冒険のはじまり、なの?
建安3年(199年)、水浸しとなった徐州下邳城の一つの楼閣で縛られた男が空を見上げていた。
「丞相閣下!なにを躊躇っておられるのですかっ!ここでこやつを許せばきっと後悔することになりますぞ!」
「……」
耳たぶの大きい男が華奢で背の低い極めて理知的な顔の男に向かって詰め寄っている。
「こやつはこれまで2度も仕える主君を裏切り殺しているのですよ。こやつを使おうとか御するとかいう考えは危険です!おやめください!」
「……ふむ。左将軍殿は少々考え違いをなさっておられるみたいですねえ」
理知的な顔の男が腰かけている椅子をずらし、耳たぶの大きい男に向かって呆れた視線を投げかける。
「ハハハ。裏切りと言ったら左将軍殿自身、これまでどれだけ裏切ってこられたことやら。現にそこで縛られている飛将と呼ばれた方に対して2度服従し2度裏切っておられるのではないのですか」
「そ、それはっ!」
「いや。貴殿を謗っているわけでも軽蔑しているわけでもありませんよ。
時は乱世。裏切ることも生き延びるためには必要なことです。乱世では生き残ることこそ勝利であり正義でもあります。
かく言うもわたしも数えきれないくらい人を裏切り人から裏切られました。それを一度でも悪いと思ったことはありませんし、これからもそうでしょう。要するに世渡りのいち手段と心得ております。
ですから、問題はそういうことではないのです」
丞相は劉玄徳から視線を逸らし、運命を握られているにもかかわらず無関心に空を見上げる男に尋ねる。
「慍侯殿には生き残る意思がおありなのですか?」
「……」
「ハハ。この曹孟徳にはやりたいことがたくさんあります。そのためには覇道を歩まねばなりません。そのためにはまだまだ多くの人の協力が必要なのです。
できれば貴殿にも協力してほしいと思っています。いかがでしょうか?」
曹操のへりくだった態度に軍師である荀攸は眉を顰め、今は同盟者の劉備主従は焦りの色を隠せない。
「……最近になってようやくおれにもいくつか分かりかけてきたことがある。
それは、世の中には建前と本音とがあり、世上のほとんどの人は建前を口にはしても本音に従った行動しかしないということだとか、ほとんどの人が建前を中身のない空っぽのものだとしか思っていないことだとかだ。
こういうことを言い出すと、ここにいる人間はみな、なにをいまさらと呆れているとは思う。しかし、しばらくおれの話を聞いてほしい。
并州の孤児だったおれを拾った丁原はしばしば言っていた。
『困っている民草を救うのは武人として当然の義務だ』と。
実際、丁原は百姓連中を守るため秋になると略奪を繰り返す匈奴討伐に官兵の先頭に立って従事していた。おれは建前を実行する丁原の姿に憧れを抱き、丁原のために一生懸命働いたものだ。
しかし、何進に呼ばれて洛陽の都へ行った丁原はその本性を現した。連れて行った并州兵の数を背景に何進とその反対勢力双方に高値をつけさせて高い官位を貪り、丁原はその俗物性を恥とも思わなかった。上が安定せず民がみんな不安に慄いているにもかかわらずにだ。つまり、建前など己の欲望のためにはどうでもよかったわけだ。
それからしばらくして後から西涼兵を率いて都入りした董卓が苦悩するおれに向かって言った。
『上がしっかりしないと国は成り立ちえない。今、宮中は大いに乱れていてその原因となっているのが丁原だ。育てられた恩のある貴君にはつらいことかもしれないが、丁原から并州兵を奪って味方してほしい。そうすれば政治は安定し、皆が安心する。すべては天下万民のためだ』
おれは董卓の言を信じ丁原を斬り并州兵をまとめ上げて董卓のもとへと走った。
それで、たしかに政治は安定したが、それはただの強権政治であって董卓の暴政を招いたに過ぎなかった……。
次におれに声をかけてきたのは王允殿だった。王允殿は根が学者であっておれと同じく建前を信じ切る人だった。王允殿はおれに言った。
『董卓の敷く暴政をやめさせ、傾いた帝室を共に立て直そう』と。
おれは王允殿を信じ、王允殿とともに董卓を誅殺した」
縛られて床に座らせられた男は遠い目をする。
「わずか60日ほどではあったが、王允殿はおれの期待したような善政を行い、長安の民たちも喜んだ。だが……、冷遇されそうになった西涼兵の不満をうまく利用した董卓の残党にしてやられてしまった。
都落ちする寸前、一緒に都落ちして捲土重来を期しましょうと勧めたおれに王允殿は言ったよ。
『幼い陛下が私を頼っているのにどうして都を離れることができましょう。捲土重来は貴君がしてください』と。
その後のことは諸君もよく知っていると思うので省くが、流浪していてもおれは自分の兵に略奪を命じたことはないし、武器を持たない百姓を虐殺したこともない。武人とはそういうものとおれは思っているからだ。おれは世上のほとんどの人とは違い、建前でしか生きられない」
曹操は興平元年(194年)、濮陽で呂布にほとんど息を止められそうになったときのことを思い出した。あの時、曹操が助かったのはひとえにその地に起こった旱魃と蝗害のおかげであった。もう一押しで曹操の止めをさすことのできた呂布が兵に略奪を許さず、残りの糧食を分けて軍を解散し旗本二千に減らして撤退していったためであった。
それに引きかえ、このわたしは青州兵180万を屯田させるため徐州で何度も大虐殺を行った……か。
曹操の顔に満足の笑みが浮かぶ。
「丞相閣下は先ほど夢があるとおっしゃられた。
どんなものなのかはおれには想像できないが、多分それはそれで素晴らしいものなのだろう」
縛られた男はさみしく笑う。
「だがしかし、それは旧時代の建前を全く無視した新しいものであるということだけは頭の悪いおれにもなんとなくわかる。
建前に生きるおれは合理性の塊については行けぬ。
所詮、丞相閣下とおれとでは水と油。交わるようにできてはいない」
曹操は呂布の言葉にうんうんと肯く。
「惜しいな。実に惜しいな。貴殿の用兵の才があれば……」
「なに。おれは少しばかり騎兵の扱いを知っているだけだ。そんなもの、後ろで縛られている張遼を少し鍛えれば同じことができるようになる」
「……そう。結局、そういうことになりますね」
この時、曹操は最初から処刑するつもりだったことを呂布は理解した。
水と油。
曹操は共に地上で生きていてよい存在でないことを理解しており、先ほどの『協力してほしい』との問いかけも呂布もまたこのことを理解しているかどうかの試みにすぎなかった。
お互い知るべきことは知った。あとはどちらかが消えゆくのみ。それが決着というものだ。
呂布は傲然と胸をそらし最後の言葉を待った。
「叛徒呂布並びに高順、陳宮を縊り殺せ!
死体は見せしめのため朽ちるまで城壁に吊るすこと。
なお、残りの軍兵はすべて赦免して編入し、力量に応じて新たに役職を授けることとする」
やや甲高い予想通りの曹操の声が響き渡る。
「叛徒呂布の処刑をもって徐州鎮定を完遂したものとし、わが軍は左将軍劉玄徳殿とともに許昌に凱旋する……」
*
楼閣から処刑場に曳かれていく呂布の後ろ姿を恨みのこもった視線で追い続けていた張飛は突然、呂布が驚愕し全身を恐怖に染めたのに気づいた。
「うむ?」
慌てて張飛が呂布の視線の先を確かめると、そこには宙に浮いたボロボロの黒衣の赤毛の少女の姿が一瞬だけ目に映った。
「なんじゃ、ありゃ?」
恐怖に凍りついた呂布以外に赤毛の少女の姿を認めたものはおらず、その答えは永遠に得られなかった……。
*
目覚めると山歌が聞こえてきた。頭がまだはっきりとしない。
辺りは一面、見たこともない花が咲いた草原である。
「♪あんたの兄さんどこ行った?
鍬を担いで麦の畑へトボトボと
あんたの姉さんどこ行った?
籠を担いで桑の葉摘みにフラフラと
それであんたはどこへ行くの?
機織り飽きてお家を抜け出しウキウキと、お花を摘みに出かけましょう
摘んだお花はあいつに与えるの 生意気なあいつに与えるの
頭に飾ればあいつでも、少しは可愛くなるかしら?少しは可愛くなるかしら?」
身を起こして歌い手の少女を眺める。
髪を結っておらず、裸で膝を抱えて座っているその横顔には見覚えがある。懐かしいのでつい声をかけた。
「おお。白雪か。久しいな」
「薄情者の飛将もさすがに娘の顔は覚えているとみえるな。これで『どなた?』などと言われてしもうたら妾とて悲しゅうなるわ」
生き別れた娘の顔をあらためて見る。
相変わらず少し吊り上がった生意気そうな目。長いつやつやした黒髪。
年のころなら17、8というところか。
これの姿が消えたのが確かこれの15のときだから少し大人びて見えるのは当たり前か。
「前にも言ったがのう。父者といえどもその名で呼ばれるのは嫌じゃ。止めてたもれ」
「……では、紫芍と呼べばいいのか?」
「それはもっと嫌じゃ。妾を捨てた母者の付けた名など誰が呼ばせるものか!」
「……」
だんだん記憶が戻ってくる。
娘の白雪は初平2年(191年)の秋に突然家から姿を消した。あれはおれが王允殿と結託して董卓を誅殺するちょうど半年前だったはずだ。妻(正室の厳氏)が神隠しに遭っただの攫われたのだとずいぶんと騒いで、おれも必死になって長安中を探したがとうとう見つからなかった。
しまいにはあの妖怪がおれへの復讐として白雪を并州へ連れ帰ったのか、それとも白雪自身が母恋しさに并州へ旅立ったのだと自身に信じ込ませて諦めた……のだったか?
「どうして家からいなくなった?紫二娘に誘拐されたのか?」
「父者はそう考えていたのかえ。アハハ。
妾が厳氏に虐められた腹いせに家出をしたとは考えられんかったのかえ?」
「そうなのか!」
「いや。冗談じゃ。実の娘同様に扱ってくれた厳氏には感謝こそすれ恨みに思うことなどひとつもない。
并州にいた頃、赤子である妾を奴隷女や役宅の下僕夫婦に預けたきり素知らぬ顔をしていたどこかの誰かとはちごうての。フン。父者の薄情さには呆れ果てるわ。6歳になるまで妾は下僕夫婦こそが実の親だと勘違いしておったくらいじゃ。この年になっても恨みはその消えんぞえ……。
まあ、(この話は)今はどうでもよいわ。質問はどうして家からいなくなったか?じゃったな。
妾は攫われたのじゃ。左慈に」
「左慈?」
「あの頃、やつはまだ有名でなかったので父者が知らんのも無理はない。やつは自身を方士と言っておったが、妾に言わせれば幻術を使う妖人の類じゃな。
妾がやつと同じ才能を持っていることに目を付けて弟子にするためやつは妾を誘拐して長安郊外のあばら家へ押し込めおったのじゃ」
呂布も白雪が幼い頃から事前に天候を中ててみせたり失せ物を占ったりしていたことは知っていたが、ここで紫二娘の血が祟るとは思ってもみなかった。
「ところで、おれは死んだのか?」
「父者はどうしてそう思うのじゃ?」
「白雪は……いや、おまえはさっき『やつはまだ有名でなかった』と言った。今のおまえの姿は少し大人びて見えるが、それでも2、3歳年を食ったくらいにしか見えない。おまえが姿を消した8年後、おれは徐州で曹操と激突していた。その間、その左慈というやつの名前を聞いたことがない。左慈というのがおれの死んだあと有名になったと考えるのが自然なほど(生きていることの)勘定が合わない。
それにおれもおまえも裸で、しかも見たこともない花がたくさん咲いた草原にいる、この面妖さ。
死んだ後、紫二娘の恨みのせいで地獄へも行けずにこうしてあの世ともこの世とも思えぬ場所で彷徨っていると考えた方がよさそうにも思える……」
「フフフ。アハハ」
何を思ったのか、少女が笑い声を上げた。
「おい!」
「フフフ。そこまで母者が怖いか。相変わらずじゃな。父者は。
じゃが、安心してよいぞ。母者は全く関係がないはずじゃ」
「答えになっておらん。おれは死んだのかどうかと聞いているのだが」
「はあ!?。水浸しになった下邳の城で侯成らに裏切られたのさえ覚えてはおらんのかえ。
あの状況でどうやって生き延びられるのじゃ?
父者は憐れにも曹操や劉備たちの面前で縊り殺され、死体を城壁につるされてしもうたわ。高順殿や陳宮の死体とともにな。
あのような汚辱を被ったのも、もとはといえば父者が高順殿の言葉を一向に聞こうとしなかったせいじゃ。理解しておるのかえ?」
「……」
そうか。やはりおれはあいつ(曹操)に負けたのか。2度もおれはあいつを壊滅寸前にまで追い詰めたことがあったというのに。
これはもう天運としか言いようがない。
まあ、いいか。今さらだ。
高順や陳宮は死んだようだが、ほかの連中が死ななかったところをみると曹操もおれの最後の望みを聞いておれについてきた兵卒どもは助けてくれたようだしな。
しかし、それにしても白雪はどこまで知っているのだ?死んだのはずっと後だったのか?
少し気になる。
「だいたい父者は信じやすくて移り気じゃ。そしてその場その場の感情に任せて後先考えずに行動しすぎる。
先頭に立って匈奴討伐に走る丁原の姿に憧れて丁原の下にいたかと思えば、董卓に丁原の俗物性を指摘され天下のためだと言われれば信じ込み、王允に帝室の大義を説かれればそうだそうだと肯いてしまう。
やったことといえばすべて主殺しぞ。
挙句の果てに都落ち。どこへ行っても嫌われて、最後の最後に曹操と激突して縊り死に。
満足だったかえ?そんな人生」
「フンっ」
白雪の評価はずいぶんとマシなものだ。おれは知っている。世間の有象無象がおれのことを悪しざまに罵っていたことを。
だが、おれは自分のことをそれほどの悪人だったとは思っていない。
「ああ。情けない。
これが後漢最大の猛将と言われた男かえ?『人中に呂布あり。馬中に赤兎目あり』と謳われた男かえ?
まあ、よいわ。今度は妾が父者の手綱をとってやる。この妾が今生こそはやり残したことのない人生を送らしてあげようではないか。
何と言っても妾の父者なのじゃ。そんな父者に中途半端な人生を送らしたとあっては妾の名が泣くというものじゃからな。フフフ。
父者も妾の言うことをしっかりと聞くのじゃぞ。もし言うことを聞かぬというのであればきついのを一発お見舞いさせてもらおうかのう?」
「今度?
裸の娘よ。張り切っているところ済まぬが、おれたちは死んでしまったのではないのか?」
「ククク。父者よ。まだよく分かっていないみたいじゃのう。
あらためて自分自身の体をとくと見てみい。若返って力が漲っているのが分からぬかえ?それと腹がすいているのが分からぬのかえ?
死人が活力を漲らせるわけがなかろう?死人が腹を空かすわけもなかろう?
妾たちは別の場所に新たに生まれ変わったのじゃ」
白雪の言う通り、大したことではないがそれでも朝食を抜いたくらいの空腹を感じる。
「娘とおれが別の場所で生き返った?いや。正確には……何者かに生き返らせられたのか?」
「そういうことじゃ。誰に生き返らせられたかまでは分らぬがの。
……ただ目覚める前に全く理解できぬ女人の声を聞いたような気もするが。
いや。あやふやじゃ。忘れてくれ」
女人の声?
やはり紫二娘ではないのか?
「父者よ。そんな詮索よりも今は飢えを避ける手立てを考えるべきじゃろ。妾は生きていた頃、さんざん飢えに悩まされたので2度と飢えるのはごめんじゃ。
ああ。魚と米の飯が食いたいものじゃ」
「おれは小麦を練った餅にニラを巻いて食べたいかな」
「そういえば父者は北ばかりじゃったの。妾は荊州から南に逃れて長沙や建業で暮らしておったから南方の料理になじんでしもうた。北の簡素な料理はあまり好きではないの」
「娘を飢えさせるというのでは父親としてあまりに不甲斐ないな。南の料理という要望には応えられんが、どれ、ウサギくらいは狩ってみるか」
*
林近くの草地にウサギらしき影がたくさん見えた。
おれと白雪はすぐさま二手に分かれ、おれが追い立て白雪がそれを仕留めるつもりで行動を起こした。
だが、奇妙なことが起こる。無力で人を見たら逃げるはずのウサギが逆におれたちに襲いかかってきたのだ。しかも、歯をむき出し襲いかかってくるウサギの頭には鋭い角がついている……。
はじめは面を食らったが、鋭いと言っても鉄騎兵の馬上から振るわれる鉾ほどのものではない。
余裕をもって半身で躱し、手刀で首の骨を折って仕留めていく。
「おーい。父者よ。ウサギを仕留めたはよいが、刃物もないので解体もできんのじゃが。生のまま頭から丸かじりにでもするのかや?
おや。父者は3羽か。少ないのう」
白雪の方を見ると5羽も仕留めていた。しかも器用なことに頸動脈だけ断ち切って血抜きまで済ませている。
……グヌヌヌ。たかがウサギくらいで侮られてはたまらん。おれは父親の権威とやらを見せつけてやることにする。
「刃物など使わなくとも臓腑は抜ける。貸してみろ。こうするのだ」
ウサギの胸のあたりを掴み、膝を使って押し下げるように絞ると、肛門近くの薄い皮膚を破って臓腑がポンと飛び出る。
コツさえわかれば簡単な作業だ。1羽あたり呼吸を3つするほどの時間もかからない。わずかな時間で8羽とも処理を済ませた。
「器用なものじゃな」
「娘よ。大いに感心するがよい。そして、おれを父親と認めて少しは敬え」
「感心はするがの。アハハ!
天下の飛将が父親の権威を示すのにウサギの臓物抜きとな。笑いを噛み殺しきれんわ。ハハハ」
「フ」
おれもおかしくなってきて思わず笑ってしまった。
「「フフフ。アハハハ」」
あーあ。おれは何をやっているのだろうか……。
ギスギスした空気が少しは薄まったと思うのはおれだけだろうか。
よくわからないことばかり立て続けに起こって不安にもなりかけたが、笑っているうちに案外うまく転がりそうな気がしてきた。