『窓辺の貴婦人』
「欲しいものがあるのよ」
窓辺の貴婦人は穏やかに微笑んだ。
「はい、なんなりと」
しがない従僕に過ぎない僕は、膝を突いて頭を垂れた。
「ありがとう、私ね、ペットが欲しいの」
長いまつげが伏せられて、口もとがほんの少しだけ笑みを作る。憂いを帯びた、諦めのこもった、寂しい表情。そんな顔も美しいが、やはり彼女には幸せそうに笑っていて欲しい。
「ペットと言うと、動物でしょうか」
彼女は窓の方に目だけを向けて、外を見る。
三階から見える景色は、周囲の家の赤い屋根と背の高い木に繁る葉ぐらいだろう。
「ええ。毎朝、屋根の上で鳥が鳴くの。昼は猫が伸びをするの。でも、夜は何もないわ、何もない」
足の悪い彼女は、滅多に外へ出ることができない。彼女にとっての世界は、窓枠に切り取られた、空と屋根と葉だけの狭いものなのだ。
僕は、そんな彼女の足であり目であるのだが、それでも夜までそばについていることはできない。だから夜は退屈で寂しいのだろう。
「一緒に居てくれる子がいいわ、ずっと、一緒に」
寂しげな視線は、遠くを見る。
歩くことがままならなくなった彼女からは、たくさんの人が離れた。もう人は信用ならないのかもしれない。
「かしこまりました」
頭を垂れる。
主人の望みを叶えるために僕はいるから。
「欲しいものがあるのよ」
窓辺の貴婦人は幸福そうに微笑んだ。膝の上には小柄な犬が丸まって眠っている。
彼女の伏せられた視線は、犬に向けられていて、口もとは緩く笑んでいた。愛しげな優しい表情。
「はい、なんなりと」
膝を突いて頭を垂れた僕に、彼女は「顔を上げて」と優しい笑みを向けてくれた。その笑みが再び僕に向けられる日が来るなんて。それだけで、今夜は枕を濡らしてしまいそうだ。
「この子のおかげで、寂しくなくなったの。そうしたら、気力がわいてきて、昔を思い出したの。幸せな、思い出」
白くて華奢な手が犬の黒い毛に沈む。犬はぷひっとどこか間抜けな音を鼻から鳴らした。
「あの頃、まだ流行り始めたばかりのチョコレート菓子を貴方と食べたでしょう。また食べたくなったの。買ってきて、もらえるかしら」
遠くを見る視線は、懐かしげだ。僕との思い出を幸せなものだと言ってもらえたことに、この上ない喜びが胸の奥に広がっていく。
主人である彼女とテーブルを共にしたのは、後にも先にもあの一度きりだ。あのときの僕が、ある男――彼女の婚約者だった男だ――の代わりに過ぎなかったことは、もちろん理解しているが。
「かしこまりました」
頭を垂れる。
彼女の望みならば、僕は何でも叶えよう。
「欲しいものがあるのよ」
窓辺の貴婦人は微笑んだ。
「はい、なんなりと」
僕は膝を突いて頭を垂れる。
「欲しいものが、あるのよ」
「はい」
彼女は美しく微笑んでいる。
小さかった犬は、大分大きくなって、彼女に向かって甘えるように鳴く。
「――――」
ぴんと上を向いたまつげから、宝玉のような幻想的な青色を覗かせ、頬を緩く持ち上げ、口もとは上品に弧を描く彼女に、僕は頭を垂れる。
「かしこまりました」
彼女の望みを叶えることが、僕の生きる意味だから。
「…………」
窓辺の貴婦人は微笑んでいる。
「はい、なんなりと」
彼女の従僕でいることしかできない僕は、膝を突いて頭を垂れる。
「…………」
犬が寂しそうに鳴いて、僕に寄り添った。掌がペロリと舐められる。
美しい微笑を浮かべた彼女は、もう何年も変わらない美貌のまま、窓辺に佇んでいる。
「かしこまりました」
頭を垂れる。
随分、しわがれてしまった声が空気に溶けて消えていった。
「……かしこまり、ました」
僕は生涯、彼女の望みを聞き、叶え続けた。
*
「ふむ、見事な絵だ。さぞ名のある画家の作品なのだろう」
友人に招かれた家で、紳士は感嘆の息を吐いた。
それは実に見事な肖像画だった。
色使いももちろん素晴らしいが、表情が何よりも抜きん出て繊細だ。まるでそこに一人の人間がいるかのよう。
ぴんと上を向いたまつげから、宝玉のような鮮やかな青色が覗き、頬を緩く持ち上げ、上品に口もとに弧を描く妙齢の女性。実に幸福そうで美しい笑みに、見惚れない男はいないだろう。
事実、見惚れている紳士に、家主である友人は顎髭を撫でて言った。
「ああ、素晴らしいだろう。だが、この絵は呪われてるんだ」
「ははぁ、美しく、人を魅了するものにはつきものの話だな」
訳知り顔で頷く紳士に、友人は首を振った。
「いや、見た者の魂を奪うだとかそう恐ろしいものではないんだ。彼女はこの窓辺から、絶対に離れないんだ」
「ほう、余程窓のそばが気に入ってるわけか。絵の中にも、窓が描かれている」
紳士が絵の中を指差す。
美しく微笑む女性の後ろに小さく窓が描かれ、赤っぽい屋根や、木の葉の緑が映り込んでいる。
ああ、と友人は頷く。
「彼女はさる貴族のお嬢様だったらしい。足を悪くして、家を出られなくなったんだな、窓外の景色ぐらいしか彼女を慰めるものはなかったんだろう」
「なるほど、するとこの貴婦人の魂は絵に宿ってしまったわけだな」
頷く紳士に友人は、顎髭を撫でる手を止めた。
「いや……それは案外彼女ではないのかもしれない。たまに、見たという人間がいるんだ」
「見た?」
「ああ。夜中、絵の前の彼女に跪く、男の影を」
背筋に冷たいものが走った紳士が、もう一度、美しい絵画を見ると、微笑む彼女の背後、確かに外の景色が映っていただけの窓に、頭を垂れる男が映っているのを見た気がした。
ありがとうございました。