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1足す1の中身  作者: サンドリヨン
ある女
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通い妻

「……貴方、じゃないだろう」

 口から零れ出るため息をとどめる術はなく、大きく息が口から飛び出した。


 私を向かい入れた女の髪は長く艶やかな栗色。肩まで伸びるそれは後ろで赤色の紐で一本に結ばれ、光に反射して輝きを増している。


 ひざ元まで下がる白いエプロンにはシミもなく、生真面目に料理をしていたことが見て取れる。エプロンから見え隠れするのは紺色のワンピースで、一度動くたびにふわりと裾が膨らむ。

 実用的で生活感すら垣間見える服装であり、その中には清楚ささえ感じさせる。


 私を見つめるのは二重が綺麗に入った瞳。長いまつげは生まれつきのものだそうで、こちらを興味深そうにのぞき込んでくるあどけない少女のような印象を感じさせる。


 体は全体的に痩せ気味ではあるが骨ばっているということもない。可愛いと形容する要素もあり、それでいて美人といえる風体もなしている。その二つの要素が黄金比もたまげるレベルで混在していた。

 何も知らない男が女を見れば、一目惚れのように頬をみっともなく紅く染め、間抜け面をさらして見つめることだろう。


「まあいいじゃない。早く上がりなさいな」

 溜息をこぼした私の様子なぞ関せずといわんばかりに、私のカバンを奪い取るほどの勢いでむしり取り、なんとも呆れるほどに足取り軽くリビングへと向かう。


 苦笑すら出ないまま頭をぐしぐしとかきむしりながら革靴を脱ぎ、玄関へと上がる。

 ギシギシときしむフローリングが私の心を示しているようで、どうにも耳をふさぎたくなる。


 リビングへと入ると、もうそこには食事が用意されていた。

 女はかばんを手直な場所にでも置いたのか、リビングの真横に備えられている台所で鼻歌交じりでご飯を茶碗によそっている。

 続いて湯気がもうもうと立つ鍋からお玉で液体を掬い、赤い漆塗りの器に注いでいく。見え隠れする液体は綺麗な茶色で、鼻孔を刺激するのは鮮やかな出汁の香り。磯の香りが顔を覗かせるこれに入っているのは、鰹節か何かだろうか。


 そのまま器と一緒に茶碗も一緒にこちらへと持ってくる。

 箸は既に青色の箸置きと一緒に座っており、女が持ってきたものはそれの手前にセットで置かれた。


 器の中には糊とわかめと油揚げが浮かび、茶色の液体が美味しそうに綺麗に淀んでいる。少しすすれば味が口の中をめぐることが見てわかるような、日本人の本能に訴えかける味噌汁だった。


 その横には一粒一粒がしっかりと立っている白米。炊飯器が全盛となってからおこげというものはとんと縁がないが、その代わり安定的にうまい白米が得れるというのは有難いものだ。……侘び寂といった味と利便性とはどう折衷案を出せばいいのだろう。


 おかずとなっているのは鳥の照り焼きとシーザーサラダ。

 照り焼きは綺麗な照りをだして私の食欲を誘う。下に敷かれた玉ねぎは零れ落ちる肉汁とソースを十分に吸ってこちらを見つめている。

 その次はシーザーサラダの鮮やかな緑と、白色の見事なコントラストが目の中に飛び込んでくる。葉っぱが生い茂る緑色の砂漠には白色のうまみが込められた雨が降り注ぎ、クルトンが山々のようにその四角い形を象徴している。


 ……なんともなんとも、見事な夕食というほかはない。ケチをつけてお帰りいただく手段はないかと愚考を試みたが、ああただの骨折り損だった。

 食卓が完全に成ったことを見てあきらめがつくと、私は椅子を引きながら席に着いた。


「……今日は学校は?」

「四限目で終わって、そのままこっちに直行よ」

 準備が終わったことを象徴するように女は私の目の前の椅子に座ると、テーブル上の急須からお茶を自分の湯飲みに注ぎながら私の質問に答えた。


 その言葉を聞いてしまってから私は再び頭を抱えたくなり、何度も繰り返して申し訳ないが、ため息を深く深くついた。

 目をちらとリビングの端に向けてみれば、確かに女の物と思わしきリュックサックがあった。


 そうなのだ、目の前の女は花の大学生なのである。

 若々しさは女にとっては明確な武器であり、それはどんな男であれ貫きうる最高の矛となりうる。それを防ぐことのできる盾を鬻ぐ商人などいるわけもなく、矛盾はあっけなく矛の勝利で終わるのだろう。


 男はどこまで行っても狼であり、草食系男子でも花は摘めるのだ。

 端的に言えば、そんな瑞々しい女が独身の男の家に転がり込むなどというのが、問題なのである。

 それも、問題の「一つ」でしかないというのが、ますます私の頭痛を加速させる。


「……家、帰った方がいいぞ」

「いやよ。お父様にごたごた言われるの面倒だもの」

 当たり前のように言い放つと、注いでいたほうじ茶を湯呑からずずずと啜っている。湯呑からの湯気が煙草の煙のように揺らいで消える。


 お父様。


 その言葉は私の脳内では「上司」という言葉で直接変換される。

 それがもう「一つ」の問題である。

 むしろこちらの方が問題でもあると言えよう。社会的道義的問題というよりは、私の食い扶持に直結する問題なのだから。


 私の目の前に我が物顔で座っている女は、私の上司の娘なのだ。

 胃が痛い。ああ胃が痛い。 

 何が悲しくて直属の上司の娘などを子飼いにしなくてはならないのだろうか。


 私は帰れと言い放っているのだ。しかしどうにも居心地がいいのか私の言うことを聞こうとはしない。

 ここに住んでいる、というわけではもちろんない。


 しかしやってくる頻度があまりにも高すぎるのだ。この部屋に重力の渦でもあって、吸い込まれでもしているのかと思うほどに。


 プライバシーなどもこのマンションは守られているため、ご近所さんの井戸端会議の対象になるなどの心配はないにしろ、正常の精神状態を持つ一独身男性としてはどうにも体裁の悪さを感じてしまう。

 それに突き動かされて無理やり力づくで帰そうものなら、それはそれで女の大声一回で私の人生は水泡に帰すだろう。


 悲しいかな、私は二重の意味でホストとして、この若く美しい女王様のご機嫌を取らなければいけないのだ。


「ま、細かい話はあとにして、食べましょうよ」

 こちらとしては全く細かくない、という言葉は結局無力に終わることが予想できたため、私は飲みこんだ。自分でも賢明な判断と思う。

 幸福を逃したくない一心で溜息を出ないように飲み込みながら、私は静かに食べ物への感謝の意を示すべく、手を合わせた。

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