5-5
教会の塔を久しぶりに見たような気がした。
なつかしいと思うほど長く離れていたワケじゃないが、マッカラーズにいる間ずっと帰りたくて仕方なかった。ホームもじきに見えてくるはずだ。
そんなことを考えながら歩いていたオレの視界に飛び込んで来たレイチェルは、別人みたいだった。いつもならきっちり髪を結い上げてばっちり化粧してるのに。
オレは背中の相棒をゆすってみる。
「ルシオン、起きてるか」
「んー、おきてるよー」
眠たそうな声が返って来た。
「ほら、あれ」
あごの先で前方を指し示す。そこにルシオンが今いちばん会いたくて、いちばん会いたくないヒトの姿がある。オレの背中で息を止めて固まったのがわかった。
立ちつくしているレイチェルのそばまで行って背中のルシオンを降ろす。が、オレにしがみついた手を離そうとしない。
「ルシオン・フレイ・アスターシャ! しっかりしろ!!」
大きな声に驚いて手を離しちまったルシオンは今にも泣き出しそうだ。迷い子のような目をしてオレの顔を見てやがる。
情けないヤツだな。自分のことだろ。オレに頼るなよ。戦場では無謀ってくらい勇敢なくせに、こういう時は惨めなただの子供だ。
しょうがねえな。少しだけ手を貸してやるか。
「ほら、行け!」
動けずにいるルシオンの背中を押してやる。レイチェルと正面から向き合う形になったもののうつむいたままだ。
「顔を上げろ。おまえの気持ちを伝えるんだ」
ためらいながら顔を上げたルシオンと息子を見下ろすレイチェルの目が合った。困惑の表情を浮かべるレイチェルは、どんな言葉をかけたらいいのか迷ってるみてえだ。
ルシオンは言葉をかける代りに恐るおそる手を伸ばす。けれども、その手は母まで届かない。レイチェルが身体を引いちまったんだ。
子供が精一杯の勇気で伝えようとした気持ちは母親には受け取ってもらえなかった。
ルシオンの心の内を思うと胸が痛む。それはほんの数センチの距離にすぎない。それでも、あいつには母親が遥か遠くに離れて行ったと感じられたことだろう。
ルシオンは自分の両手に目を落とした。爪の間には乾いた血がこびり付いたままだ。
その顔から表情が消えていく。すべての感情を押し殺しなにも感じていないと自分に思い込ませるために。
あいつはそうやって耐えられない悲しみや苦しみから自分の幼い心を守ってきた。
ルシオンはしばらくの間レイチェルの顔を見つめていた。脳裏に焼き付けようとするかのように。きっともう別れを決意したんだ。二度と会わないつもりかもしれない。
はっきりと拒絶されたからにはそばにはいられないよな。ホームには帰れなくなっちまった。なにも悪いことはしてないのに、どうしてこんなことになってるんだよ。。
レイチェルに背を向けたルシオンの顔に表情はない。だが、勝手にあふれる涙をおさえることはできなかったようだ。
オレはなんと言って慰めたらいいんだ・・・・・・
「・・・・・・待って」
その声はあまりにも弱々しくて空耳かと思った。
「待って・・・・・・」
もう一度聞こえて空耳じゃないとわかった。すがりつくような哀れな目をしたレイチェルの声だ。
そのとき、オレは悟った。このヒトは紛れもないルシオンの母親なんだと。レイチェルが取った行動と本心とは必ずしも一致してはいないと。
レイチェルだって本当はこんな別れ方はしたくはないんだ。ましてやこのままもう二度と会うこともないとしたら平気でいられるはずがない。
だけど、大人には色んな事情ってヤツがある。思う通りには物事を決められない。それがレイチェルに哀しい目をさせているんだ。
あのとき、レイチェルが密告したせいでにルシオンが重症を負ったことも、望んだ筋書きじゃなかったはずだ。
レイチェルに呼び止められて振り返ったルシオンは、ただ、レイチェルの顔を見つめている。レイチェルもルシオンの顔を見つめたまま動けずにいる。
ふたりともどうしたらいいのかわからず途方に暮れてるみてえだ。
その時、ルシオンの身体がぐらりと傾いた。アッと思ったが間に合わない。
倒れそうになったルシオンを受け止めたのはレイチェルだった。反射的に手が出たって感じだ。思わず息子の身体にさわっちまって戸惑っている。レイチェルの手は震えていた。
レイチェルの腕に抱かれたルシオンはゆっくりと顔を上げる。
見上げたその先には涙でぬれたレイチェルの顔がある。ルシオンは指先で母の涙をぬぐった。だが、後から後からあふれだす涙をぬぐい去ることはできない。
「泣かないで、母さま」
5年ぶりのはずだ。そう呼ばれるのは。レイチェルを母と呼べるのは息子のルシオンだけなのだから。
レイチェルはこらえ切れなくなったようにルシオンを抱き寄せた。
そして、ずっと胸の奥に閉じ込めておいたのであろうひと言をささやきかける。
「・・・・・・ルシオン、私の天使。愛しているわ・・・・・・」
ルシオンは母の胸に顔をうずめ、そして、声をあげて泣いた。
小さな胸の中にしまい込み押さえつけてきた様々な想いを吐き出すように。5年の間に積み重なってきた苦しみや悲しみ、寂しさは、ひとりで抱え込むには重たすぎるし冷たすぎる。
オレにできたのはルシオンがそんな感情に押しつぶされないよう支えてやることだけだ。
あふれだした感情を受け止めてやることは母親のレイチェルにしかできない。
夕陽がひとつになったふたりの影を路面に映し出し、教会の鐘が荘厳な音色でふたりの真の再会を祝福する。
「ゴウーン ゴウーン ゴウーン・・・・・・」
力の限り泣きつくしたルシオンはもう限界だった。全身から力が抜けたように母の腕に抱かれたままその場にくずれ落ちた。
路面に座り込んだレイチェルは、息子の頭をひざの上に抱いて銀色の髪をやさしくなでる。穏やかな表情で、慈愛に満ちた視線で。ああ。これが母親の顔なのか。
いいんだな、レイチェル。ルシオンがセイラガムでも、どれだけ多くの命を奪ってきていても、それでも母親でいてくれるんだな。
世界中のすべての人間がそいつを恐れ憎もうとも、あんただけは愛してくれるんだな。
母親が子供に注ぐ愛情は無償の愛だとか言われるけど、これがそういうことなんだとはっきり目に見える形で実感した。
息子を見降ろすやさしいまなざしと頭を包むひざの柔らかさ、髪をなでる手のあたたかさをオレの心は感じ取っていた。眠っているルシオンもきっと感じているはずだ。
別にうらやましくはないぜ。母親の顔も名前も知らないオレだけど聖職者アナがいる。パスターはホームにいるみんなの母親だから、ひとり占めってわけにはいかないけどな。
風が出てきた。
「フィル、手を貸してちょうだい。ルシオンを連れて帰らないと風邪をひいてしまうわ」
レイチェルは息子から目を離さずに声をかけてきた。おれはレザーベストを脱いでルシオンの身体にかけてやる。
「もう少しそのままでいてやってくれよ。幸せそうなツラして眠ってやがる」
これまでに一度も見たことがない顔をしていた。もうなにもいらない、なにも望まない。このまま消えてもかまわない。そんな顔だ。見ているこっちまで幸福な気分になってくる。
ベサラウイルス、レイチェルの裏切り、プロクルステスを守る戦い・・・・・・
このところ立て続けにルシオンを襲った試練は、10歳の子供を肉体的にも精神的にも苦しめ追い詰めていたことだろう。
大人であっても到底耐えきれないようなことを、こいつは泣きごとひとつ言わずに必死に乗り越えてきた。
オレは思う。すべてはこの瞬間のためだったんじゃないのだろうかと。
ルシオンの安らかで穏やかで、この上なく幸せそうな寝顔を見ているとそう思えてくる。
この瞬間を勝ち取るために一体どれだけの血と涙を流してきたのだろう。だが、その分だけこの瞬間の輝きは強く明るい。
静かな歌声が聞こえている。讃美歌第128番だ。歌っているのはオレ自身だった。無意識のうちにくちびるからメロディがこぼれていた。
もう歌わないと決めていたのに、知らずしらずあふれだしたメロディが心地よくあたりに響いている。
長い間まったく歌っていなかったんだ。昔と変わらない美声とはいかない。それでもオレの歌声は、静寂よりも静かな響きであたりをやさしく包んでいく。
オレは今、神の存在をなんの疑いもなく信じている自分に驚いている。その姿が見えたワケじゃない。その声が聞こえたワケでもない。それでも確かにその存在を感じていた。
神は救いを求めすがりつこうとする者のためには存在しない。神は今このときを生きていることを喜び、感謝する者のためにのみ存在する。素直にそう思えた。
今のオレがまさしくその状態だったんだ。こんな気持ちになったのは18年の人生で初めてのことだった。だからこれまで一度も神の存在を感じたことはなかったのかもしれない。
5年前のことだ。テッドというヤツが15歳になってホームを出て行った。
テッドは努力家で勉強もスポーツもできる優等生だった。まちがったことがキライで誰にでも親切だった。みんなのあこがれだった。
ヤツなら小さな運送会社でも立派にやっていくだろうと誰もが信じていた。ところが。
その日、真っ青な顔をしたパスターアナはみんなを聖堂に連れて行って、「テッドのために祈りましょう」と言った。テッドが運送会社で働きはじめて1か月がすぎた頃だった。
災難がテッドを襲った―――
乗っていた貨物船が転覆したんだ。
事故だと思われていた。だが真実は違った。経営に行き詰っていた会社が廃船寸前のボロ船をわざと沈めたんだ。船にかけられていた保険金をだまし取るために。
乗組員はみんなそのことを知っていた。知らなかったのは新人のテッドだけだった。
テッドだけが、、逃げ遅れた。
このとき神様なんかいないのだと知った。
だってそうだろう? 本当にいるのならテッドがこんな目にあうはずはないんだ。テッドは毎日さぼらずまじめに祈りを捧げていたんだから。
そんなテッドをこんな目に合わせた神は神じゃない。悪魔だ。
当然オレたちの願いも聞き届けてはくれなかった。
「テッドをお救いください!」
「テッドをお守りください!!
この時ばかりはワケのわかんねえチビたちさえも一生懸命祈っていたのに。
その日を境にオレの歌声が聖堂に響くことはなくなった。いくら祈り続けても願いは叶わないと気付いちまったから。
神なんか存在しない。いないものを讃える歌をうたうなんて無意味なことだ。そう思っていたのに。
今、オレの心は喜びに打ち震えていた。感謝の気持ちが歌声となってあふれてくる。
オレの声よ、オレの心よ。この世のすべてのものに届け!
夕日を浴びて美しい光と影のコントラストを浮かび上がらせているセヴィニエの町に、歓喜の歌声はいつまでも響いていた。




