2-4
目を覚ましたとき、全身が汗ばんでいた。不吉な夢を見ていたような気がするがどんな夢だったのか思い出せない。
窓のない隠し部屋はあかりをつけないと真っ暗で昼か夜かもわからない。
毛布にくるまって寝ていたオレは卓上ライトをつけて時計に目をやる。時計の針は午後2時すぎを指している。
頭がはっきりしてくると荒い息づかいが聞こえてきた。この生臭い臭いはなんだ?
悪魔が首筋に吐息を吹きかけたような気がした。おそる恐る部屋のあかりをつけて絶句する。
これはなんだ?!!
悪夢の続きなのか?
ルシオンの枕元が真っ赤に染まっていた。口元を押さえた指の間から赤い液体がこぼれ落ちている。上気した顔をしているのは熱があるせいだ。
「どうしてオレを起こさなかったんだっ!」
怒鳴るオレをルシオンはおびえた目で見上げている。
「・・・ぐに・・・くなるから・・・」
ごぼごぼとくぐもった声をしていた。
「このバカっ!! なにがすぐによくなるだ。待ってろ、マーガレットを呼んで来る!」
マーガレットは物置で抗血清の精製に取り組んでいる。
ホームの子供たちに抗血清はいき渡っているが、フロークの町の子供たちにも急いで届けなくちゃならない。しばらくはカンヅメだと言っていた。
隠し部屋に戻りルシオンの症状を診たマーガレットは色を失った。
「不安が・・・現実になってしまった・・・・・・」
マーガレットの説明によるとベサラウイルスが息を吹き返しているらしい。
一度はルシオンの体内に生まれた抗体によって数を減らされていたのが、血液を抜き取られ抗体の数が減ったことで再び増殖してしまったんだ。
だとしたら変じゃないか? 前は血を吐いたりはしなかったのに。
とにかくベサラなら抗血清で治療できるはずだと、マーガレットはできたばかりの抗血清をルシオンに投与した。
ところが―――
症状は治まるどころかますます悪化していった。
原因を探るためルシオンの身体をむしばむベサラウイルスを調べてみた。
その結果にオレたちは愕然とした。ウイルスの形がすっかり変わっていたのだ。同じベサラウイルスでも形が違うと抗体は効かない。
しかも増殖の速度がこれまでのものより格段に速い。普通のベサラなら吐血の症状がでるまでには数日かかる。これはもう激性ベサラと呼ぶべきものだった。
「このままじゃ、ルシオンくんは・・・・・・」
ぼう然とつぶやくマーガレットがどんな未来をみているのかオレにはわからない。だが、おびえきった表情は明らかに最悪の事態を思い描いている。
それでもこいつを救えるのはマーガレットだけだ。
「な、なんとかしろよ」
声が震えるのを抑えることはできなかった。
「とにかく、輸血しましょう。このままでは失血死してしまうわ」
マーガレットは丈夫な革でできたベルトのようなものを4本差し出した。
「これでルシオンくんの手足をベッドにしばり付けて。ゆるまないようにきつくよ」
「なんでそんなことしなくちゃならないんだ?」
マーガレットはオレの顔を見ることなく答える。
「暴れられては輸血ができないからよ」
どういう意味だ?
オレはその質問を口にできなかった。答えを聞くのが恐ろしかったんだ。
なんとか輸血をはじめることはできた。だが、吐血は止まらない。輸血した分だけ出ていっちまう。これじゃらちが明かないじゃないか。
「なんだってこんなに血を吐くんだ?!」
振り向いたマーガレットは表情を消した顔をしていた。無理やりに感情を押し込めてるみたいに。
「標本の猿がどうなっていたか思い出してみて」
オレの脳裏に体内で爆発が起きたような猿の姿が蘇る。空洞になった猿の身体に内臓はなかった。
「ベサラ感染者の末期症状は内臓が溶けてしまうの。内側から腐っていくようにね。だから、中が空っぽになるまで吐血は止まらない。
普通の人間はそんな状態には耐えられないからすぐに死亡する。でも・・・この子は・・・・・・」
オレの全身は凍りついた。足の下に地獄が口を開けて待ち構えているのが見えるようだった。
鎮痛剤が効かなくなってからのルシオンの苦しみようは、地獄だった。
もだえ苦しむ身体はしばり付けているベルトを引きちぎりそうな勢いで引っ張るから、ベッドがきしんでイヤな音をたてる。
身体をよじる度に鮮血が口からあふれだし、白いシーツを赤く染めていく。
大きく見開かれた両目は地獄の底をのぞいているように暗く、もはやなにも映しちゃいない。うめき声は叫び声に変わり悲痛な声に耳をおおいたくなる。
「・・・・・・なんとかしてやれないのか。このままじゃ・・・あんまりだ!!!」
見るにたえない惨状に悲鳴をあげたオレの声はひどくしゃがれていた。
「無理よ。こうなってしまったらどんな強力な鎮痛剤も役にはたたないわ」
マーガレットの声も押しつぶされている。
オレはベッドの柵にしばり付けられているルシオンの手を取った。ありったけの力で握り返してきて手の甲に爪が突き刺さる。激痛が腕をかけ上がり血が流れ出した。
「なにしてるの! 手を放して!!」
マーガレットが叫んだ。オレはもう片方の手も添えて両手でしっかりとルシオンの手を握りしめた。
「オレには何もできない。何もしてやれない」
マーガレットはそれ以上オレを止めようとはしなかった。
どれだけの時間がすぎたのだろう。ベルトでしばり付けられているルシオンの手首からは血がにじんでいた。もがき暴れるうちに皮膚がこすれて破れてしまったんだ。
劇性ベサラは容赦なくルシオンの体力を奪い去っていく。動ける体力など残っているはずもないのに激痛が無理やりに小さな身体を突き動かす。
声は枯れ、今はもうかすれたうめき声しかでない。
意識がなければこんなに苦しむこともないだろうに、内臓が溶ける痛みがどれほどのものなのか、気絶という救いさえ与えてはくれない。
オレは手の中で相棒が衰弱していくのを直に感じていた。手を握り返す力が次第に弱まっている。
「もう・・・限界よ」
マーガレットが沈痛な面持ちでオレを見た。
「・・・・・・楽にしてあげましょう」
楽にするって、どういう意味だ?
オレの心臓は激しく脈を打ちはじめている。
「輸血用の血液も底をついたわ。どちらにしてもこのままでは失血死する。これ以上は苦しみを長引かせるだけよ」
特殊能力者にふつうの人間の血を輸血することはできない。エルンストが用意してくれたストックだけが頼みの綱だった。
マーガレットは青い液体が入った注射器を見せながら淡々と話を続ける。
「これを静脈に注射するだけで、苦しむことなく静かに息を引き取ることができるわ」
そして甘い言葉を繰り返す。
「楽にしてあげましょう」
オレだって、できることならルシオンをこの地獄から解放してやりたい。
血を吐き、もだえ苦しみながら衰弱していく相棒を見守ることしかできないのは、やっぱり地獄だ。心臓を握りつぶされるようなこの苦しみから解放されるのなら・・・・・・
「・・・おまえは・・・・・・どうして欲しい?」
オレはもうろうとしているルシオンに問いかけた。なにも聞こえちゃいないと知りながら。
そのとき、金色の光がオレの目を射た。ルシオンの首にからみついている細い鎖が部屋のあかりを反射していた。
「マーガレットさん。正直オレもそうしてやれたらと思うよ。でもさ、こいつはそう簡単に死ぬワケにはいかないんだ」
オレは鎖に下がっているロケットを手に取ってふたを開けた。そこに張り付けてある写真にはルシオンと女が並んで写っている。
黄金の髪とアメジストの瞳をした艶やかな女の名はファラムリッド・ロイエリング。
要塞島フォート・マリオッシュで知り合ったアビュースタ軍の大尉で、スカイフィッシュ部隊の隊長を務めている。軍人ギライいのオレだがこの女隊長は例外だ。
そのひとはルシオンにこう言った。
「生きろ。私の知らないところで勝手に死ぬことは許さない」
「その女性は誰なの?」
ロケットの中をのぞいてマーガレットがきいてきた。
「ルシオンの家族だ」
「ずいぶんと若い母親ね」
知らないヤツにはそんな風に見えるのもしょうがない。それぐらい仲がよさそうに写っている。実はかなり複雑な関係で簡単には説明できないんだが。
「違う。母親は別にいる」
オレは自分の言葉にはっとした。
そうだよ。いるじゃないか!! こいつに血を分けてやれるひとが!
希望を見出したオレは隠し部屋から出て行こうとして足を止め、マーガレットを振り返る。
そう言えばなんだって安楽死用の薬なんか持っていたんだ?
本当はマーガレット自身が使うために用意したんじゃないのか。きっと今回の件の責任を取るつもりだったんだ。
もしもルシオンに使うようなことになればこの女も生きてはいないだろう。
「今助けを呼んでくるから絶対に安楽死なんかさせんなよ!」
オレはマーガレットが早まったことをしないよう釘を刺してから外に飛び出した。
隠し部屋から出ると外は明るかった。太陽は空高く昇っている。オレは急ぎホームへと向かう。そこでは今も子供たちの看病が続けられていた。
昼も夜もセキをする子の背中をさすり、熱がある子の汗を拭いていたのだろう。看護人たちはみんな疲れた顔をしている。
それでも表情が明るいのは、抗血清が効いて回復に向かっているからだ。
オレは忙しそうに子供たちの世話をしてまわっているレイチェルに近づき声をかける。
「レイチェル」
ほおにかかる髪をかき上げながらオレを見上げる顔にドキッとした。
ああ。やっぱり親子なんだな。よく似てる。
「あんたの助けが必要なんだ。なにもきかず一緒に来てくれ」
事情を説明しているヒマはなかった。レイチェルはじっとオレの目を見ている。
「わかったわ」
このひとの察しのよさには助けられる。
「恩に着る」
隠し部屋に入ったレイチェルは言葉をなくし立ちつくしていた。めまいがしたのかふらりと傾いた身体を支えてやる。
血臭がたちこめる室内の凄惨な光景を見たら誰だってそうなるさ。
しかも、レイチェルには血まみれのベッドに横たわっている少年に見覚えがあるはずだ。その姿を目にして冷静でいられるワケがない。
「・・・まさか・・・・・・そんな・・・・・・」
つぶやいたレイチェルの顔は引きつっていた。見てはいけないものを見てしまったときみてえに。
「ききたいことはたくさんあるだろうが、今は時間がないんだ。こいつを助けてやってくれ。あんたの血が必要なんだ」
ベッドにしばり付けられたルシオンは、かすれたうめき声をあげながらもうろうとした視線を宙にさまよわせている。輸血中の血液製剤も残り少ない。
死の闇がルシオンを飲み込もうとしている。
ルシオンからレイチェルが自分の母親だと聞かされたとき、エルンストに頼んでふたりのDNAを調べてもらった。親子であるという確証が欲しかった。
だが、わかったのはそれだけじゃない。レイチェルもヴァイオーサーだったのだ。
ごく弱い特殊能力しか持たない者は、自分がヴァイオーサーであることに気付かないこともあると言うから、レイチェルもそうなのかもしれない。
今、ここでルシオンに血を分け与えることができるのはレイチェルだけだ。
「頼む。死なせないでくれ」
オレは祈るような気持ちで懇願した。レイチェルはまだ混乱から抜け出せてはいないようだったがそれでも毅然としていた。
「わたしの血で助けられるのなら使ってちょうだい。死にかけている“人”を見殺しにはできないわ」
レイチェルは息子の名を口にはしなかった。それでも血を分けてくれると言う。
細いチューブを伝って母から子へと命をつなぐ赤い液体が流れていく。ソファに横になったレイチェルは、血を吐きながら苦痛にもだえるルシオンの横顔を見つめていた。
死んだはずの息子が生きていた。それだけでもカウンターパンチだったろうに。5年もたって突然引き合わされたと思ったら、変わり果てた姿で死にかけてるんだもんな。
彼女は今、どんな気持ちでいるのだろう。
こんな残酷な再会を演出してしまったことは本当にもうしワケないと思う。
ルシオン。おまえは気付いてないだろうけど、今、すぐそばにレイチェルがいるんだぜ。おまえを助けるために血を分けてくれてる。
後で教えてやったらどんな顔をするだろう。いや。無表情のままかな。それでもうれしいに決まってる。だから負けるな!
輸血は大成功だった。ルシオンの苦しみを長引かせるだけにはならなかったのだ。
なにが幸いしたのかわからない。だが、確実にレイチェルの血液はルシオンの体力を回復させてくれた。
体力があれば免疫が働く。常人にはない最強の免疫だ。少しずつ吐血の量が減って静かになったと思ったら気を失っていた。今はもう深い眠りについている。
オレは血まみれになったロケットペンダントをきれいにして相棒の首にかけてやった。
これがなければあきらめて安楽死の道を選択していたかもしれないと思うとぞっとする。
こいつはルシオンの命をつなぐ、細いけどとてつもなく強い鎖なのかもしれない。
それが呪いなのか希望なのかオレにはわからないけれど、とりあえず、贈り主の女隊長に感謝しておこう。