2-1
ピチャリ ピチャリ ピチャリ
規則正しくリズムを刻む音が聞こえている。
ピチャリ ピチャリ ピチャリ
水滴が落下して水面をたたく音。
雫は落ちて赤い液体の一部になる。。
どのくらいたったのだろう。もう何10時間もこの音を聞かされ続けているような気がする。オレにしてやれることはなにもない。
ただ見届けるだけ・・・・・・ 相棒の決意と覚悟を。
ベッドに横たわる銀色の髪の少年はうつろな瞳で宙を見つめている。
だが、青緑の瞳はそこにはない別のなにかを見ているようだ。顔色は青白く、ぐったりとして呼吸も弱々しい。
腕には細いチューブにつながれた注射針が刺さっていて、チューブを流れる赤い液体はかたわらの容器へと送り出される。
容器の中にはしたたり落ちる赤い液体がたくわえられていた。
ルシオンの血管から流れ出た血液の量はすでに1200リッシを超えている。普通ならとっくに失血死してるところだ。
「限界ね。これ以上は危険だわ」
ルシオンの血圧や脈拍、瞳孔をこまめに調べていたマーガレットがつぶやいた。少年の細い腕から注射針を抜いて止血する。
オレはほっとするがこれで終わったワケじゃない。むしろここからが本番なんだと考えてさらに心が重くなる。
「ルシオン、聞こえる? そろそろ始めるわよ」
マーガレットは声を張り上げた。そうしなければルシオンには聞こえそうにないからだ。
「最後にもう一度きくけど、本当にいいの? 引き返すのなら今よ」
まるで“やっぱりやめる”と言ってくれるのを期待しているみたいなセリフだ。
だが、ルシオンの意志は変わらない。閉じかかったまぶたの奥の瞳でマーガレットを見つめ色のないくちびるを動かす。
「・・・・・・はじめて。みんなを助けて・・・・・・」
それだけ告げるととうとう気を失った。同時にマーガレットがこれからやろうとしていることを止めてくれる者もなくなった。
けわしい表情をしてマーガレットは次の作業に取りかかる。
「本当に大丈夫なのか? 今だって死にそうなのに」
不安でたまらないオレはついにそれを口にした。
「わからないわ! 私だってこんな臨床例は聞いたこともないのよ。本人の言葉を信じるしかないでしょう!!」
マーガレットは泣き出しそうな顔をしていた。この女だって怖いんだ。
用意しておいた注射器を手に取って、ルシオンの腕に刺そうとするが手が震えてうまくいかないようだ。
深呼吸を繰り返しもう一度試してみる。今度は上手くいった。が、そこで手が止まる。
ムリもない。
注射器の中の液体を注入したらルシオンは死んでしまうかもしれないんだ。
オレは情けない男だ。なにもできないどころかマーガレットの覚悟を揺さぶるようなことを言っちまうとは。
ルシオンもマーガレットも恐怖と戦っているんだ。オレだけがいつまでも逃げまわってられるか。腹をくくれ!
他に方法はないんだ。みんなの命を救いたいのならやるしかない。
注射器を持ったまま凍りついたマーガレットの手にオレの手を重ねる。
「あんたひとりに背負わせるワケにはいかないよな」
オレは重ねた手に力を入れた。注射筒にピストンが押し込まれ、中の液体が意識を失ったルシオンの血管内に流れ込んでいく。同時にオレの胸にも激しい痛みが広がっていく。
これから起こるであろうことを想像しただけで心臓が激しく脈を打ち、胸を突き破りそうだ。
注射器の中の液体はウイルス兵器ベサラ2307RYを培養し濃度を高めたものだ。
わざわざ自らすすんで殺人ウイルスに感染しようとするルシオンの胸中を思い、オレはその手を取った。血液の多くを抜き取られた相棒の手は冷たい。
「ずっとそばにいるからな。絶対に負けるなよ」
聞こえていないと知りながら語りかけ、ひとまわり小さな手を両手でそっと包み込んだ。
一昨日、ホームの子供たちがかかっている“カゼ”の正体を知ったオレたちはすぐさまアリアーガに取って返した。
その時ファビウスⅡ世号には3人乗っていた。オレとジョシュア、そしてマーガレット。
マーガレット・ブライア――――製薬会社ピュッセールの社員で、トスカネリにある研究所で商品開発チームのチーフを務めている。
彼女が担当している商品というのが他でもないウイルス兵器ベサラ2307RYだった。
そして、研究所に忍び込んだオレたちが話をきこうと声をかけた=ハンドガンをつき付けた女こそがマーガレットだったのだ。
絶望的な状況の中で“なんとかなる”というジョシュアの言葉に導かれ、ファビウスⅡ世号に乗ったのは彼女としては一か八かの賭けだったはずだ。
ウイルスの拡散を防ぐという、その時点で最優先の仕事を放り出してのことだった。
アリアーガに向けて出港したファビウスⅡ世号の中で、マーガレットは子供たちの病状をきいてきた。ウイルスの感染がどこまで進んでいるかを知るためだ。
症状がいちばん重い子がシェリーという名だと聞くと顔色を変えた。
「そう、あなたの所にいたの。やっぱりあの子がベサラを運んでしまったのね」
マーガレットはウイルス流出のいきさつを語り始めた。
◇◇◇◇
研究所では白衣のクリーニングを外部に委託しており、その仕事を請け負っていたのが小さなクリーニング店を経営しているシェリーの父親だった。
その日、クリーニングする白衣を受け取りに来た父親と共に研究所を訪れたシェリーは、予期せぬトラブルに巻き込まれた。
ウイルス兵器の研究をしている隔離区画から被検体の猿が逃げ出し、何も知らないシェリーはその猿と接触してしまったのだ。
本来ならすぐさまシェリーを隔離すべきところなのだが、そうできなかったのは誰もその現場を目撃していなかったためだ。シェリーは何事もなかったかのように研究所を後にした。
その後、捕獲された猿の足にはハンカチが結んであった。怪我をしている部分に包帯代わりに巻かれていたのだ。
監視カメラの映像を調べ、シェリーが猿と接触していたことを知った研究チームはあわてた。開発中の殺人ウイルスは飛沫感染するのだ。
子供のシェリーが感染している可能性は高い。ただちに隔離する必要があった。
極秘裏に開発されていたウイルス兵器の存在を外部にもらすことはできない。
充分な説明もないまま娘を連れ去られそうになりシェリーの父親は抵抗した。あせった職員が発砲してしまい父親は死んだ。幼い娘の目の前で。シェリーは決死の逃亡者になった。
わずか8歳の少女は執拗に追いかけてくるピュッセールの職員から必死で逃げまわり、たどり着いた港で停泊中の貨物船に潜り込んだ。それがファビウスⅡ世号だったのだ。
シェリーを乗せたまま貨物船は出港してしまった。ウイルスが他の島にまで拡散する危険が高まったことで、マーガレットの上司は強行な手段を行使することにした。
ファビウスⅡ世号ごとシェリーを抹殺しようと考えたのだ。だが、雇われた海賊は仕事を全うすることができず壊滅した。
こうしてウイルス兵器ベサラ2307RYはアリアーガに持ちこまれてしまったのだ。
ベサラは症状が現れていなくてもウイルスを排出しており、本人も気付かないうちに拡散させている。
フィヨドルとジョシュアはベサラに感染したシェリーをフロークの町に連れて行き、ホームに連れ帰ったことでウイルスをまき散らしてしまったのだ。
マーガレットの話が終わると、オレは相棒を問い詰めにかかった。
「トスカネリからずっと、胸騒ぎがしておさまらないんだ。ジョシュア、おまえなにをたくらんでる。正直に白状しろ」
オレは有無を言わさず吐かせようとした。だが、あいつは問いには答えず、マーガレットに向き直った。
そのときジョシュアの身体に異変が起きた。ふいに生まれた白い光に包まれ明るさを増して正視できないほどになった。
すぐに光は薄れて消えてしまったがそこにあいつの姿はなかった。
マーガレットは突然姿を現わした見知らぬ少年に驚き、消えてしまったジョシュアを探して辺りを見まわしていた。
眼前の長い銀髪に青緑の瞳をした子供がジョシュアだとはわからなかったのだ。
「ジョシュアならここにいます。ぼくは特殊能力者なんです」
ぼう然としているマーガレットをさらに混乱させる言葉を浴びせかける。
「ぼくの身体を使ってウイルスの抗血清を作ってください」
「?????」
オレにはルシオンが言っていることの意味がわからなかった。マーガレットの顔にも“?”が浮かんでいた。
「どういうことだ?!!」
無意識のうちに語気が強くなった。よくわからないがロクでもねえ話であることは間違いない。
「・・・・・・おまえ、正気か・・・・・・」
絞り出した声はかすれていた。ルシオンの話を聞いたオレの身体は冷たい汗でじっとりとぬれている。
オレたちの前に立つ銀色の髪の少年は、表情のない顔を作って心の内をのぞかせない。
「理論上は・・・・・・可能かもしれない。でも、リスクが大き過ぎるわ。そうね・・・・・・ アイディアとしては悪くないけれど、非現実的だわ」
マーガレットは自分を落ち着かせるように、ひとつひとつ言葉を並べていった。
「そんなことありません。この方法をためしたことがあるんだから。そのときはザファラウイルスの抗血清を作りました」
ようやく冷静さを取り戻したばかりのマーガレットの顔が引きつった。
「待って! ザファラウイルス抗血清の精製に成功したのは、リスロンという小さな会社よ。
どうやって精製したのかは・・・・・・公表されていない。確か・・・・・・4年ほど前の話だわ」
「ぼくは5歳でした」
マーガレットの目がすうっと細くなった。
「あなた一体何者なの?」
ルシオンの“なんとかなる”方法はとても同意できるようなもんじゃなかった。なにしろ、自分の身体にウイルスを植えつけて抗血清を作ろうと言うんだ。
年齢的には問題ない。あいつはまだ9歳だから感染するのは10歳くらいまでという条件には当てはまる。
しかし、強い生命力を持つヴァイオーサーが健康な状態でウイルスに感染することはない。
そこで、一旦、体内を流れる血液を抜いて免疫力を下げておいてからウイルスを植えつける。
そして、ウイルスの感染を確認できたところで抜き取った血液を体内に戻し、抵抗力を高めて抗体を作らせる。
それがルシオンの計画だった。
問題は時間だ。
ベサラウイルスには3日間から5日間の潜伏期間がある。普通に発症するのを待っていたら、とっくに発症しているアリアーガの子供たちの治療には間に合わない。
つまり、短時間で大量の抗血清を精製しなければ、子供たちを救うことはできないんだ。
対策としてルシオンはふたつのことを提案してきた。
血液を抜き取る際、できるだけ多くの血液を抜いて抵抗力をぎりぎりまで下げること。そして、植え付けるウイルスは培養してなるべく濃度の高いものにすること。
そうすることで発症するまでの時間を大幅に短縮しようというのだ。
話を聞かされただけでマーガレットの顔からは血の気が引いていた。
「血液を抜くと簡単に言っているけれど、限界を正しく見極められなければ失血死するのよ。
それに、本来なら感染してから増殖するはずのウイルスをはじめから培養しておいて注入するなんて。体内でどんなことが起きるか・・・・・・想像したくもない」
オレにはマーガレットのような知識はない。だが、とてつもなく危険であることはわかる。
「ルシオン、と言ったわね。あなたひとつ大事なことを忘れているわ。
あなたが自分の身体に植え付けようと言っているのは殺人ウイルスなのよ。人を殺すために、わざと、致死率を100%にまで高めたウイルス兵器なの。
自然界に存在するザファラウイルスとは違うわ」
ルシオンは青緑の瞳になんの感情も浮かべないまま、マーガレットの言葉に静かに耳を傾けていた。
「上手くいかなかったら、あなた、死ぬのよ。ヴァイオーサーのあなたは簡単には死ねない。長い時間苦しんで苦しんで苦しみ抜いて、そして、死ぬの。
研究所で見せたあの猿の標本を忘れてはいないでしょう? ああなるのよ」
猿の死に様を思い出して気分が悪くなってきた。すべての恨みを飲み込んで、地獄の底をのぞき込んでいるようなあの死に顔がオレの脳裏には鮮明に浮かんでいた。
その映像にルシオンの姿が重なって吐きそうだ。
ルシオンの提案にはマーガレットの協力が不可欠だ。
自ら志願したこととはいえ死ぬかもしれないとわかっていて手を貸したのなら、それは殺人だ。予測できなかったトラブルでウイルスが流出してしまったのとはワケが違う。
確かに子供たちの命を救う方法はこれしかないのかもしれない。
だが、ルシオンがどれだけすごい力を持ったヴァイオーサーだとしても、まだほんの子供であることに変わりはない。
そんな危険な賭けに喜んで協力する大人がどこにいる?