転換点
「いい子ね、妹さんは」
食事の席で女はそう切り出した。
話しかけれた当事者である私は、口の中でマッシュルーム付きの煮込みハンバーグを咀嚼し、噛みしめるたびに溢れる肉汁に舌包みを打つ最中であった。
舌がまだそれに後ろ髪をひかれながらも喉を通し胃の中へと収めると、私は言葉を返そうと箸をおいた。
私の返事を待つ女との間に静寂が借りぐらし、箸をおく音が来客として現れた。
「……どうだった、妹の様子は」
「表面上は明るかったけど、苦しそうだったわ。貴方ならわかってると思うけれど」
「そうか」
分かっていた。分かり切っていたことだった。
しかしこうも第三者の視点から突き付けられると、その事実は飲みこみがたい鉛となって胃の中に居座る。
妹が苦しんでいるという、その事実。
……我ながら白々しいと自嘲する。何が第三者だ。医者という何物にも勝るその道の第三者から幾度となく宣告を受けているのに。
医者を信頼していないというわけではない。だが、私は女の言葉は――内容はともかく――まぎれもない事実を話していると素直に理解することできたのである。それは恐らく、女が嘘をつかないということを身に染みて理解しているからであろう。
医者がよく使う、患者の身内を慮るための優しい嘘すらも。
女はまだ大人ではない。だからこそあまりにまっすぐすぎる。香車は成ったらその直進性を失い、周りを睨む王の側近となる。成香が行けるのはまっすぐな精神性が折れ果て、その残骸が散らばった周囲のみなのか、それとも成長したから丸くなったのか。
そもそも成らない方が有利な場合も時としてあるという。とにかくまっすぐな精神性を持った人間というのは御し難く、だからこそ可能性があるものなのだ。
「なんで、彼女なんでしょうね」
ぼそりと、女はつぶやく。
「……理由なんて、きっとないさ」
そう思わなければやっていられない。
妹が傷つくに足る理由。そんなものがこの世の中にあってたまるか。彼女には権力もましてや罪もなく、ただそこにいただけなのだ。もしそれが罪であるというのならば、それは理由ではなく最早宗教だ。
「特別なことは何もない。ただ、ありふれた事故で、ありふれた悲劇なんだ。きっとね」
世の中には、きっと「妹」は山ほどいるのだろう。それこそ五万と。私たちはその中に一部に放り込まれ、スポットライトを当てているに過ぎない。
私がそう言葉を放つと、女は少しだけいら立つような表情を浮かべた。私の前ではあまり見せることがなかった表情ではあったが、私の胸の中に驚きの芽は吹かなかった。
正しい。私はその表情に嫌悪感よりもむしろ好意を覚えた。
「ええ、きっとそれは事実よ。まぎれもなく。でもそれは」
「なんの慰めにもならない。だろ?」
女の言葉を、意図的に塞ぐ。
彼女が今の私の言葉に反感を抱くのは、私の価値観から言えば全くもって自然であった。
そう、事実や正論なんてものは、人の心をいやす道具にはなりやしない。当然だ。患者に病状だけを伝えて放り出す医者なんてありはしない。
だというのに、世の中には正論を好むものがやけに多い。どれだけ自分が藪医者か理解していない無免許医があまりに多いのである。
正論や事実はあくまで状態や症状を示しているのに過ぎないのに、ただそれを指摘しただけで問題が解決したと錯覚してしまう。なんともなんとも、救いがたい医者の不養生である。
問題解決を一番遠ざけるのが、この手の連中なのである。深い海の底をしっかりを見つめたいのに、水面でバシャバシャと遊んでいるのである。その結果物事の根本は海の底に沈み続け、いつまでもいつまでも水面に波紋は残り続けるのだ。
一旦静観し、物事が何故発生し、何故発展し、何故収束したか。それを理解しなければいけないのだ。
なにより、私は今の言葉を妹に語るつもりはさらさらないし、ましてや誰かが言おうものならそいつを殴ってでも止めただろう。
ではどうして、私はこの場において、そんな百害あって一利なしとすらいえる正論を振りかざしたのか。
唇が少し乾燥して舌を回しにくかったため、茶を口の中に少し流した。
「当人、あるいは見知った人間以外は、こう思ってるのさ。この件に限らずな」
それを聞いた女の顔はまた歪んだ。不快感と悲壮感がミックスされた表情で。
画面の向こうで誰かが死ぬのと、自分の目の前で誰かが死ぬこと。それには筆舌に尽くしがたい溝がある。
それを伝え聞いた人間にその心情を理解しろとは言えない。それほどまでに人間の共感できる能力は高くはない。しかしだからこそ、人は事実という不変のものにすがりたがるのだ。心情が分からない中で、その事実だけは全ての人々が共有できる事柄であるからだ。
「……ええ、それは、分かってるわ。ええ」
女もそれは理解している、というよりは実体験という分かりやすい形で骨身に染みている。
哀れな少女、という不躾な視線をこの人物は受け続けているのだから。
「別にこれを覆そうとは思っちゃいない。物事にはそう言う側面もある。だが」
言葉を切って、深くため息をつく。女は、何も言わず静かに聞いていた。
「俺たちが気にするべきなのはそういう風評じゃなく、問題をどうやって解決するかだ。ただ、……それだけなんだ」
女に語り掛けるというよりは、独り言として自分に言い聞かせるように言った。
女は何を考えているのかは分からないが、少しうつむき気味で私の言葉を静かに聞いていた。
何とも言い難い空気がリビングの中に流れたため、窮した私は食事に救いを求めようと箸を持った。
「ねえ」
その瞬間、女が沈黙を崩した。
そのまま顔を上げ、少し力みが見える表情をこちらを見る。
「私、妹さんに宣言してきたわ」
「何を?」
意外な展開で私の表情は僅かに驚きに動いた。
そのため私がすぐに問いかけると、女は緊張しているのか、口を開いたにもかかわらず唇にやや力が入っていた。
それでも女は自分の意志でそれをこじ開け、重々しい表情で言った。
「頑張るって」
一回言っただけでは女の口は止まらなかった。
「そう、頑張るって、言ってきたの」
それに主語はいらなかった。女の心境がどう変化したのかは知る由もない。
だが、きっとあの病室で何かがあったのだ。
妹が沈鬱に沈み続けているあの病室で、何かしらの変化があったのだ。
「……そうか」
だからこそ、私は何も言わなかったのだ。
私は何が起きたのかは知らない。しかし知らないのであれば、知らないままでいい。
「手伝えることは、手伝うよ」
女の目を見て、私は言う。
その瞳は少し艶っぽく、わずかに見開かれたそれは力強さと決意が宿っていた。
変わっていくのだろう。女の宣言は、蝶々の羽ばたきに思えた。それが引き起こすのは竜巻か、あるいは平穏か。成ってみなければわからない。
ただ、冬場に温い布団から這い出ることがどれだけ大変か理解している私にとっては、それは尋常ではない勇気を奮った宣言に聞こえた。




