きだった。
「綺麗だね〜」
東部への結界領域の道中にある川の流れを、澄んだ瞳に映しながら彼女はそう溢した。
川と共に流れる青。海へと向かって脇目もふらずに緩やかに流れていくその景色に、感銘を受けているようだった。
「あ! 今狐がいた!」
「ふふ。リュミィは本当に、生き物が好きだね」
隣に並ぶリュミィを愛しそうに見つめると、笑いかけた。この頃には、自分のこの感情が何であるかを理解していた。
──そう、僕は、リュミィを心から愛していた。
だが、僕はあのカーティスの嫡男であり、おまけにこの髪色だった。リュミィの父である国王陛下が、僕の事を嫌っていることも知っていた。
ただ優秀で闇属性にも優れ結界の維持に必要であるから、渋々リュミィの護衛役として任命していたのだ。
王家は時の流れと共に、いつしか『闇』であるカーティスを遠ざけるようになっていた。
その昔は互いに血を交える事もあったはずなのに、何のためにカーティスの闇が存在しているのか、その意義を遥かに続く歴史の中で忘れ去っていったのだろう。
今はまだ結界の維持としての必要性を理解しているが、それもいつまで続くのか分からない危うい状況だった。
「……っ……うん! 私、この世界がとっても好き。結界の外は魔物の領域で、私たち人間はそこから出て生きていく事は難しいけど、神様がくれたこの世界が大好き。いつも生で溢れていて、光り輝くこの世界を守っていきたい……」
一瞬頬を赤く染めたリュミィは、心底慈しむように目の前に広がっている世界を眺めた。
「……あのね、フォンセ。知ってる? 今の肉体の中に魂があってね、その魂は死んでもまた巡ってこの世に生まれ落ちるんだよ」
「リュミィは、随分面白い事を言うよね?」
そんな事聞いたこともなくて、思わず目を丸くしながら隣にいるリュミィを見下ろした。
「ふふふ……あのね……フォンセは、また巡り合って、私と出逢ったんだよ。私、初めて貴方を見た時にすぐ分かったんだ。この人だって。……フォンセには、愛の形があったからね!」
照れているのか、頬を赤く染めはにかみながら、彼女はとても優しく微笑んだ。
その、吸い込まれそうな程の蒼色の瞳を見つめると、何故だかとても懐かしい気持ちがした。
「……リュミィは、僕が怖くないのか……?」
誰しもが、カーティスのその残虐性に恐れをなす。そして、僕のこの髪色は、更なる恐れを人々に呼び起こす。
「フォンセは、怖くなんかないよ。私は知ってるよ、フォンセが本当は優しい人だって。……本当は、したくてしているわけじゃないって……」
その言葉は、胸を突き刺すような衝撃を齎した。
幼少の頃から常にカーティスであれと言われ続け、己の感情を制御してきたはずの僕が、思わず涙を零しそうになった。
そう、誰だって、好きで殺したり非道な事をしたいとは思わないはずだ……
「……な、ぜ……?」
辛うじてその言葉をリュミィに投げることができた。
「……私、見たんだ。学園に行く前に部屋の窓から外を眺めていたら、ちょうど貴方の姿があって。フォンセって凄く目立つじゃない? その髪色で。すぐに、あぁ、この人があのカーティスの人だって。そしたら、木の下に鳥の雛が2羽落ちてしまっているのを見つけたのよね」
必死で記憶を辿っていくと、学園を卒業し近衛隊に配属されて1年後くらいの出来事だったと思い出した。
周囲には誰もいなかったが、まさか上から見られていたとは全然気が付いていなくて、目撃されていたのかと驚きで言葉を失ってしまった。
「フォンセはその雛を大事そうに抱えると、巣に戻そうとしていた。でも、1羽はきっとダメで……必死に治癒魔法をかけるけど間に合わなかったその雛を、貴方はとても悲しそうな瞳で見つめていたわ」
「その雛は……」
「うん。巣の足元の樹の下に、丁寧に埋葬していたよね。……あの時理解したの。貴方は、皆が言うような人じゃないって。私の目に映る貴方は、皆から聞くものといつも違って見えたから」
「……リュミィ……」
彼女がここまで僕の事を理解してくれていたことに、何とも言えない喜びが胸の内を駆け巡った。そしてそれだけではなく、益々彼女の事が愛おしく大切に思った。
「ふふふ。そんな顔しないで? 大丈夫! 私が、ずっと傍にいてあげるから!」
リュミィは僕の両手を取ると、輝くような笑顔を向けた。
「お父様にお願いしたの! 私、フォンセと結婚したいって。最初は凄く反対されたけど、絶対にフォンセじゃないと嫌だって。私にはお姉さまもお兄様も、それに弟もいるから、1人くらいいいでしょって。でね、やっと許しをもらえたのよ!」
強く握ったまま僕を見上げ、少し得意げな顔をしたリュミィが愛しくて。
こんな僕の傍にいてくれると言ってくれたリュミィが愛しくて。
自分の感情を抑えることもせず、勢いよくリュミィを抱きしめた。
「……リュミィ……リュミエール……愛してる」
「……私も、フォンセ。愛してる……」
そのまま暫く僕たちは抱き合った。川を流れるせせらぎの音と、鳥たちの囀りが静かに響いているのを耳にしながら──
「フォンセったら、せっかく婚約したのに、キスもしてくれないんだから……」
内々に結婚する事の許しを得た僕たちは、それからも結界維持のための任で旅に出かけていた。
だが、まだあくまでごく限られた身内のみにしか僕たちの結婚については話が通っておらず、表向きには第二王女とその護衛騎士のままだった。
こうした任務の合間に手を繋ぐことはあっても、それ以上のことはした事がなかった。
僕は、血塗られたこの手で光である彼女に触れる事を、どうしても躊躇ってしまったのだ。
───その事を、今は酷く後悔している。
結界維持の旅から帰宅した僕たちは、国王陛下に内密に話があると呼びだされた。
「……え? お父様、どういう事ですか? だって、フォンセと結婚していいって言ってくれましたよね!?」
リュミィは激しく動揺し、そして激昂していた。彼女がこんなに声を荒げるのを聞いたことがなかった。
「……すまん、リュミエール。仕方がないのだ。今年は麦の収穫が例年より大幅に少ない。このままでは来年までもつか……」
「だからと言って、なんで私がオヴェスト公の息子と結婚しないといけないんですか!?」
王国の西部は広大な穀倉地帯となっており、この国の全ての地域へ穀物を移出している土地に当たる。その広大な土地の大部分を領地としているのが、オヴェスト公爵家だ。
今年は麦の収穫が例年より随分と少なかった。このままでは来年、他の地域への食糧の移出に多大なる影響が出ると予測されていた。
本来なら王家であるスラティナの一言で、オヴェスト家の備蓄庫を開けさせるなり何なりして民へと行き届くように采配すればいいはずなのだ。
だが現オヴェスト公はかなり謀略的な人間で、国王陛下も弱みを握られているのか頭が上がらないようだった。
カーティスでも実は裏でこのオヴェスト公について色々探ってはいるのだが、中々尻尾を出さないため手をこまねいている状況だった。
そのオヴェスト公が備蓄庫を開ける条件としたのが、リュミィとその長男ユーベル・オヴェストとの婚姻であった。
「すまん、リュミエール。だがこれも、万の民を助けるためだと思って我慢して欲しい。──フォンセ、分かっておるな」
国王陛下は、先ほどまでリュミィに向けていた父親の仮面を脱ぎ去ると、施政者の顔をして僕を見据えた。
「……御意。陛下……」
「フォンセっ!!」
今にも泣き出しそうな顔をしているリュミィの顔を、僕は見れなかった。
第二王女を部屋まで送り届けることが、彼女の護衛としての最後の仕事だった。
リュミィとユーベルの婚姻が決まった以上、僕がこれ以上接触するわけにはいかなかったためだ。
早速明日から、リュミィの弟のフレール殿下につくこととなった。結界維持の任もリュミィからフレール殿下へと移行されることに決まったのだ。
まだ学園に入学していないフレール様はとても知性的な方のはずだと、感情を切り離した思考で記憶を呼び起こした。
だが、本当は、そんな事はどうでも良かった。
部屋まで送り届けると、侍女に用事を言いつけたリュミィは僕と2人きりになるようにした。
まだ事情を知らない侍女が何かを察したように姿を消したのを見て、複雑な心境に駆られる心をなんとか抑え込んだ。
「フォンセ……お願い…私を連れて、逃げて……」
澄んだ蒼色の瞳からはらはらと涙を零しながら、リュミィは僕に縋りついた。
彼女と僕がここで逃げれば西部のオヴェスト家と王家の溝が深まり、下手をすれば来年万の民が飢えてしまう。
カーティス家の教えとして、万の民のためなら僕たち2人の幸せは、切り捨てるべきなのだ……
僕は、己の全身全霊を、魂の全てをかけて、自分の感情を制御しリュミィにそれを悟られないようにした。
「……それは出来ない、リュミィ。──僕たちは今日で終わったんだ」
あえて淡々と聞こえるように、表情筋を全て固めて、努めて何でもない風を装ってリュミィに別れを告げた。
その言葉を聞いた瞬間、リュミィは目を見開き僕を見上げた。
その蒼色から溺れそうな程の涙があふれ出し、そしてこぼれ落ちていった。
その場に膝をついて崩れ落ちたリュミィをそのままにして、無表情のまま立ち去った。
──あの瞬間から、僕の世界は色を無くした。
♢
あの時、彼女の手を取ればよかったのだろうか。
あの時、彼女の柔らかそうな唇に口付けをしていれば、もしかして何かが変わっていたのだろうか。
僕は感情を失い、生きていく糧を喪った。
彼女との出逢いから別れまでの記憶を繰り返し頭の中で再生する日々を、虚なまま過ごしていた。
「フォンセ……」
「フレール殿下、どうされましたか?」
今度の結界領域での任務についての打ち合わせをしている時、護衛対象のフレール殿下が意を決したような声色で僕を見上げた。
フレール殿下はリュミィと同じで僕をあまり恐れていないのか、今も普通に話をしてくれる。
彼女と良く似た蒼色の瞳を揺らせながら、その顔に憂いを浮かべていた。
「……リュミエールお姉様の様子が、ずっとおかしいんだ……ユーベル様との結婚が決まった時からずっと元気が無かったけど、ここ最近はご飯もほとんど召し上がってなくて。どんどん痩せていってる……このままだと、リュミエールお姉様、死んでしまうかも……」
やや俯き唇を戦慄かせたフレール殿下の目には涙が浮かんでいて、必死にそれが流れるのを我慢しているようだった。
「……フレール殿下。──殿下のご尽力で、何とかしてリュミエール様にお逢いする事は出来るのでしょうか?」
フレール殿下にこんな事を頼むのは良くないと思っているのに、気がついたら言葉が口をついて出ていた。
別れのあの夜から、一度もリュミィの姿を見ていない。彼女が公式の場にも姿を現していない事は常に気がかりではあったが、僕にはどうにもしようがなかった。
リュミィの護衛を外れた僕が、結婚を控えた第二王女と逢うのは問題にしかならない。特に僕は、単なる護衛役だっただけでなく元婚約者だ。
ずっとそう考えて自分を抑え込んでいたのだが、フレール殿下から話を聞いてどうしても自分の感情を上手く制御する事が出来なかった。
「っ! フォンセっ! 行ってくれるの!? ……リュミエールお姉様は、ずっと貴方を待ってる……」
その言葉に胸を突かれ、激しく心を揺さぶられた僕は、悲痛そうな顔をしているフレール殿下を呆然とした面持ちで見つめた。
いつまで経っても、あの夜別れた時のリュミィの顔が、頭にこびり付いて離れない。
「……リュミィ……」
その晩、フレール殿下に協力してもらい、ここ最近ずっと部屋から出てこないらしいリュミィの寝室へこっそりと忍び込むことにした。
本来ならば決して行ってはいけない事だ。
頭では分かってはいても、自分の心を抑える事が出来なかった。
「リュミエールお姉様、僕です。フレールです。入りますね……さ、入ってください。僕はここにいて侍女たちの目を誤魔化しますから」
こっそりと扉を開けたフレール殿下は、辺りを伺うようにしながら僕の背中を押して促した。
閉まる扉の向こう側で、静かに佇みながら僕に向かって頷いた彼と、視線が一瞬交差した。
「……リュミィ……?」
「……フォン、セ……?」
そっと声のするベッドの方へ行き、そこに横たわるリュミィの姿を見て絶句した。
あんなに溌剌としていた彼女の面影は、そこには全く無かった。
痩せた身体は2回り以上も小さくなっており、あの澄んだ瞳は酷く澱んでいて、焦点の合わない目は宙を彷徨っていた。
「……リュミィ……なぜ……」
あまりにも変わり果てていた彼女に、衝撃で血の気が引いていくのが自分でも分かった。
言葉を失ってしまった僕は、己の感情をコントロール出来ず呆然と立ち尽くすしか出来なかった。
「っ! 来ないで! 来ちゃダメ! 帰って!」
痩せこけた身体でどこにそんな力があるのか、彼女はシーツを握りしめながら必死の形相で僕に言い募った。
「……リュミィ……」
「やめて! もう終わったって言ったわ……お願い、来ないで……っひっ……」
勢いを失くし最後は泣き崩れた彼女に伸ばしかけた手は、虚しく空を切った。
「……リュミエールお姉様? フォンセ、まずいです。人が来ます」
扉から少し焦ったような顔をしたフレール殿下が、こちらを伺うように覗き込んでいた。
人が集まる気配を察したため、どうしようもない思いを抱え込んだまま急いで扉へと向かった。出る直前に振り返ると、ベッドの上で身体を縮ませて咽び泣いているリュミィの姿が瞳に映った。
♢
リュミィ
リュミエール……
それから数日間ずっと、リュミィの事ばかりが頭の中を巡っている。
最後に僕を見た彼女の瞳。それは、僕に向かって拒絶の言葉を吐きながらも、助けを求めている目をしていた。
カーティス家の嫡男として、決して赦されない事だとは分かっている。
だけどもう、僕は自分のこの想いを、感情を、抑えきる事が出来なかった。
───リュミィを奪って、逃げる。
狭くはない王国内だ、何処か静かな場所で2人で隠れるように暮らして行くことも不可能ではない。
いつか、リュミィが求めたように……
弟のアートルに後を託す旨の手紙を書くと、王城へと向かう。
フレール殿下の護衛として近衛隊にいるため、王族のみが出入りを許される私的エリアへと許可もなく足を踏み入れる事が出来た。
行き慣れたリュミィの部屋へと向かうのだが、道中人の気配が感じられない事に疑問を抱いた。
正直見咎められることも予想していたため、あっけない程のこの様子に何故か酷く嫌な予感がした僕は、早い足取りで通路を進んでいく。
部屋の中に入ると、何故か侍女の姿が見えなかった。リュミィがいると思われる隣の寝室から男の怒鳴り声のようなものが聞こえ、急ぎ向かうとその扉を蹴破った。
「リュミィっ!!」
──そこには、腹部から血を流し男の足元へ横たわるリュミエールの姿があった。
「貴様、フォンセっ! やはりお前ら出来てやがったか! その腹の子だって、本当に俺の子かどうかも怪しいものだ!」
リュミエールの血で濡れた短剣を持って、ユーベルが喚き散らしながら足元に転がるリュミィを嫌悪の眼差しで見下ろしていた。
腹の子……
リュミィ……
「──ッキャーッ!!! だ、誰かっ!!!」
「リュ、リュミエール様がっ!」
騒ぎを聞きつけたのか、侍女たちが部屋へと入りこの惨状に悲鳴をあげていく。
王族たるリュミィの部屋に、いくら婚約者といえどもユーベルが単独で忍び込めるはずがない。
ただし、侍女の手引きがあれば話は別だ……
僕は、目の前が真っ赤になった───
ぽた…ぽた……
周囲に充満する、噎せるような血の匂いで我に返る。
気が付くと辺り一面血の海になっていて、自分自身も血で真っ赤に染まっていた。
鉄の錆びたようなその匂いに、ムカムカと吐き気が込み上げてくる。
見ると、ユーベルだったモノがあちこちに散らばっていた。
所々女物の衣装が混じっているのは、恐らく侍女のモノなのだろう。
「……リュミィっ!」
横たわっているリュミィに駆け寄ると、その小さい身体を抱え込み急ぎ治癒魔法をかけていく。
だが元々光属性を不得意としているため、気持ちばかりが焦り中々上手くいかない。
「……フォ、ンセ……? 来て、くれたんだ……」
薄らと目を開けたリュミィの瞳は、数日前とは違って以前と変わらぬ澄んだものであった。
「リュミィ! しっかりしろ! ……待ってろ、今治癒する……」
「も…無理だよ……血を、ながしすぎ、ちゃ……た」
リュミィの顔は血の気が引いて、ただでさえ白い肌がまるで人形のように真っ白になっていた。
「なぜ! リュミィ、何故自分で治癒しなかった!? 光魔法が得意だろう!? 一瞬で、こんな傷なんて治せるじゃないか!」
「…ごめ……も、むり……聞いたで、しょ? この、おなかには、あい、つの……子が……」
そこまで言葉を発すると、蒼色の瞳からボロボロと涙が溢れだした。
リュミィのぐったりと弛緩した身体を、強く強く掻き抱いた。
「僕は……僕は、君の事を愛している……リュミィ。一緒に、逃げよう……君となら、どこでだって生きていける。リュミィがいてくれるのなら……子どもも、一緒に育てよう……」
リュミィの身体を必死で治癒しながら、懸命に彼女の血の気のない滑らかな頬を撫でる。
僕の手についている血で、彼女のその白い頬を汚してしまうのを申し訳なく感じながらも、もう彼女に触れる事を躊躇わなかった。
「……フォンセ……ありが、とう……」
リュミィは、とてもとても美しい笑顔を僕に向けた。
「リュミィ……」
「泣かない、で……そばに、いるから…遠い来世で……あなたを…待っている……フォンセ」
リュミィの頬へと涙がぽたぽたと落ち、彼女の流す涙と混じり合ったそれは、彼女の頬へとゆっくりと流れ落ちていった。
「リュミィ……リュミィ……」
彼女を腕に抱きながら、無駄とは分かっていてもひたすらに治癒魔法を行使し続ける。
「ダメだ……リュミィ……ダメだ……」
「………最後に、キス…して…欲しいな……おねがい、フォンセ……」
「リュミィ……」
彼女と僕の瞳が絡み合った。
リュミィが好きだと言ってくれた僕の瞳がもっとよく彼女に見えるようにと、顔を近づける。
そして、青ざめながら震える唇にそっと自身の唇を重ねた。血の気は失われていてもその唇は柔らかく温かく、初めての彼女との口付けは甘く切なく、そして別れの味がした。
「あり、が……とう……あ、いして…る…………」
ぴくりと身体を一瞬震わせた彼女のその蒼色の瞳から、すっと色が抜け落ちた。その瞳はもはや何も映しておらず、ただ空虚なガラス玉のようにそこに在った。
彼女のその開いた目をそっと手で閉じ、濡れた頬を優しく撫でるともう一度口付けをした。
先程と変わらぬ柔らかさと温もりを感じながら交わした口付けは、死の味がした。
「……僕も、すぐそこにいくから……」
闇の祝福を受けた僕は、闇属性に秀でている。
僕の魔力量をもってすれば、王国中の結界を解く事なんて意図も容易い事だ。
彼女のいないこんな世界、彼女を壊したこんな世界なんて、僕にとってはどうでもよかった。
だけど。
リュミィは、この世界をこよなく愛していた。
「君が愛したこの世界を、僕は壊さないでおくよ。きっと君が哀しむだろうから……リュミィエール…僕の光……」
リュミィの遺体をそっとベッドへと運んで行くと、丁寧に横たえ寝かしてから水魔法を行使してその身体を清めていく。
衣服が少し破れているものの、そこに横たわるリュミィはまるで寝ているだけのようだった。
「っ兄上!!」
声のした方を見ると、弟のアトールが呆然とした様子で佇んでいた。
恐らく僕の残した手紙を読んで急ぎ駆けつけたのだろう。
随分と無茶をしたものだと思いつつも、その行動力と判断力を頼もしく感じ口元をほころばせた。
「アトール、これで僕の首を刎ねろ」
転がっていた血まみれの己の剣を、アトールの方へと投げて寄越す。
「あ、あにうえ……な、ぜ……?」
「僕の首を陛下に持っていけ。それを見せたら、カーティス家自体の処罰は軽くなるだろう。……すまないな、こんな嫌な役を任せることになって」
アトールに全て押し付ける事はとても申し訳ないと思ったが、これが1番良い判断だ。僕が全て被ればいい。
それに、リュミィのいないこの世界で、生きていけるわけもなかった……
「で、ですが……!」
「僕はカーティス家の当主として失格だ……己の感情を、制御出来なかった」
一瞬固く目を瞑り覚悟を決めたアトールは、涙に濡れていた頬を拭うと、スッと己の感情を消して剣を取った。
「兄上……」
「──後の事は頼んだぞ」
無表情のままグッと剣を握りしめるアトールに、にっこり微笑んだ。
リュミエール、君を待っているから…
いつまでも……
巡り巡って、いつか君が、僕のもとへ来てくれれば……
遠い来世で……
風に吹かれながら、あの樹の下にいる君が見える──
読んでいただいて、ありがとうございました。