姫騎士様は自信がない、なの?
カールハインツの寝所へ行く。
王太子妃用の浴場でハーブの湯につかり全身くまなく洗ったので隙はないはずだ。何度も小姓に汗臭くないか、妙なにおいはしないかと確かめてもいる。よし。
「おーい。居るな?入るぞ。カールハインツ」
一応、声をかけてから入る。居ることは分かっているのだが、急に入って彼に嫌な顔でもされたらショックだからな。わたしもそれなりに考えてはいるのだ。
「……」
いつものようにベットの上で書類と地図に見入っている。昔は同じく見入っているにも眉間にしわを寄せていたものだ。ベットの周りに書類が散乱しているのは相変わらずだが、感情を表さなくなったのは成長の証なのだろう。
「おーい。気づいているか?若妻が夫の寝室にわざわざ来ていることに」
「リーザロッテの来る頃間だと思っていた。区切りをつけるからちょっと待ってくれ」
カールハインツがサインをしたためてから書類を束にまとめだし、地図もしまった。束ねた書類は重要度順にサイドテーブルへ積み重ねられていく。ベットの周りの書類も一掃され一つにまとめられた。
その間、わたしは壁に飾られている絵画を眺めて待つ。いつものことだ。
絵画には3年前のわたしたちの結婚式の様子が描かれている。侍祭がそれぞれの頭の上に王太子の冠と王太子妃の冠を掲げ、横では大司教がすました顔で祝福を与えている。わたしは栗色の髪に似合うからと薄いピンク色の下地に銀糸の刺繍をあしらい、金や銀、宝石をふんだんに使った装飾の豪華なドレスを着せられ、白いベールの陰からちょっとはにかんだ笑みを浮かべている。彼とつないだ手には祝福の布がかけられており……。
「終わった。僕の横にお座り。僕の若妻さん」
「うむ。それにしてもいつもいつも仕事をしているな。よく飽きないことだ」
わたしは上気している自分をごまかすため余計なことを言う。彼がこんなに遅くまで仕事をしている理由のほとんどが実家の不始末にあるというのに。本当に余計だ。
「仕事が好きなんだ。これでも王家の血筋なものでね」
彼は横に座ったわたしを後ろから腕を回し首筋に唇をつける。
ああ。これから起こることへの期待で胸の奥が早鐘のように鼓動を刻む。見ろ。もう全身が粟立っているのが自分でもわかる。
彼の手がわたしの首元の寝巻の紐をほどきわたしを徐々に裸へと剥く。そして、彼の唇が掠るか掠らないかの微妙な距離で首筋から背中へとゆっくり流れ落ちていく。
頭の中が白くなって、もう何も考えられなくなって、体が宙に浮くような感覚に襲われて……、わたしは遂にはしたない声を上げてしまう。
なのに、なのに彼は意地悪だ。彼はわたしの背中に息を吐きかけ、彼の唇がゆっくりとわたしの背中を登ってくる。わたしは堪らなくなって首をねじり背中越しに彼の方へおねだりのため息をつく。
そこでようやくわたしの腰に吊った剣が外されてベットの下にゴトリと落ち、足首に巻いたナイフも無くなり、寝巻も下へと落ちる。
裸になったわたしはいったん彼に抱き上げられてベットに仰向けに寝かされて。
……彼が襲いかかってくる。
*
「結局」
わたしは幸せだ。火照りは去ったが、余韻というやつに浸り、今度は彼に優しく包まれていく。何の憂いもなく、母親に抱きくるまれた赤子のように安心した気分になる。
「結局、獣のように襲いかかってくるというのに、なんでわたしは毎回夫の寝所へ足を運ばなければならないのだ?」
「?」
はしたないことを言いかけたわたしはまた体が上気してきたのを感じる。ああ。もう。馬鹿なことを言い出したものだ。恥ずかしい。
「その。わ、わたしも自分の寝所に夫が来るのを待っていたい」
「それは無理だ」
「なぜ?あっ!」
わたしは気づいてしまった。わたしのところには家の者がいる。父の耳目がいる。
「でも、政治向きの話をしなければ」
「王族の行動はすべて政治の話なんだよ。誰のところでお茶を飲んだ。どんな冗談を言い合った。すべてが政治に直結してしまう。しかも行動にパターンが出来ると利用しようとする輩が必ず現れる。
だから、王族には自由なんてないんだよ。実に不条理で不満の溜る話だけれどね」
「……」
「君がここに来るのも関係各所の妥協と調整と黙認があってのことだ。
君も誰かに言われただろう?僕の母だとか実家の父君とかに」
「……」
そうだ。その通りだ。国母のマルグリット王妃から嫌みを言われ、実家の父からは手紙が来た。
フフフ。わたしは馬鹿だ。勝手に甘い夢に酔ってしまって。出来損ないで残り物の、もと王太子妃候補に誰も期待などしてはいないことはよくわかっていたはずだ。せいぜい元気な子供を産むくらいしか能がない未来の王妃失格者……。
「冷たい水でもぶっかけられた顔をしているね。
でも、安心して。僕は君を誰よりも愛している。必要としている。僕が本当に将来王になれたのなら、きっとリーザロッテ、君にはずっと僕のそばでにこやかに微笑んでいてほしい」
「嘘だっ!」
擽ってこようとするカールハインツの手をはねのける。
「誰もわたしになど期待していないし興味も持っていない。ただアウゲンターラー家の娘であることだけの理由で存在を許されている。みじめだ。そして、なにより滑稽だ。
だが、わたしは。わたしは。馬鹿なわたしは身の程知らずにもこの国の王太子に恋焦がれてしまったのだ。
くそっ。7年前の政変がなく王宮からフロイデ様が追放されなければ、わたしは物陰から指をくわえているだけで済んだものを!」
「やめてくれ。フロイデの名など聞きたくもない。あの薄気味悪い存在をようやく忘れかけてきたというのにっ!」
わたしは目を丸くした。芝居などではない。今度はカールハインツが激昂している。
「いつまで尾を引いている?なぜあんな奴に劣等感を抱く?」
「彼女はなんでも完ぺきにこなした。誰よりも賢く、誰よりも美しかった。そして誰よりも未来の王妃にふさわしかった。それが証拠に最後まで王太母だったエリザベータ様がフロイデ様を庇っておられた」
「はあ!?あんなのが毎日僕の横に座ると考えただけで寒気がするよ。実際そうなったら僕は心の病ですぐに死んでしまうだろうさ。
はっ!確かに。あれはなんでも完ぺきにこなすだろうさ。この世にたぐいまれな美しい置物としてあれを王宮に飾っておけれさえすれば便利だと大変重宝がられたろう。美しい自動の人形としてね」
カールハインツがベットに座って腕を組む。
「そりゃ、誰よりも賢かったさ。誰よりも美しかっただろうさ。でも、誰よりも不気味だった。あれは人間ではないのだ。祖母は最初からそれに気づいていたから始終腫れ物に触るかのようにあれに接していたんだ。はた目にはどう見えたかは知れないけどね。僕も最初は気づかなかった。でも、気づいたらあれに対する祖母の異様な接し方が理解できた。あれがいったん牙を剥いてきたら国が亡ぶくらいでは済まない。7年前、あれの家をアウゲンターラー家が圧倒したとき、ひやひやしたものだ。あれに感情があるかどうかは知らないけれど、もし怒りだしたらと思うと冷や汗が止まらなかったよ。直後にあれに慰めるふりをして聞いてみたんだ。すると、『わたくし、なにも感じませんの。普通の方でしたら悲しみとか怒りとか絶望とかをお感じになられるでしょうに。不思議なことにわたくしはまったく。6才で王宮に上がってから父とも母とも疎遠で、弟とはありきたりな手紙のやり取りをしたことはございますが、実際に顔を合わせたのは1度きりでしたしたから実感がわかないのかもしれませんわ』と、あれはいけしゃあしゃあと答えたよ。感情の爆発がない点では僕は安心したけど、人でなしなことを再確認してしまった。いやまったく。王宮は何もあれの家族との交際を邪魔したことなどない。自由に宿下がりしていいといつも言っていたくらいだ。だのに、いかにも王太子妃候補に無理やりさせられて苦労しましたわ、という体を取りやがって。白々しい」
「だったら、わたしの父は何ということを!いや。信じられない。あのフロイデ様が」
「そりゃ信じられないだろうさ。ほとんどの者はあれに接したことはないからな。遠目でしか見たことがない。
あれは自身のことをよく知っている。だから、6才のころからずっと王宮の奥に身を潜めて誰にも接しないようにしてたんだ。利用していたのはあれの方なのに、世間の評価はまるで逆だ」
「そんな。あの方は侍女たちがどんな粗相をしても怒らなかった。反省した態度さえ見せればすべてを水に流した。わたしが嫉妬のあまり失礼な態度をとってしまったこともにこやかに許してくださった」
「許してくださった?関心がなかっただけさ。どんな目的かは知らないけど、あれはあれの目的をもって生きている。それに他人が触れない以上、家が潰されようと自身が殺されかけようがあれは気にも留めない。蝶や蜻蛉が飛んでいるのと同じくらいどうでもいいことなのさ。まして周りが自分に対してどんな感情を抱こうが態度に出ようがあれには関係がない。絶対に越えられないガラスの壁越しにこちらを虫以下の存在として見ていたのさ」
「でも。でも。ちょっと浮世離れしたところがあったかもしれないけれど、そんな怪物じみた……」
「信じないよね。普通は信じられない。普通の人からすればあれはただの美しく若くて華奢で無力な女さ。守ってあげたくもなるだろうさ。だが、王族で特殊な体質を受け継いでいて魔力に敏感なら、あれがそばにいるだけで身を震わせてしまうほどの恐ろしい何かだとわかってしまう。
君は知らなかっただろうけど、あれは西風の精霊の加護を受けていた。実際に使っているのを見た者も数人いる」
なんだと!でも、風の属性持ちなら。
「風の属性持ちの魔術師程度の能力ではないのだ。そして、あれはそれ以外にも異常な能力を持っている。
これを聞いてリーザロッテは何かを思い出さないか?歴史的に有名な人物のことを」
そうだ。西風の精霊の加護持ち自体珍しく、その加護持ちと聞いてまず人々が思い浮かべるのが250年前勇者の一行に加わったひとりの魔女。常に勇者のそばに侍り、味方には陽だまりとそよ風を与えすべての傷も呪いもたちどころに癒す慈愛の化身。敵に対しては凍てつく厳しい地吹雪を吹き付けすべてを凍えつくして塵と変え吹き飛ばしてしまう破壊の化身。しかし、おとぎ話に伝わる白の魔女の性格とフロイデ様の性格とはかなりかけ離れている。
「白の魔女は激しい性格の方だったと聞いている。フロイデ様とは似ても似つかない」
「白の魔女は勇者を盲愛し物事を勇者を通してしか見なかった。彼女にとって勇者のためになることはすべていいこと。勇者に味方するものはすべて長く幸せに生きる価値のある存在。逆に勇者に都合の悪いことはすべて悪。勇者の敵となったものはすぐに破滅すべき生きる価値のない存在。
その単純な判断のもと彼女の異常な能力が余すところなく振るわれただけさ。世間ではその結果のすさまじさから激情家ととらえられている。しかし、本当は勇者以外に何の関心もない、人間的な感情を持っているのかさえ疑わしい異能の存在。勇者さえいなければ彼女は全くフロイデそっくりさ。
これで分かったろう?フロイデは白の魔女の生まれ変わりだと」
生まれ変わり?そんなこと現実にあるのだろうか?
「もしかしたら生まれ変わりですらなかったのかもしれない。あれがはじめて王宮に上がった6歳の時、当時博覧強記の学者の家庭教師をお供にしてあらゆる分野のあらゆる学説について質問をしてみたんだ。対してあれがとった態度は3パターン。
『理解できますわ。補足させていただくと』『あるいはそのような考えも成り立ちうるのかもしれませんわね。期待はできませんが』『それは間違っております』
精通していることにも驚きだが、6歳の幼女がだよ。なんでそんな上から目線の受け答えができるんだ。まるで長いこと研究していた学者のようじゃないか。あれが250年間ずっと生き続けていたといわれても僕は驚かない」
ああ。なんということだろう。
「そ、それが本当なら」
「本当だよ」
ああ。なんということだろう。
「なんでわたしに教えてくれなかったんだ?カールハインツ!」
「君の行動が予測できない。絶対に君はじっと傍観しているなど出来っこなかった」
じっとはしていなかった。激情に駆られてわたしは伝来の破魔の剣を振るっていたことだろう。心置きなく。そして、カールハインツと何の接点もないまま死んでいただろう……。
「結局、フロイデを追い出せてみんな幸せになったんだ。僕も君も。王族も。国中の人たちも。だからあれのことなんて忘れてしまえよ。
……僕は最初からフロイデではなく、君を、リーザロッテを見ていたんだ。君が王太子妃になってくれたらどんなに良いかと考えていたんだ」
「……」
「ほかのことはいざ知らず、フロイデに関してだけは君の父君のしたことを感謝しているよ。ああ。それと、君を王宮に上がらせたこともね」
騎士に憧れ年少のころからじゃじゃ馬で手の付けられなかった、このわたしがか?現在でも王妃様の顔を顰めさせている、わたしがか?年頃の貴族令嬢ならこと無げにできることを何一つできない、わたしがか?
「王宮に上がったばかりのわたしはどう見えていた?可愛らしかったか?」
「……阿保の子にしか見えなかったな。いつもびっくりしたように緑の目を大きく見開き、だいたい口は半開き。落ち着きがなく、いつも木の実を齧っているリスみたいに思えた。痛い痛いっ!」
ああ。しまった!王太子の背中を無意識にバンバン叩いてしまった。
「ああ。それからこの部屋に来るときはもうその剣を下げてくるのはやめた方がいい。足首に巻いたナイフも」
「いや。不用心じゃないか?ここには護衛の姿も目につかないし」
「護衛は最初からいない。王宮のごく限られた一角は緑の魔女の呪いがかかっているんだ」
「つまり、どういうことだ?」
「勇者一行のひとり、緑の魔女は大樹の精霊の加護を受け生命を自由に操ることができた。僕のご先祖様は彼女から、王宮のある一定の場所で害意をもって剣を振るえば何人といえどもたちまち死んでしまう、という呪いを受けた。逆にその場所ではどんな重傷者でも死ぬことはない」
「それは呪いなのか?はっ!今までわたしが剣を下げていたということはいつ死んでしまっていてもおかしくなかったということだな?」
「祝福に見せた、実に巧妙な呪いさ。実際悲劇が何度も起きている。君の場合は僕を絶対に殺そうとしないし、ここには曲者は来られない。君が剣を振るう可能性はなかった。
君に教えられなかったのは……。これは限られた王族のみの秘密なんだ。悪用がいくらでもできるからね。
でも、いつまでも君に秘密にはしておけない。第一心臓に悪い」
そうだ。それにわたしはあのアウゲンターラー家の娘。おいそれと気を許すわけにはいかない。それをカールハインツは。
わたしは彼に認められたことを知り頬が再び熱くなった。
「君さえよければもう一戦もやぶさかではないのだけれど?」
「望むところだ。しかし、質問が一つある」
「?」
「最初のころはあんなに情熱的にキスをしてくれたのにどうしてやらなくなった?わたしのキスは魅力がないのか?」
「いや。そんなことはないよ。
口の中に舌を入れなくなったことを言っているのなら、それは君のお兄さんのアドバイスを受けたからだよ。情熱的に見えるかもしれないけど、感覚的に大したことないし不潔だからやめた方がいいと。実際雑菌が毎秒1億個ほど交換されるといわれているし」
「兄上?どの?あっ!ヨアヒム兄さんか!」
兄上たちのうちで唯一わたしに兄上らしく接してくれる方だけど、よりにもよって王太子に何ということを語るのだ!恥ずかしい!本当にどうしようもない人だ!
わたしの顔がますます赤くなったのは言うまでもない。